第20話 魔法文明の停滞
仮設病院での回診を終えた午後、私は貴族街の一角に佇む壮麗な石造りの建物――メサリアの公立図書館を訪れていた。
重厚な扉を開けると、ひんやりとした空気と、古い羊皮紙と革の匂いが私を迎える。
高い天井まで届く書架が整然と並び、静寂の中、人々が黙々と書物を紐解いていた。
席につき、一冊の本を開く。
そこに綴られた複雑な文章を、私は何の問題もなく読み解くことができた。
(……奇妙だ)
この時代の、それも貧しい村で育った少女が、これほど高度な識字能力を持っているはずがない。
リオの記憶を辿っても、彼女がこれほどの教育を受けた形跡は見当たらない。
魂が混濁した影響で、「私」の言語能力が、この世界の文字体系に無意識にマッピングされているとでもいうのか。
謎は深まるばかりだった。
まず私が手を伸ばしたのは、もちろん魔法関連の書物だ。
貴族が利用する図書館だけあって、その蔵書量には期待したいところだった。
しかし、期待は早々に裏切られた。
『聖なるマナの源泉』『神々の御業とその奇跡』『光の魔法叙事詩』――。
どの本を手に取っても、そこに記されているのは、ひたすら「神は偉大である」「魔力は神の恩恵である」といった、経典の焼き直しのような精神論ばかり。
魔法の原理や、そのエネルギーがどこから来るのかといった、私の求める客観的で系統的な知識は、どこにも記されていなかった。
(……なるほど。この世界では、魔法は「科学」ではなく「宗教」の領域か)
思考が停滞している。
未解明な現象があれば、全て「神の御業」か「悪魔の仕業」で片付けられてしまう。
その原理を解明しようという知的好奇心も、その必要性すら、この世界の人々にはないのかもしれない。
「必要は発明の母」というが、この世界には「魔法」という万能の母が存在する。
火が欲しければ魔法を使い、水を欲しければ魔法を使う。
努力や探求をしなくても、基本的な欲求が満たされてしまうのだ。
これでは、科学技術が育つはずもない。今後何百年経っても、この世界でマッチが発明されることはないだろう。
私が望むような研究書が、貴族の利用する図書館にすらない。
それはつまり、この国には魔法を体系的に研究しようとする者さえ、ほとんどいないという証明だった。
元の世界であれば、「なぜ魔法の炎は術者の手を焼かないのか」「治癒魔法は、どのような原理で細胞を再生させているのか」といった根源的な問いが、すぐにでも生まれるはずだ。
だが、この世界には、その「なぜ」を問う土壌そのものがあまりにも乏しい。
自然科学や数学に関する書物が、不自然なほど少ないことが、それを雄弁に物語っていた。
魔法の本は期待外れだったが、私は思考を切り替えた。
直接的な答えがないのなら、間接的なデータから世界の法則を推測するまでだ。
私は地理、経済、歴史、そして戸籍資料といった、この世界を構成する社会科学の書物を、片っ端から閲覧し始めた。
村限定のリオの記憶しかなかった私にとって、この世界の全体像を把握することは、今後の生存戦略を立てる上で不可欠な作業だった。
まずは地理の本から読み進める。
やはり、というべきか、地図の精度は低い。
数学、特に三角法の知識がなければ、正確な測量などできるはずもない。
今後の調査のためには、いずれ私自身が高精度の地図を作成する必要があるかもしれない。
それでも、いくつかの重要な情報は得られた。
この世界の名前は「ファンテェーン」。私たちがいるのは「ロシェル大陸」。
そして、今滞在しているナブラ王国は、西に敵対している軍事国家である「ロキヌス帝国」、北にナブラの五倍はあろうかという大国「ゲメリア神聖国」、南に商業が盛んな「サパー共和国」と国境を接している。
メサリアは、そのナブラ王国の西端に位置し、ロキヌス帝国との国境に近い、軍事的な要衝であることも分かった。
次に、役人が編纂したと思しき、領内の戸籍や農業生産に関する報告書に目を通す。
そこで、私は奇妙な事実に気づいた。
この世界の文明レベルから考えると、不自然なほど高齢者の人口が多いのだ。
これは、治癒魔法の恩恵によって、平均寿命が底上げされている結果だろう。
魔法が、社会の隅々にまで深く浸透している証拠だ。
しかし、データを詳細に読み解いていくと、新たな謎が浮かび上がった。
大陸の北側と南側で、農業生産量に大きな差はない。
それなのに、高齢者の人口は、なぜか北側の集落に偏在している。
南へ行くほど、高齢者の比率が明確に減少しているのだ。
食料不足が原因ではない。では、風土病か?
だが、それなら治癒魔法で対応できるはず。南にだけ、魔法が効かない特殊な病でもあるというのか?
それとも、公の歴史書には記されていない、南側での継続的な紛争か?
仮説は浮かぶが、それを裏付けるデータが、この図書館にはなかった。
(……思考がまとまらない。元の世界にあったコンピュータが欲しい)
膨大なデータを前に、私は歯がゆい思いをしていた。
手計算で統計を取るには、あまりにも時間がかかりすぎる。
魔法で似たような演算装置がないか探してみたが、やはり存在しなかった。
魔法は、攻撃、回復、生活、農業と、様々な用途で利用されてはいるが、自動計算や長距離通信といった、情報処理の分野ではほとんど応用されていない。
出来そうで出来ないことが、意外なほど多い。
数日間にわたって図書館に通い詰め、私の中で一つの結論が形作られていった。
この世界は、完全に「魔法」という単一のインフラに依存しきった、極めて脆弱な文明である、と。
もし、何らかの理由で魔法が失われれば、この文明は現在の人口を維持することさえできず、瞬く間に崩壊するだろう。
そして、もう一つ。
この図書館のどこにも、私のいた元の世界に繋がる情報は、ただの一文字も記されていなかった。
余計なことを思い出さずに済んで嬉しいような、それでいて、胸にぽっかりと穴が空いたような、奇妙な気分だった。
私は静かに本を閉じ、書架へと戻した。
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