第21話 貴族と義務を押し付けられる
貴族の館での、夢のような仮住まい生活が始まってから、一ヶ月が過ぎた。
毎日の食事は、村では一生かけても口にできないような贅沢品ばかり。
肉汁滴るステーキ、ふわふわの白いパン、色とりどりの果物。
私の体の中にいる村娘リオの、食に関するささやかな夢は、あっけなく、そして完全に実現されていた。
日課も定まってきた。
午前中は仮設病院へ回診に行き、患者の経過を観察する。
午後は貴族街の図書館に籠り、この世界の情報を貪るように頭に叩き込む。
そんな、奇妙に平穏な毎日だった。
「リオお嬢様。朝食のご用意ができておりますわ」
その朝も、専属メイドのメアリーに起こされ食堂へ向かうと、アノンとバーンに加えて、珍しい先客がいた。
聖女ラナだ。
「リオ。お父様からの伝言よ。明日の朝9時に、私の屋敷に来るように、ですって。急ぎ、相談したいことがあるそうよ。あ、そうそう、一応、お父様からの贈り物があるから、そのドレスを着てきた方がいいわよ」
一ヶ月前の、敵意に満ちた彼女とは少し雰囲気が違う。
どこか、ばつが悪そうな、それでいて何かを吹っ切ったような表情だった。
「わかったわ。お世話になっている身ですもの」
この快適な生活を提供してくれているのは、他ならぬ彼女の父親だ。無下には断れない。
◆
翌朝。
私が公爵の館へ向かうとなれば、護衛のアノンは当然ついてくるし、今や私の忠実な従者と化したバーンも、もちろん同行する。
ラナに案内され、私たちがサンジェルマン公爵の館へ足を踏み入れると、そこは謁見の間だった。
中央には公爵が厳かに腰掛け、その左右には着飾った貴族たちがずらりと並んでいる。
その中で、メイド服に白衣という出で立ちの私だけが、明らかに場違いな空気を放っていた。
(ドレスがどうとか言っていたが……朝っぱらから、何の集会だ?)
「さあ、お父様のところへ」
ラナはそう呟くと、私の手を引き、貴族たちが並んで作る中央の通路を抜け、公爵の玉座の前へと導いた。
「リオ嬢。貴族の暮らしはいかがかな? 用意させたドレスを着てこなかったのは、誠に残念じゃ。美しいものを見そびれてしまったわい」
「お心遣いの数々、心より感謝申し上げます、公爵閣下」
「うむ。ところでじゃが、先日よりの魔法勝負、我が娘ラナが、負けを認めた」
「……まだ一ヶ月しか経っておりませんが」
「一ヶ月で、十分じゃった」
公爵は、ラナの方へ視線を移す。
「ラナの治癒魔法を受けた者たちは、確かにその場で傷が癒え、痛みも消えた。じゃが、骨が歪んだまま癒着し、後遺症に苦しむ者が後を絶たん。一方、そなたが治療した者たちは、今なお痛みと不自由を訴えてはおるが……その回復ぶりは、医師たちも目を見張るほどじゃ。腕はまっすぐに、足は再び大地を踏みしめられるように、確実に快方へ向かっておる。どちらが真の『治癒』であったか、結果は明白じゃ」
ラナが、悔しそうに唇を噛んだ。
彼女も、この一ヶ月、私の患者たちの驚異的な回復ぶりを目の当たりにしてきたのだろう。
「よって、この勝負、リオ嬢の勝ちとする!」
公爵が高らかに宣言すると、謁見の間にいる貴族たちから、一斉に儀礼的な拍手が送られた。
このために、これだけの人間が集められていたのか。
「勝った場合の約束……覚えておるかな?」
「男爵の位と、聖女の称号、でしたか」
「うむ。これより、リオ嬢に男爵の爵位と、王国公認の聖女の称号を与える! これは王都の承認も得た、正式なものじゃ!」
再び、拍手が起こる。
私はその中で、ただ静かに頭を下げた。
「さて、リオ男爵。そして聖女リオよ。そなたの傍仕え、アノン殿にも騎士の称号を贈る。この意味が、わかるかな?」
「いいえ、わかりません」
私は即答した。
「おぬしたちは二人であるが、今この時より、正式な騎士団となったということじゃ。その実力は、ここにいる貴族諸君も、先の戦いでよく知っておる」
騎士団? 私たちが?
「公爵閣下。話が全く見えません」
「先の特級魔族襲撃で、我がメサリアの騎士団が壊滅的な打撃を受けたことは知っておろう。今、この街には、新たな騎士団が必要なのじゃ。そして、我が娘、聖女ラナも、そなたの騎士団に加入することが決まっておる」
「これで、わたくしもアノン様と、いつも一緒にいられますわね!」
ラナが、頬を染めて嬉しそうに言う。
なるほど。彼女が潔く負けを認めた理由は、これか。
「早速で悪いが、貴族としての義務を果たしてもらうぞ。任務の詳細は、ラナから聞くがよい」
だんだんと、自分の置かれた状況が見えてきた。
これは、叙勲などではない。事実上の、強制徴募だ。
魔族襲撃で生じた安全保障の穴を、私とアノンに押し付けようという魂胆。
領主からすれば、たった二人で一個大隊以上に匹敵するのだから、これほど都合の良い騎士団もないだろう。
それなら、男爵の位くらい、安いものか。
「……公爵閣下。話がどんどん進んでおりますが、私に拒否権は?」
「無論、ない。勝負に勝てば爵位を贈るという約束を、ワシは守った。今度は、そなたが義務を果たす番じゃ」
「……」
「どうしても断るというなら、この一ヶ月の食事代、宿泊代、メイド代をきっちり払ってもらうことになるのう。村娘が、一生かかっても返せまいがな」
完全に、嵌められた。
安寧な生活どころか、厄介事を押し付けられただけだ。
だが、ここで引き下がる私ではない。
「分かりました。男爵位と騎士団の件、謹んでお受けいたします。……ただし、公爵閣下」
私は、にっこりと、満面の笑みで切り返した。
「わたくしどもは、騎士一個大隊に匹敵する戦闘力を持つと、ご自身で評価なさいました。ならば、お給金も、騎士1000人分でお願いできますわね? 先にお金の話を持ち出されたのは、公爵閣下の方ですわ」
「ぬっ……!」
公爵の顔が、僅かに引きつった。
「わたくしは、単独で特級魔族をも葬った身。ならば、わたくしを縛るには、それ相応の対価が必要であることは、自明の理ではございませんか? はて、この街に、わたくしたちを力で押さえつけるだけの武力は、今おありでしたかしら?」
私は畳み掛ける。
「わたくしには、ご覧の通り、経済力はございません。メイド代も払えませんわ。ならば、金銭で縛るのが、最も確実かと。わたくしの弱点を、このように、ご進言いたします」
「ぐっ……。相分かった。その件については、後ほど、改めて交渉の場を設けよう」
交渉の余地あり。それで十分だ。
この一ヶ月、私はただ漫然と過ごしていたわけではない。
この世界で、私が本当に生き延びるために必要なものを、ずっと考えていた。
私の魔法無視は、攻撃魔法だけでなく、回復魔法も完全に無効化する。
それが、どれほど絶望的な能力か。これは素晴らしいチート能力などでは決してない。
あの治癒対決と、その後の図書館での調査で、この世界では医学が全く発達していないことを、私は突き止めた。
病や怪我は、全て魔法で治すのが常識。外科手術という概念すらない。
そんな世界で、もし私が大怪我を負ったら?
アノンが持っていた前世の回復薬は、もうない。ホパ村の棺《医療ポッド》も、今は使えない。
かすり傷一つが、致命傷になりかねない。
私がこの世界で生き延びるためには、魔法のポーションではない、本物の「薬」が必要だ。
化学合成された、抗生物質や鎮痛剤。
そして、それらを研究・開発・生産するための、科学技術研究所。
そのためには、莫大な資金と、組織的な後ろ盾が不可欠。
廃村の村娘に、そんなものが用意できるはずもない。
だが、男爵となり、聖女となった今の私なら?
◆
爵位授与式の後、私は公爵と二人きりで会談の席に着いていた。
狙いは一つ。騎士1000人分の給金を交渉材料に、科学研究所への支援を取り付けること。
「公爵閣下。『科学』をご存知ですか?」
会談は、私のその一言から始まった。
「科学? 聞いたことはないな」
「科学とは、その作用原理が明確な、新たな魔法理論体系のことです。通常の魔法と違い、神の力ではなく、世界の法則に直接干渉します。故に、一度技術が確立すれば、その行使に才能は一切関係ありません」
「……神の力に、因らない、だと?」
「ええ。魔法の才能がない村娘の私でも、特級魔族を打ち滅ぼすことができた。この意味が、お分かりになりますか? 公爵」
公爵の目が、鋭く光った。
彼が、ただの凡庸な貴族ではないことは、すぐに分かった。
一介の兵士が、訓練さえすれば、聖女や騎士と同等、あるいはそれ以上の力を手にする可能性。
それが、国家にとってどれほどの意味を持つか。
「そなたの言うことは、実績から信じざるを得まい。……リオ男爵。そなたは、一体何者なのだ?」
「さあ。それは、わたくしにも分かりません。ホパ村の村娘、リオ。今のところは、それが全ての答えですわ」
私は、本題を切り出した。
「わたくしは、この街に、その『科学』の研究施設を設立したいと考えております。騎士1000人分のお給金は、そのための資金です。だから、一切お値引きできません!」
公爵は、しばらく黙考した後、にやりと笑った。
「……面白い。よかろう。そなたの研究施設には、我がサンジェルマン家が最大限の援助を約束しよう」
話の分かる男で、助かった。
「ありがとうございます。それと……おまけで、ホパ村周辺の土地を、わたくしの領地として拝領できますでしょうか」
「あの滅びかけた寒村をか? 構わん、くれてやろう」
これで、全てが揃った。
貴族の地位、騎士団、研究施設への出資、そして、いずれ私の本当の拠点となるべき、ホパ村の土地。
私は、面倒事を押し付けられた。
だが、その厄介事を最大限に利用し、自らの生存圏を構築するための、最初の礎を、今、手に入れたのだ。
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