第87話 子羊達の勝利
要塞グラードの最も高い尖塔にある司令室。
そこから眼下を見下ろすユリウスの端正な顔には、隠しきれない優越感と、深い安堵の色が浮かんでいた。
「……撤退、か。賢明な判断ですね、魔王陛下……いや、やはり貴女はただの恋する娘だった」
彼の視線の先では、あれほど猛威を振るっていたロキヌス帝国軍が、蜘蛛の子を散らすように市街地から引き上げていく様子が見えた。
それは軍隊の組織的な後退とは程遠いものだった。
自慢の蒸気トラックや戦車は雪に足を取られて放棄され、兵士たちは武器を引きずりながら、凍えるように背中を丸めて去っていく。完全な敗走の姿だ。
雪に埋もれていく鋼鉄の車列は、まるで巨大な産業廃棄物のようにも見えた。
敗走する群衆の中には、あの大声で喚いていた巨漢の将軍の姿も見える。彼らもまた、自然の猛威と補給の限界には勝てなかったようだ。
「司祭様! 敵が背を見せました! 今こそ追撃を! 騎馬隊を出せば、雪に足を取られた鉄の車列など、容易く粉砕できます!」
血気にはやる聖堂騎士団長が、興奮して机を叩いた。
彼の目には、復讐の炎が燃えている。二ヶ月もの間、散々煮え湯を飲まされた恨みを晴らす絶好の好機に見えるのだろう。
「いいえ。深追いは禁物です」
だが、ユリウスは冷ややかに首を横に振った。
「な、なぜですか!? 魔王の首を取る好機ではありませんか! ここで見逃せば、奴らはまた力を蓄えて……」
「敵は腐ってもロキヌス帝国。敗走を装った『釣り野伏せ』の可能性もあります。それに……」
ユリウスは、窓の外に広がる鉛色の空を見上げた。
雪は激しさを増し、視界を白く染め上げている。
「この猛吹雪です。城壁の外に出れば、我々とて消耗は免れません。敵は自らの兵站の限界と、冬将軍に敗れたのです。放っておけば、国境に着くまでに半数は凍え死ぬでしょう」
彼は、手すりを指でなぞった。
焦土作戦による補給線の圧迫、そして要塞内での徹底したゲリラ戦。
これらが複合的に作用し、元ナブラ王国の公爵令嬢だという温室育ちの少女皇帝の精神を蝕み、心を折ったのだ。
所詮、科学という小手先の技術も、大自然という神の力の前には無力だったということだ。
「我々の目的は、あくまで『聖地防衛』。この要塞さえ守り抜けば、我々の勝ちなのです。この悪天候の中、リスクを冒してまで、死にゆく獣に止めを刺しに行く必要はありません」
「しかし……!」
「団長。古来、籠城こそ最強の防衛戦略。至高の軍略ではないですか。むやみに追撃するなど愚策ですよ。自滅する愚か者を見送るのもまた、慈悲というものです」
ユリウスの言葉に、騎士団長は渋々ながらも剣を収めた。
そこへ、さらに彼らを勢いづかせる報告が入った。
「伝令! 東と西の街道より、友軍の増援部隊が到着! その数、合わせて五万!」
「おお、来たか! 神は見捨て給わなかった!」
ユリウスは、窓の外を見た。
地平線の彼方から、ゲメリアの旗を掲げた大軍が、雪煙を上げて進軍してくる。
要塞内の生き残り三万と合わせれば、その数、八万。
これだけの兵力があれば、万が一帝国軍が引き返してきても、指一本触れさせることなく殲滅できる。
「神風は吹いた。……よし、全軍に伝令!」
ユリウスは、高らかに命じた。
「到着した増援部隊を、直ちに要塞内部へ招き入れよ! 城壁の外は寒かろう。聖なる壁の内側で、共に勝利の美酒を酌み交わそうではないか!」
重厚な城門が開かれ、増援部隊が雪崩れ込んでくる。
鉄の雨が止んだ、広場は、再会を喜ぶ兵士たちと、神を讃える祈りの声で埋め尽くされた。
大通りも、路地も、兵舎も。
要塞グラードの内部は、立錐の余地もないほどの人、人、人で溢れかえった。
肩が触れ合うほどの密集。吐き出す白い息が、要塞全体を白く霞ませるほどの熱気。
「……壮観ですね」
ユリウスは、その光景を満足げに眺めた。
八万の狂信者たちが、一箇所に密集し、熱気を放っている。
これほど強固な「信仰の塊」を前にして、もはや恐れるものなどない。
外は寒風吹き荒れる冬の荒野だが、この高い城壁に守られた内部は、兵士たちの熱気で暖かいほどだ。
「城壁に守られたこの場所こそが、絶対の安全圏。ここで春を待ち、戦力を整えてから反撃を開始すれば、ロキヌスなど……」
彼は、勝利の余韻に浸りながら、ふと、撤退していった帝国軍の方角を見た。
遠くの丘の上に、豆粒のような影が見える。
あれは、あの忌々しい「鋼鉄の鎧を纏った皇帝」だろうか。
「ふふ。悔しいですか? リオ・ヴィ・サンジェルマン。貴女の『科学』とやらも、神の知恵の前には、ただの児戯に過ぎませんでしたね。魔法学園でおままごとをしていた貴女には、戦争は早すぎたのです」
ユリウスは嘲笑った。
彼の判断は、軍略上、何一つ間違ってはいなかった。
深追いを避け、戦力を温存し、堅固な拠点を確保する。古今の兵法書に則った教科書通りの完璧な采配だった。
ただ一つ、彼が知らなかったことは。
彼が相手にしている少女が、教科書通りの戦争などする気がない、「大量殺戮者」であるということだけだった。
彼は、満足げにワイングラスを傾けた。
要塞グラードに、2ヶ月ぶりの平和な夜が訪れていた。
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