第18話 貴族の暮らし
サンジェルマン公爵の執事、シオンが手配した馬車は、滑るようにメサリアの石畳を進んでいく。
私たちが以前、領主の屋敷と勘違いして門前払いされたのは、ただの富裕な商人の屋敷だった。
本物の貴族たちが住まう区画は、神殿のさらに奥、もう一つの城壁に守られた内側に存在していたのだ。
「リオお嬢様、こちらの門より貴族街へと入ります」
シオンが恭しく告げる。
先日は、街の人々から汚物でも見るかのような目で見られていたのに。
だが、公爵家の紋章を掲げた馬車に乗る私たちは、衛兵たちの敬礼に見送られ、街の人々は頭を下げている。
権力とは、これほどまでに分かりやすいものか。
城壁の内側は、外の街とはまるで別世界だった。
魔族の襲撃など、まるでなかったかのように街並みは整然とし、塵一つ落ちていない。
外側の雑多で猥雑な喧騒とは無縁の、静かで洗練された空気が漂っている。
広々とした庭付きの瀟洒な館が立ち並び、道行く人々は皆、上質な衣服を身に纏っていた。
(……なるほど。城壁の中に、さらに同心円状の城壁。富裕層と貧困層を物理的に分断する、典型的な二重構造都市か)
私の思考が冷静に分析する一方で、リオの魂が素直な感想を漏らす。
(わぁ……綺麗……! 村の家とは、全然違う……!)
「村から重税を取り立てて、こんな街を造っているとはな」
「これが、貴族の街……すげー……」
アノンとバーンも、田舎者丸出しで窓の外の景色に見入っていた。
ホパ村の、あの泥とイモの匂いがする生活が、遠い昔のことのように感じられる。
馬車は、貴族街のはずれにある一軒の屋敷の前で止まった。
周囲の壮麗な館に比べれば小ぢんまりとしているが、それでもホパ村の村長の家が十軒は入りそうな、広大で豪華な建物だった。
「この屋敷を、ご自由にお使いください、お嬢様」
シオンに促され馬車を降りる。
彼が玄関の扉をノックすると、中から数人のメイドたちが現れ、一斉に頭を下げた。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
私たちはその出迎えを受け、大理石が敷き詰められた広大なエントランスホールへと足を踏み入れた。
「それでは、リオ様。この後のことはメイドたちに申し付けてございますので。私はこれにて失礼いたします。何かご不明な点がございましたら、メイドにお尋ねください」
シオンは完璧な所作で一礼すると、音もなく屋敷を後にした。
「さあ、お嬢様も、そちらのお連れ様方も、まずは浴室へどうぞ。その間にお食事のご用意をいたしますわ」
筆頭メイドらしき女性に促され、私たちはそれぞれ風呂へと案内された。
小さいとはいえ、貴族の館だ。
こんな小汚い村娘が入ってくれば、メイドたちに侮蔑の目で見られるかと身構えていたが、その心配は杞憂に終わった。
どうやら彼女たちは、私たちが街を救ったことを知っているらしい。
その視線には、畏怖と、そしてそれ以上の好奇の色が浮かんでいた。
案内された浴室は、部屋そのものが湯気で満たされた、夢のような空間だった。
服を脱がすのも、髪を洗うのも、全てメイドたちがやってくれる。
背中を流されながら、大きな湯船に身を沈めると、体の芯から疲労が溶けていくのを感じた。
(……あったかい……。こんなに綺麗なお湯に、毎日入れるなんて……)
リオの魂が、生まれて初めての贅沢に、純粋な喜びで打ち震えていた。
「わたくしは、リオお嬢様の専属メイドを拝命いたしました、メアリーと申します」
「よろしく」
「これから毎日、お嬢様を磨き上げて差し上げますわ。この引き締まった腰、箸より重いものを持ったことがなさそうな華奢な腕、そして驚くほど白いお肌……。それでいて、あの特級魔族すら打ち滅ぼすその実力……!」
メアリーは、私の体を隅々まで洗いながら、うっとりとした口調で言う。
「女性として、お嬢様のような強く美しい方に、憧れてしまいますわ」
彼女は頬を薄紅色に染めていた。
どうやら、私はとんでもないファンを獲得してしまったらしい。
浴室から出ると、今度はメアリーが体を拭き、豪奢なドレスまで着せてくれた。
幾重にも重ねられたレース、絹の光沢、そして繊細な刺繍。
(……綺麗。おとぎ話のお姫様みたい……!)
リオの心がときめく一方で、「私」の思考は冷めていた。
(布の量が多い。動きにくい。戦闘には全く不向きだ)
「お嬢様、こちらのお洋服はいかがですか?」
「まあ、悪くないけど、もう少し動きやすい方がいいわ」
「お嬢様。貴族令嬢のお召し物としましては、これが最も動きやすい部類のデザインですのよ」
「え、そうなの?」
村娘に、令嬢の常識を説かれても困る。
私は仕方なく、そのドレスの上から銃のホルスターとナイフを装備し、汚れるのを防ぐために、いつもの白衣をひらりと羽織った。
私の行動に、メアリーが目を丸くする。
「お、お嬢様! そのお召し物は、一体……!」
令嬢のドレスに、殺傷力の高い武器、そして場違いな白衣。
ちぐはぐな印象は否めない。
「白衣を着ると、どうにも落ち着くのよ。着慣れているというか」
「お嬢様が本来お持ちの華やかさも、優美さも、全てが台無しですわ! このメアリーが! いつか必ずや、お嬢様を誰からも後ろ指をさされない、完璧なご令嬢にしてみせますわ!」
一人で何かに闘志を燃やすメアリーに、私は一抹の悪寒を感じずにはいられなかった。
ダイニングルームでは、すでに食事が用意され、アノンとバーンが私の到着を待っていた。
テーブルの上には、街のレストランとは比べ物にならないほど豪華絢爛な料理が並んでいる。
(……すごい! これが、貴族の食事……! 毎日、こんなものを食べているの……?)
リオの魂が、歓喜の声を上げていた。
「お前が白衣を着るとはな。それでこそ破星だ」
アノンが、訳の分からないことを言って、満足そうに頷いている。
「あの、リオ様……。せめてお食事の間だけでも、白衣は脱いだ方が……」
この中で一番常識があるのは、どうやらバーンのようだ。
だが、私は構わず席に着いた。
今日は患者の治療で疲れたのだ。マナーなど知るものか。
村娘、村の少年、名前不詳の記憶喪失者。ここに貴族など一人もいない。
「どんどん料理を持ってきて!」
私は次々と出される料理を、片っ端から平らげていった。
今まで食べた、どんなものよりも美味しかった。
イモと水ばかりの生活が嘘のようだ。
食事が終わると、メアリーが寝室へと案内してくれた。
若い貴族令嬢が好みそうな、花柄をモチーフとした華やかな内装。
ふかふかの絨毯、大きな窓、そして、天蓋付きの巨大なベッド。
私は白衣をソファに脱ぎ捨て、武器をテーブルの上に置くと、メアリーに手伝ってもらって寝間着に着替えた。
「それではお嬢様、おやすみなさいませ」
メアリーが去った後、一人残された広すぎる部屋で、私は天蓋付きのベッドに身を投げ出した。
スプリングの効いたマットレスが、優しく私の体を包み込む。
すぐに眠りに落ちる……わけではなかった。
人間と魔族が使う魔法の根源は同じなのか。ドレスはもう二度と着たくない。自動拳銃の弾薬が尽きそうだ。この世界にも白衣があってよかった。
様々な思考が、浮かんでは消えていく。
だが、今日に限っては、食べ物のことだけは浮かんでこなかった。
翌朝。
「メアリー。あなたと同じ服を用意してちょうだい」
彼女が着ているメイド服。前掛けはいらない。
あの黒いワンピースは、貴族のドレスより遥かに動きやすそうだ。
「お嬢様は、この館の主ですのよ? メイドと同じ服など、とんでもない!」
「大丈夫。私は白衣を着るから、同じものでも問題なく識別できる」
私の有無を言わせぬ一言で、メアリーは渋々ながらもメイド服のワンピース部分だけを持ってきた。
私はそれに着替えると、ナイフと銃を装備し、仕上げに白衣を翻す。
新たな一日が、始まった。
午前中は、仮設病院の回診だ。
勝負はまだ、終わっていない。
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