第63話 甘き夢の世界
実験を開始する。
被験体は、この世界そのもの。
そして、観測対象は、このこの世界と私自身の心。
実験方法は、ただ一つ――私が、この世界が望むであろう、「主人公」を演じる。
これまでの私は、あまりにも合理的すぎた。あまりにも、異物すぎた。
ならば、私が、記憶にある「物語」の主人公のように、か弱く、心優しく、そして、少しだけ健気な少女として振る舞った時、この世界は、登場人物たちは、どのような反応を示すのか。
これは、世界の法則性を探るための、科学的な実験だ。
最初の目標は、エイデン第一王子。
記憶によれば、彼は、この物語の「正ヒーロー」。
(……記憶にあるゲームでは、エイデン殿下との関係は、この学園での朝の鍛錬イベントから本格的に始まった。王宮での求婚や、この前の劇的な再会は、本来の筋書きにはない、私が作り出したイレギュラー。ならばこそ、このイベントをなぞった時、既に私への好感度が異常なまでに高い彼が、そしてこの世界がどう反応するのか。観測データとして、これ以上なく興味深い)
私は、ゲームのヒロインが初めて彼と出会うはずの、彼が早朝に鍛錬をしている庭園へと、足を運んだ。
「もっと強く、もっと速く……! 僕は、彼女を守れる男にならねば……!」
薔薇のアーチの向こうで、エイデン王子が、汗だくになって木剣を振るう姿が見える。
以前の私なら、彼のその甘い感傷を、「非合理的だ」と、心の中で切り捨てていただろう。
そう、彼がいくら修行したところで、あのゲーレンに勝てるはずがないのだ。冷静にその思いが浮かび上がってくる。
いや、そんなこと、考えていたらいけない。
記憶にある「ヒロイン」ならば、一体どうするか? 今はそれを考えなくてはいけないはずだ。
答えは、決まっている。
私は、メアリーに用意させておいた、冷たい水差しと、清潔なタオルを手に、彼の元へと、静かに歩み寄った。
「……エイデン殿下。朝早くから、力が入りますね」
「……! リ、リオ姫! なぜ、君がここに……!」
驚きに目を見開く彼に、私は、練習してきた、少しぎこちない淑女の笑みを向けた。
「一生懸命な殿下をお見かけしましたので。どうぞ、お使いくださいませ」
私が差し出したタオルを、彼は、まるで宝物でも受け取るかのように、恐る恐る手に取った。
「……あ、ありがとう……。だが、君に、こんなことをさせて……」
「いいえ。……大したことはしていませんわ」
私が静かにそう言うと、彼は苦しそうに顔を歪めた。私の言葉が、意図せずして彼の心を傷つけたことに、私は気づかないふりをした。
「……僕にだって、本当は分かっているんだ。君が、ロキヌスへ行った本当の理由は」
「……わたくしは、ただ、皇帝の座が欲しかった。それだけですわ」
私は、必死に仮面を貼り付けて、そう言い放つ。だが、彼の真っ直ぐな瞳に見つめられると、声が僅かに震えてしまいそうになる。
「……そうか。君は、そう言うんだな」
彼は、悲しそうに微笑んだ。
「でも、僕は、君がたった一人で敵国へ向かったと聞いた時……何もできなかった自分が、ただひたすらに憎かった。でも……っ」
彼が、一歩、私に近づく。
「君の顔を見たら、そんなことはどうでもよくなった。……生きていてくれて、本当に……よかった……」
その声は、絞り出すようで、彼の万感の想いが込められていた。
朝の柔らかな光の中で、二人の間に、ぎこちない、しかし、慈しみに満ちた沈黙が流れる。
私の胸の奥が、きゅん、と、甘く締め付けられた。
(……なんだ、この感覚は)
これは、リオの感情だ。そうに違いない。
だが、その感情が、まるで、自分自身のもののように、温かくて、心地よかった。
その日、私たちは、一日中、共に過ごした。
講義を抜け出し、二人で、学園の温室を散策した。
彼は、花が好きだと、照れながら教えてくれた。
私も、記憶の底にあった知識を引っ張り出し、一番好きな花は、白詰草だと答えた。
花言葉は、「私を思って」、そして、「復讐」。
彼は、後半の意味には気づかず、ただ、「君にぴったりの、可憐な花だ」と、嬉しそうに微笑んだ。
昼食は、中庭のベンチで、二人きりで食べた。
彼が、子供の頃の話をしてくれた。
魔法が苦手で、弟のセラス殿下に、いつも馬鹿にされていた、と。
その寂しそうな横顔を見ていると、私の胸の奥が、また、ちくりと痛んだ。
守ってあげたい。この、不器用で、優しい人を。
そんな、以前の私なら、絶対に抱くはずのなかった、非合理的な感情が、止めどなく、溢れてくる。
(……まずい。これは、まずい)
「私」の思考が、警鐘を鳴らす。
(感情移入は、危険だ。客観的な観測ができなくなる。彼は、あくまで、実験対象であり、政治的な駒に過ぎない)
そう、頭では、分かっている。
分かっている、はずなのに。
その日の、夕暮れ。
散策を終え、寮へと戻る途中。
彼が、不意に、私の頬に、そっと、手を伸ばした。
「……髪に、花びらが、ついている」
そう言って、彼が、指先で、花びらを取り除いてくれる。
その指が、私の頬に、ほんの僅かに、触れた。
その、瞬間。
私の心臓が、大きく、跳ねた。
顔が、カッと熱くなる。
(……なんだ、これは。なんだ、この、異常な反応は)
心拍数の急上昇。血圧の上昇。
これは、戦闘時の、アドレナリンの分泌とは、全く異なる反応。
未知の、データ。
未知の、感情。
「……姫君?」
私の様子がおかしいことに気づいたのか、エイデン王子が、心配そうに、私の顔を覗き込む。
その、あまりにも優しい瞳に見つめられて、私は、もう、何も、考えられなくなった。
その夜。
私は、一人、自室のベッドの上で、頭を抱えていた。
実験は、大成功だった。
私が「ヒロイン」として振る舞えば、この世界は、まるで、そうなることが決まっていたかのように、甘く、優しい物語を、私に提供してくれるらしい。
だが、その代償として、私は、とんでもないものを、得てしまった。
エイデン王子に触れられた時の、あの、胸の、高鳴り。
彼と過ごした、一日が、ただ、純粋に、「楽しかった」と感じてしまった、この心。
これは、もはや、リオだけの感情ではない。
彼女との精神の融合は、私が思っている以上に、進んでいるのかも。
冷徹なはずの「私」の魂が、彼女の、乙女心という名の、甘い毒に、少しずつ、侵食され始めている。
いや、もっと以前から徐々にではあるが、私の判断が捻じ曲げられてきた。そう、ホパ村での最初の戦いの時から。
それが、この学園では、一気に加速していくような感覚。
だが、それがどのような意味を持つのか、まだわからなかった。
「自分を保てるのだろうか、私は」
私は、誰に言うでもなく、呟いた。
「……だが、この記憶の意味を確かめるまでは、この危険な実験を止める事はできない」
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