第9話 レストランの惨劇
神殿を後にした私たちは、当てもなく街の喧騒の中を歩いていた。
権力者にも、神にも頼れない。
いや、そもそも私は神に嫌われているのではないだろうか。あの神殿の出来事といい。
これからどうすべきか。
思考を巡らせるが、空腹と疲労がその邪魔をする。
「聖女様、これからどうしましょう……」
バーンが不安そうに私の顔を覗き込む。
神殿長にあからさまにあしらわれ、彼の心からも少しずつ希望が消えかけているようだった。
アノンは黙って周囲を警戒しているが、彼の纏う空気も心なしか重い。
(……状況が悪い時ほど、基本に立ち返るべきだ)
前世の訓練で、そう教えられた記憶がある。
第一に、兵士の士気の維持。
第二に、情報収集。
第三に、エネルギーの補給。
今の私たちに必要なのは、その全てを満たす場所だった。
「一仕事終えたところだし、まずは腹ごしらえにしましょう」
私の提案に、バーンは「でも、お金が……」と戸惑いを見せる。
「心配しないで。この程度なら問題なく払えるわ」
私はしっかりと、ゲルムの実家の焼け跡から金貨を数枚、回収していた。
村長が、私を貴族の奴隷として売り払うために受け取った前金か何かだろう。
ならば、この金は私のものだ。当然の権利として使わせてもらう。
腹が減っては良い考えも浮かばない。
私達は、広場に面した一際賑わっているレストランに入ることにした。
店内に足を踏み入れると、様々なスパイスと食材が調理される、嗅いだことのない芳醇な香りに包まれた。
席に案内されメニューを眺めると、そこには村ではお目にかかれない料理名が並んでいる。
目に留まったのは、「夢見魚のグリル」という一品だった。
名前の響きに惹かれ、それを注文する。
やがて運ばれてきた料理は、芸術品のように美しかった。
こんがりと焼き色のついた魚の身は、ナイフを入れるとほろりと崩れ、透き通るような乳白色の断面がきらきらと光を反射している。
上品なハーブの香りがふわりと鼻をくすぐり、口に運ぶ前から、それが極上の一品であることを告げていた。
恐る恐る、一口食べる。
その瞬間、口の中に幻想的な味わいが広がった。
淡白でありながら、噛むほどに溢れ出す豊かな旨味と、ほのかに甘い脂。
村のイモばかりの食事では決して味わえなかった、複雑で、繊細で、優しい味。
それは、まるで夢の中にいるような幸福な感覚だった。
「……おいしい」
思わず、声が漏れた。
それは「私」の分析的な感想ではなく、貧しい村娘「リオ」の、魂からの言葉だった。
付け合わせのパンも、驚くほどふわふわで、小麦本来の甘い香りがする。
村で収穫された小麦は、全てこうして都会の贅沢のために使われていたのだ。
この圧倒的な格差社会に、心の奥底で冷たい殺意が湧くのを感じる。
だが今は、そんなことさえどうでもよくなるほど、この食事に満たされていた。
転生してから、いや、リオとして生きてきた中でも、間違いなく初めての、まともな食事だった。
「聖女様、おいしいです! こんなにおいしいもの、生まれて初めて食べました!」
バーンも目を輝かせ、夢中で料理を頬張っている。
その姿に、私も自然と笑みがこぼれた。
「本当に、村では苦労したものね」
村同志として、私はバーンに心から同意する。都会の料理は、本当に素晴らしい。
アノンはといえば、琥珀色の蒸留酒がなみなみと注がれたグラスを片手に、黙々と料理をつまんでいた。
「……これは、なかなかいい酒だ」
珍しく、彼が肯定的な感想を口にした。
酒を飲んでいるが、全く酔っている様子はない。
だが、彼の肩からは、常に張り詰めていた鋭い緊張感が少しだけ和らいでいるように見えた。
それぞれが、この店が提供する料理と酒に、束の間の平穏と満足を感じていた。
このまま、こんな穏やかな時間が続けばいい。
心のどこかで、リオの魂がそう願っていた。
唐突に、それは起こった。
轟音。
レストランの壁が爆発したかのように砕け散り、銀色の塊が凄まじい勢いで店内を蹂躙した。
悲鳴を上げる間もなく、他の客やテーブルが次々と弾き飛ばされる。
そして、その銀色の塊――全身鎧をまとった人間――は、一直線に私たちのテーブルへと飛来し、全ての皿とグラスを木っ端微塵に押し潰した。
「なっ……!」
自分の料理と酒を台無しにされ、アノンの表情から温度が消える。
私たちの至福の時間は、あまりにも理不尽な暴力によって、唐突に強制終了させられた。
「騎士の方です! この紋章、前に街道で魔族を討伐していた騎士団のものです!」
騎士マニアのバーンが叫ぶが、それどころではない。
目の前の騎士は、身に纏う鎧が血で赤黒く染まり、至る所が砕け散っている。
握っていたはずの剣は、柄しか残っていなかった。
なんで、貴族エリートの方がこんな事に。
「グフッ……」
血の泡を吹きながら、騎士が最後の力を振り絞って顔を上げる。
その目は、絶望に染まっていた。
「……見たこともない数の、魔族が……!」
それだけを言い残すと、騎士はこと切れた。
店内は、一瞬の静寂の後、パニックに陥った客たちの絶叫に包まれた。
レストランの外から、新たな轟音と、人々の悲鳴が次々と聞こえてくる。
街が、戦場に変わったのだ。
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