第17話 科学的治癒
私が足を踏み入れた2号テントの中は、苦痛に満ちていた。
うめき声と、汗と血の匂い、そして薬草の苦い香りが混じり合った、濃密な空気が満ちている。
ずらりと並んだ簡易ベッドには、魔族の襲撃で傷を負った市民たちが横たわっていた。
骨折、深い裂傷、そして広範囲の火傷。そのどれもが、素人目にも重篤であることが分かった。
隣の1号テントでは、すでにラナが治療を開始していた。
観衆の歓声が、テントの布越しに聞こえてくる。
私は人々の視線が集まるそちらへ、観察のために足を向けた。
ラナは、腕から血を流す患者の前に跪くと、その傷口にそっと手をかざした。
「おお、聖なる光よ、その御力もて、彼の者の傷を癒したまえ――治癒」
彼女の詠唱と共に、その手から淡く、しかし温かい光が溢れ出す。
光が傷を包み込むと、開いていた傷口がまるで逆回しの映像のようにみるみるうちに塞がっていく。
血は止まり、赤黒かった皮膚は元の肌色を取り戻していた。
聖女の名にふさわしい、神々しくも優しい光景だった。
「おお……!」
「ラナ様、万歳!」
外野から、感嘆の声が上がる。
村で見た治癒魔法とは、次元が違う。
あれほどの速度での組織再生は、特級魔族シャガーンが見せた自己修復能力に匹敵する。
しかし、私の目はその光景の奥にある、致命的な欠陥を見逃さなかった。
次にラナが向かったのは、腕が不自然な方向に折れ曲がった骨折患者だった。
彼女は先程と同じように、光でその腕を包み込む。患者の顔から苦痛の色は消えていく。
「聖女様! ありがとうございます! 痛みが、痛みが完全に消えました!」
患者は感謝の言葉を口にするが、その腕は、折れ曲がったまま。
皮膚の裂傷だけが塞がり、その下で折れた骨が歪に固定されてしまっている。
これでは、この先まともな生活は送れまい。
やはり、私の仮説は正しかった。
治癒魔法の本質は、おそらく生得的な自然治癒能力のブーストに過ぎない。
傷を塞ぎ、炎症を抑えることはできても、骨を正しい位置に戻したり(整復)、体内に残った異物を摘出したりといった、外科的な処置は専門外なのだ。
「リオ様? 何をじっとご覧になっているのですか!」
私が分析するように眺めていることに気づいたラナが、苛立ちの声を上げた。
「ルールに、相手の作業を見てはいけないという項目はないわ」
私は平然と答え、彼女に背を向けた。必要なデータは取れた。
自分の持ち場である2号テントに戻る。
まず、患者一人一人の状態を迅速に確認。やはり、重度の骨折患者が多い。
状況を把握した私は、一度テントの外へ出ると、迷わず近くの酒場へと向かった。
事情を話し、有り金で買えるだけの度数の高い蒸留酒を買い占める。
帰り道、建物の残骸から手頃な長さと硬さの木の棒を数本拾った。
酒瓶と木の棒を抱えてテントに戻ると、患者たちが「この女は何を始めるんだ」といぶかしむような目で私を見ていた。
私はそれを意に介さず、今度は仮設病院の敷地内を探索する。
目当ては包帯だ。だが、仮設とはいえ医療施設なのに、包帯の一つも見当たらない。
この世界の治療が、いかに魔法に依存しているかが窺える。
やがて、職員用の更衣室らしきテントを見つけ、山と積まれた清潔な衣服を発見した。
これをナイフで引き裂けば、包帯の代わりになる。
そして、その隅に、もう一つ、見覚えのあるものを見つけた。
白衣だ。
袖に腕を通した瞬間、奇妙な感覚が全身を貫いた。
(……そうだ。私は、知っている。この感触を。この、体に馴染む感覚を)
遠い過去、忘却の彼方で、私は確かにこれと同じものを着ていた。
そんな記憶の断片が、脳裏をよぎっては消えた。
私は、ひらりと白衣を翻し、戦場へと戻った。
「さて、治療を開始するわ」
最初の患者は、腕に深い裂傷を負った男だった。
私は躊躇なく、蒸留酒の瓶を傾け、その傷口に直接叩きつけた。
「ぎゃぁあああああああ!!!」
患者が、この世の終わりのような絶叫を上げた。
無理もない。開いた傷口に高濃度のアルコールを流し込んでいるのだ。
だが、これは感染症を防ぐための、最も確実な消毒だ。
痛みは治癒過程における、避けられぬ副作用に過ぎない。
私は手際よく、衣服を裂いて作った包帯で傷口を固く圧迫し、止血を完了させた。
そして、本番はここからだ。
「ぎゃぁあああああああああああ!!!!!」
腕が折れ、あり得ない方向に曲がっている男。
私の治癒が、ラナの魔法を凌駕しうる、唯一の領域。
私は男の腕を掴むと、ひと思いに、骨が正しい位置に戻るよう力を込めて引っ張った。
ゴキリ、と鈍い音が響く。
患者は白目を剥き、声にならない悲鳴を上げた。
当然だ。麻酔なしで、骨折した腕を整復しているのだから。
私は構わず、拾ってきた木の棒を添え木として当て、包帯で腕を厳重に固定した。
患者は私を、慈悲深き聖女ではなく、血も涙もない悪鬼でも見るかのような目で睨みつけていた。
外野からは、悲鳴を聞きつけた人々が「2号テントでは一体何が行われているんだ」と、恐怖に満ちた表情でこちらを覗き込んでいる。
だが、私のやることは変わらない。
足が折れた患者には、同じように骨を繋ぎ、固定する。
テントは、さながら阿鼻叫喚の地獄と化した。
全ての患者への応急処置を終えた私は、最後に、これも酒場で買っておいた栄養価の高そうなスープを、患者一人一人の口へと運んでやった。
この世界の庶民は、総じて栄養状態が悪い。
治癒とは、傷を塞ぐだけでは終わらない。
その後の回復、すなわち自己免疫力の維持と向上が不可欠だ。
全ての工程を終えた時、私の白衣は、患者の血と汗で汚れていた。
だが、テントの中の患者たちは、確かに「治療」されていた。
痛みと恐怖に顔を歪ませながらも、彼らの体は、確実に快方へと向うだろう。
それが、私の「治癒」の答えだった。
◆
翌朝。
広場に、勝負の判定を下すべくサンジェルマン公爵が姿を現した。
だが、早々に事態は紛糾していた。
「お父様! わたくしは、昨日一日で10人もの負傷者を、痛みも傷跡も残さず完全に治癒しましたわ! それに比べて、あの女は! 患者に酒をぶっかけ、悲鳴を上げさせていただけではありませんか! 勝負は、どう見てもわたくしの勝ちですわ!」
ラナが、ルールにない持論を展開し始めた。
「ルールは『より多く治癒した者の勝ち』。治療の期限については、何も言われていないはずよ」
「へ、屁理屈ですわ!」
「治せばいい。それが、唯一のルールのはず」
私とラナの主張は、平行線をたどっていた。
「リオ嬢。おぬし、本当に治療をしたのか? あのようなやり方、ワシは見たことも聞いたこともないぞ」
公爵が、訝しげな目で私を見る。
「もちろんです。私は2号テントの全ての患者を『治療』しました。ただし、完治までには時間がかかります」
「時間がかかる、とはどのくらいじゃ?」
「そうですね。重傷者もいますから、全治一ヶ月から三ヶ月といったところでしょうか」
骨は、そんなに早くはくっつかない。魔法ではないのだから。
「うむ……。では、今この場で勝敗はつけられんな」
「そんな、お父様! どう考えても、わたくしの勝ちではありませんか!」
ラナが不満を叫ぶ。だが、公爵はそれを制し、静かに、しかし重い口調で語り始めた。
「ラナよ。神殿長から報告があった。このリオという娘は……先の戦いで、あの特級魔族シャガーンを、たった一人で討ち滅ぼした張本人なのじゃ」
「……!」
ラナが息をのむ。
「お前も見ていたであろう。お前の『祝福』を受けた騎士団でさえ、シャガーンには全く歯が立たなかった。あのまま戦えば、この街は滅んでいたやもしれん。騎士団が壊滅した今、この街を守る領主として、彼女を無下に扱うことは、ワシにはできん」
「……ですが、それはそれ、これはこれですわ! 勝負とは関係ありません!」
「そこでじゃ」
公爵は、ラナの言葉を遮った。
「勝負の判定は、三ヶ月後とする。三ヶ月後に、両者の治療した患者の状態を見て、最終的な勝敗を決める」
「私は、別に構いませんが」
「アノン様がわたくしの騎士になるまで、そんなに待てと仰るのですか!?」
ラナは不満そうに顔を膨らませたが、父親である公爵の決定には逆らえないようだった。
「結果が出るまで、街に滞在するがよい。褒賞の前渡しとして、そなたに屋敷を提供しよう」
公爵が、私に意外な提案をしてきた。
騎士団が再建されるまで、私とアノンを街の戦力として留めておきたいという意図が見え透いている。
だが、村の家は破壊された身だ。
都会の方が、情報収集にも、食事の質も、何もかもが好都合だった。
「ありがたく、お受けいたします」
「うむ。ワシの執事に案内させよう。シオン!」
公爵が呼びかけると、その背後から、影のように控えていた一人の男が、静かに歩み出た。
「お初にお目にかかります、お嬢様。執事のシオンと申します。以後、お見知りおきを」
背筋の伸びた、隙のない所作。
丁寧な物腰の奥に、鋭い知性を感じさせる男だった。
「よろしく。一度宿屋に戻って、荷物をまとめてくるから、少し待っていて」
「いえ、お嬢様の手を煩わせるまでもございません。お荷物は、このわたくしめが責任を持ってお運びいたします。さあ、こちらの馬車へどうぞ」
シオンはそう言うと、いつの間に用意されたのか、豪奢な紋章入りの馬車へと私をいざなった。
その手際の良さに、私はこの男もまた、ただの執事ではないことを確信した。
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