第38話 謁見の間
国王陛下へ拝謁する日の朝は、夜明けと共に始まった。
メアリーを筆頭とするメイドたちが、私の体を磨き上げ、髪を結い、てきぱきと「公爵令嬢」という名の芸術品を完成させていく。
昨夜は執事と国家転覆の密談を交わしていたというのに、今日この場では、貴族然とした聖女の振る舞いを完璧にこなさねばならない。
煌びやかなドレスを纏い、陰謀の毒気を心の奥底に封印する。
準備を終えた私と、護衛として付き従うアノンは、壮麗な王宮の、その最奥にある謁見の間へと通された。
磨き上げられた大理石の床、天を衝くような円柱、壁という壁に施された精緻な彫刻。
そして、玉座に座す国王と、その左右に並ぶ、居並ぶ大貴族たちの値踏みするような視線。
礼儀作法の練習の成果を、今こそ見せる時だ。
ここで失敗して国王の不興を買えば、シオンの過激なシナリオに舵を切らざるを得なくなるかもしれない。
私の周りには、血の気の多い奴や、危ない思想にかぶれた奴しかいないのだから。
国王は知らないだろうが、これは、正に国家の命運を左右する、一世一代のカーテシーである。
私は、シオンに教わった通り、優雅に、完璧に、その身を沈めようとして――
その時、抗いがたい力に引き寄せられるかのように、私の視界に、急速に床が近づいてきた。
(……この不思議な力は。なるほど、自然界に存在する四つの力のうちの一つ、重力か。重力加速度g=9.8m/s²。どうやら、この世界の物理法則は、やはり元いた世界と同一らしい)
そんな、場違いな分析が脳裏をよぎる。
原因は分かっている。練習の時よりも、遥かに重く、長いスカートのドレス。
そして、凶器のように高く、細いヒールの靴。
その存在を、私は完全に忘れていただけだった。
そう思った瞬間には、私は、国王の目の前で、派手な音を立てて突っ伏していた。
水を打ったような静寂の後、ざわざわ、と、抑えきれない貴族たちの囁き声が広間を満たす。
(……このスカートとヒールめ……!)
前世でも、今世でも、これほど不慣れで、非合理的な装備はない。
上等だ。今すぐ、国家転覆してやろうか。
やがて、囁き声は、隠す気もない嘲笑へと変わった。
私が声のする方へ顔を向けると、私の後ろに控えていたはずのアノンが、肩を震わせ、必死に笑いをこらえている姿が目に入った。
(……貴様、後で覚えておけ)
すぐに、立たなければ。
そう思った私の目の前に、すっと、白い手袋に包まれた手が差し出された。
男性の手だが、アノンではない。奴は、まだ後ろで笑っているし、こんな華奢な手とはちがう。
私がおもむろに顔を上げると、そこに、作り物のように美しい青年が、穏やかな笑みを浮かべて立っていた。
「お怪我はありませんか? 姫君」
この手を取らねば、失礼にあたるのか。
私がそんなことを考えていると、その貴公子は、私の手を優しく掴み、引き上げてくれた。
「貴方は……」
一体、誰だ。この華麗な服装からして、ただの貴族の子息ではない。王族か。
シオンから叩き込まれた重要人物リストを、必死に記憶の底から探るが、何も出てこない。
「第二王子のセラスと申します」
長い沈黙に、彼の方が痺れを切らしたらしい。
セラス王子。ああ、超重要人物だ。
どうにも、私の脳は権力者の名前を記憶することを拒むらしい。
「……ありがとうございます、セラス殿下」
「其方が、噂のサンジェルマンの姫君か。報告で想像していたのとは、大分違うな。これほど線の細い姫君に、本当に特級魔族が殲滅できたのか?」
「……?」
「いや、もっとこう……熊か猪のような、怪物じみた女傑かと。これは、とんだ見当違いだった」
怪物。
その一言が、私の心の、ちょっと気にしている部分を、いとも容易くこじ開けた。
自分がどう考えても、普通じゃないことぐらい、わかっている。
悩んでいるのに。
私は、セラス王子の手を、反射的に振りほどいていた。
「こんな場所で転んだ私が申し上げるのも何ですが、殿下は、大変失礼な方ですのね」
平穏に暮らしたいだけの、ただの少女を捕まえて、怪物とは、何だ。
「フッ、これはすまんな。だが、そなたが単騎で特級魔族を滅ぼしたということが、どうにも信じられなくてな。それは、並の聖女ではないということ。騎士を強化するだけでなく、自らも戦えなくては、到底不可能な偉業のはずだ」
セラス王子の言葉に、周囲の貴族たちが『単騎で、だと……』『まさか、初代大聖女の再来か』と、再びざわつき始めた。
「国王陛下! そのようなこと、このか弱い姫君に可能だとお思いですか! それだけでも怪しいのに、軍略によってメルギド軍を退けたという、荒唐無稽な報告まである! これほど見え透いた嘘を重ねてまで、この娘を大聖女候補にねじ込もうとする、腹黒いサンジェルマン公爵が、何かを企んでいるに違いありませぬ!」
セラス王子は、この機に、私とサンジェルマン家をまとめて叩き潰すつもりらしい。
「セラス、それは言葉が過ぎるぞ。メサリアで、特級魔族が討伐されたのは、紛れもない事実ではないか」
助け舟を出してくれたのは、セラス王子とは対照的に、誠実そうな雰囲気を纏った、もう一人の貴公子だった。
「兄上、事実など、いくらでも偽造できます。我々が見たのは、サンジェルマン家から提出された報告書という、ただの紙切れ。陛下、それにどれほどの意味がございましょう!」
兄上。彼が、エイデン第一王子か。
なるほど、兄弟仲は最悪らしい。
サンジェルマン公爵は第一王子派、対するナイジェル公爵は第二王子派。
シオンの言葉が、今更ながらに思い出された。
「うむ……」
玉座で沈黙を守っていた国王が、初めて口を開いた。
「当人を見る限り、確かに、サンジェルマンの姫君が特級魔族を単騎で討ったという報告には、いささか疑念の余地があるな。にわかには、信じがたい」
国王の視線が、私を射抜く。
これは、まずい流れだ。
「いかがでしょう、陛下! 我が国が誇る宮廷魔術師、大魔導士アザックに、この姫君の実力を見極めさせては! それで、全てが明らかになりましょうぞ!」
セラス王子が、勝ち誇ったように提案する。
「お待ちください、陛下! あの戦闘狂アザックを、このような姫君に差し向けるなど、正気の沙汰ではございません!」
エイデン王子が、慌てて制止する。
「兄上、ご心配には及びません。報告が事実であれば、返り討ちに遭うのはアザックの方。何の問題もありませぬ」
どうやら、私は、そのアザックという人物と、戦うことになりそうだ。
「どうだね、サンジェルマンの姫君。今この場で、君の実力を、我々に見せてはくれまいか?」
国王の、それは、命令だった。
後継者争い、派閥闘争。心底、面倒くさい。
いっそのこと、国家転覆に……いや、そちらの方が、もっと面倒だ。
こうなっては、やるしかない。
私は、今度こそ完璧なカーテシーを、国王の前で決めてみせた。
「陛下が、わたくしをお疑いとあらば、そのご期待にお応えするのが臣下の務め。ですが、ここは王宮。全てを吹き飛ばしては、後が大変でございましょう」
私は、そこで、にっこりと微笑んだ。
「そのアザックとかいう方とは、わたくし、魔法を使わずに、戦って差し上げますわ。いかがでしょう?」
広間が、三度、静寂に包まれた。
「……なに? 魔法を、使わぬ、だと?」
「その通りでございます、陛下」
「待て、サンジェルマンの姫君! そなた、アザックを知って言っているのか!? 『暴虐のアザック』! 奴は、女子供であろうと一切容赦せぬ、本物の戦闘狂なのだぞ! ロシェル大陸に悪名を轟かせる、あの虐殺者なのだ! わざわざ、セラスの挑発に乗ることはない!」
エイデン王子が、必死の形相で私を諭す。
「アザックという方は、存じ上げません。ですが、ご心配には及びませんわ、エイデン殿下」
本当に私が危なければ、後ろに控える本物の化け物が、黙ってはいないだろう。
「ははは! 面白い冗談だ! 衛兵、早くアザックを呼んで参れ!」
セラス王子が、高らかに笑う。
王子だの、派閥だの、どうでもいい。
だが、この国を平和裏に手に入れることは、私のささやかな生存にとって、必要なこと。
私がそう決めた以上、もう、どちらの王子も、王にはなれないのだ。無駄な足掻きを。
「相分かった。では、姫君には王宮の中庭で戦ってもらおう。アザックの奴に、この謁見室を壊されては、たまらんからな」
国王はそう言うと、一同に中庭への移動を促した。
新たな戦いの火蓋が、今、切られようとしていた。
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