第46話 残された謎
舞踏会からサンジェルマン家のタウンハウスに帰宅した時、私の心は硝煙と薔薇の香りが混じり合ったような、奇妙な思考の中を彷徨っていた。
つい先程までいた王宮のバルコニー。
エイデン王子に触れられた指先の微かな熱と彼の求婚、ゲーレンという過去の亡霊が放った殺意の冷たさ、そして国家転覆という血生臭い言葉。
それら全てが現実感を失い、考えたくないのに、まるで悪夢の残滓のように思考の表面を滑っていく。
今日は、私のとって本当に長い一日だった。色々な事がありすぎた。
玄関ホールに足を踏み入れると、ふわりと温かいミルクティーの甘い香りが鼻をくすぐった。その香りの先で、専属メイドのメアリーが、夜遅い主人の帰りを待つ、完璧な笑みを浮かべて佇んでいた。
「おかえりなさいませ、お嬢様。素敵な夜でしたでしょう。さあ、お疲れでしょうから、すぐに…」
その、どこまでも穏やかで、疑いようもなく「平穏」な世界の言葉。今の私には、あまりにも眩しく、そして遠いものに感じられた。彼女の言葉と、その完璧な笑みは、アノンに護衛された私の姿を完全に認識した瞬間に、ぴたりと凍り付いた。
彼女の大きな瞳が、信じられないものを見るかのように、大きく、大きく見開かれる。
「……おじょう、さま……?」
彼女は息をのむ。そして、次の瞬間、静寂を切り裂くような絶叫がホールに響き渡った。
「お嬢様! その、おいたわしいお姿は、一体、何事ですの!」
メアリーは私に駆け寄るが、その目は私の安否など一切気にかけていない。その視線が突き刺さるのは、ただ一点。私が纏う、今は見る影もなくなった夜会用のドレスの残骸だ。
バルコニーと大広間での激しい戦いで、優美だったはずのドレスは、見るも無惨な状態だった。縫い付けられた宝石は取れ、刺客の血に染まり、職人芸ともいえるほど繊細に彩られたフリルも、刺客のさるぐつわやエイデン王子の腕を吊るための即席の包帯と化し、無残に引きちぎられている。昼間のアザックとの戦いで一着ダメにしたばかりだというのに。
「ははっ……」
あまりの剣幕に、私は乾いた笑いで誤魔化そうと試みた。だが、その弱々しい抵抗は、彼女の嘆きによって即座にかき消される。
「ドレスが! ドレスが、完全に息絶えております……! なんてかわいそうなことを!」
メアリーが、まるで我が子を失った母親のように、悲痛な叫びを上げた。その手は、破れた生地の端を、そっと慈しむように撫でている。
「昼間の一件もございましたのに! なぜ、一日に二着も! お嬢様は、可憐なドレスに何か個人的な恨みでもおありなのですか!?」
死線を何度も、それこそ毎回くぐり抜けてきたのだ。もう少し、ドレスではなく、その中身の心配をしてくれてもいいと思う。そんな理不尽な思いが胸をよぎるが、彼女の剣幕を前に、そんな正論は口にできなかった。
「いや、でも、これは王都を救うために、私が、その……仕方なく戦って……」
「以前、あれほど申し上げたはずです! ドレスをお召しになった女の子は、戦ってはいけません、と!」
彼女の剣幕に、私は思わずたじろぐ。
このメイドは、時々、私が対峙したどんな敵よりも恐ろしく感じられる。
「それにしても、王子様がエスコートなさっていたというのに、殿下は一体何をしておられたのかしら! 聖女様をお守りすることもできないなんて、まるで役立たずですわ!」
公爵令嬢のメイドが、王族に対して、平然と不敬極まりないことを言っている。アノンやシオンならともかく、普通のメイドが口にしていい言葉ではない。この封建社会において、彼女の私に対する忠誠心は、時として王家への敬意をも上回るらしい。
「はいはい、ごめんなさい~」
心身ともに疲れ果てていた。ゲーレンとの戦闘、エイデンとのやり取り、そしてシオンの視線。思考すべきことは山積している。今はただ、この嵐が過ぎ去るのを待つしかない。私は適当に返事をして、この場を収めようとした。
「いいえ、お分かりになっておりません! 罰として、今日はお嬢様の心身に染み付いた、その野蛮な気風を、わたくしが徹底的に洗い流して差し上げますわ!」
その言葉を最後に、私の意識は抵抗を放棄した。こうして、その夜、私はメアリーによってバスルームへと連行され、戦場の汚れも、心の澱も、全て洗い流すかのように、隅から隅まで徹底的に磨き上げられることになったのだった。
◆
薔薇の香油が焚かれた、広々とした自室。
メアリーによる丁寧すぎる「トリートメント」を終え、肌触りの良いシルクの寝間着に身を包んだ私は、一人、天蓋付きのベッドの上で膝を抱えていた。湯気で火照った体とは裏腹に、私の心は、凍てつくような思考の海に沈んでいた。
あの仮面の男、ゲーレンが最後に言い残した言葉が、頭の中で何度も反芻される。
『――最後に一つ、和平は潰え、もはや戦いは避けられない。さぁ、破星よ、ロキヌスに来るがいい』
ロキヌスへ私を誘う、あの傲慢な声。彼は、私の前世を知っていた。ならば、ロキヌスには、私が何者であるかを知る手がかりがあるに違いない。だが、それは、私が最も知りたくない情報である可能性もあった。
『それで君の最終的な役割を判断するとしよう』
彼の言葉が、再び脳裏をよぎる。まるで、私が彼の駒であるかのような物言い。そして、私自身、その言葉にどこか抗えないものを感じている。
『計画の、残骸……』
私の死が、何かの「計画」の失敗を意味するのだとしたら。
彼は、なぜ、いまさら私にそれを思い出させようとする?
私は、ただ、平穏に生きたいだけなのに。
前世の因縁も、何もかも、全て忘れて、ただのリオとして生きていけたら。エイデン王子と過ごしたあの穏やかな時間。メアリーに叱られる馬鹿げた日常。それこそが、血と硝煙にまみれた人生を送ってきた私が、求めていた平穏なのかもしれない。
だが、ゲーレンの出現は、そんな甘い夢を許さないと、明確に告げていた。
ならば、どうしたらいい? どこか遠い所へ逃げる?
全てを捨てて、アノンと共に、誰も知らない場所へ行けば、あるいは……。そんな、あり得ない甘い考えが、疲弊した頭をよぎる。
いや、人外の存在であるゲーレンは、どこへ逃げようと、必ず私を追いかけてくるだろう。彼から逃げ切れる保証など、どこにもない。
それに、もし私が手をこまねいていれば、ゲーレンが言うように、やがてロキヌス帝国はナブラ王国へ侵攻してくる。メサリアは再び戦火に包まれ、この王都も無事では済まないだろう。そうなれば、私が手に入れかけたささやかな日常も、全て灰燼に帰すに違いない。
私は行くしかないのか? ロキヌスへ。
自ら戦いの渦中へ飛び込むことが、皮肉にも、平穏を守るための唯一の道だとでもいうのか。
私は、窓ガラスに映る、自分ではないような磨き上げられた美少女の姿――リオ・ヴィ・サンジェルマンの顔を、まっすぐに見つめた。
その瞳の奥にいる、もう一人の私に、語りかける。
あなたは、どうしたいの。
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