第86話 凍てつく市街戦と帝国の敗走
ロキヌス帝国軍による逆侵攻作戦の開始から、既に三ヶ月が経過していた。
そして、この要塞グラードへの突入から数えても、悪夢のような二ヶ月が過ぎ去ろうとしていた。
当初の「数日での制圧」という目論見は、北方の鉛色の空と共に、完全に崩れ去っていた。
地図上の要塞グラードは、瓦礫の山だ。
だが、その瓦礫の一つ一つが、今は帝国軍を飲み込む底なしの「墓標」と化していた。
「第4小隊、応答なし! ……伝令も戻りません!」
有線電信はとっくに切断され、送り出した伝令兵は二度と帰ってこない。
私たちは市街地の9割を制圧したはずだった。だが、残りの1割――特に中央塔周辺の廃墟と、地下に張り巡らされた複雑怪奇な下水道網が、攻略を阻んでいた。
そこは、整然とした戦列歩兵がぶつかり合う戦場ではなかった。
崩れた壁の隙間、床下、天井裏。
ありとあらゆる場所から、死神が顔を覗かせる。
パンッ。
魔法弾の音が響き、私の目の前を走っていた伝令兵の頭が弾けた。
どこから?
HUDで熱源を探すが、周囲の瓦礫はマイナス20度の外気で冷え切っており、敵兵が「凍った死体」の下に潜り込んで熱を遮断しているため判別がつかない。
「狙撃兵だ! 遮蔽物を探せ!」
兵士たちが泥の中に這いつくばる。
ゲメリアの残党は、瓦礫の中に巣食い、ほんの数センチの隙間から魔法の矢や、奪った銃を撃ってくる。
我々が建物一つを確保するために払う犠牲は、数十人。
一つの部屋を制圧し、隣の部屋へ行こうとすれば、床に仕掛けられた魔法陣が炸裂する。
それはまさに「ネズミ戦争」。
誇り高き科学の軍隊が、ドブ川の中で血と泥に塗れて殺し合う、惨めな消耗戦だった。
「ええい、埒が明かん! この壁ごと吹き飛ばしてくれる!」
スコルツェニー将軍が、目の前の廃ビルに向けて、最近投入された携帯ロケットランチャーを構える。
轟音と共にビルが崩落する。だが、その土煙の中から、新たな魔法弾が飛来し、彼の肩の装甲を掠める。
「ぬうぅ! どこだ、どこに隠れている! 姿を見せろ卑怯者め!」
歴戦の将軍も、二ヶ月に及ぶ見えない敵との戦いに、苛立ちと疲労を隠せなくなっていた。彼の自慢の黒い甲冑は傷だらけで赤錆が浮き、その瞳には狂気に似た血走った色が宿っている。
だが、我々を真に追い詰めたのは、敵兵ではなかった。
「……陛下。本日未明、第2蒸気輸送隊のボイラーが破裂しました」
前線基地のテントで、モルトケ参謀総長が震える声で報告する。
彼自身の顔色も、死人のように青白い。頬はこけ、この二ヶ月で十年は老け込んだように見える。
「気温はマイナス30度。配管内の水が凍結膨張し、弁を破壊しました。マスケット銃の撃鉄も凍りついて動きません。……科学兵器は、魔法に比べて寒さに弱すぎます」
冬将軍。
ゲメリア神聖国は北の大国だ。帝都のある南方に比べ、冬の訪れは極端に早く、そして過酷だった。
私の機械化部隊は、この極限の寒冷地での長期戦を想定していなかった。
潤滑油は固まり、金属は脆くなり、パッキンはひび割れる。
そして兵士たちは、塹壕の中で身を寄せ合い、眠ればそのまま凍死するという恐怖と戦っていた。
「食料配給も滞っています。凍ったパンをかじり、雪を溶かして飲む。……これでは、戦う前に全滅します」
私は、テントの隙間から外を見た。
雪に埋もれた遺体の山。その多くは、敵の弾丸ではなく、寒さと飢えによって命を落とした帝国兵たちだ。
科学による圧倒的な蹂躙劇は、いつしか自然による緩やかな処刑へと変わっていた。
(……誤算ね。ここまで粘られるとは)
敵は、狂っていた。
彼らは「聖地を守って死ぬ」ことを至上の喜びとし、自らの命を弾丸として扱っていた。
食料が尽きれば同胞の死肉を食らい、暖房がなければ死体の山の中で暖を取る。
論理も効率も通用しない、信仰という名の狂気。
それが、科学の論理を泥沼に引きずり込んでいた。
「伝令! 伝令ッ!!」
一人の兵士が、泥まみれになってテントに飛び込んできた。
彼は息も絶え絶えに、絶望的な報告を叫んだ。
「て、敵、増援部隊五万! 東方10km地点の丘陵に軍旗を確認! 本日中にこのグラードに到達する見込みです!」
その場にいた全員が凍りついた。
五万。
消耗しきり、凍傷と飢餓に苦しむ我々に対し、万全の状態で現れる冬装備の大軍。
それは、死の宣告に等しかった。
「……陛下」
モルトケが、枯れ木のような手で地図を押さえる。
「ここが墓場になりますな。……予備兵力を全て投入し、最後の一兵となるまで戦いましょう。それこそが、軍人の本懐」
彼の目から、生気が消えていた。
勝利を諦め、ただ「どう死ぬか」だけを考え始めた者の目だ。
スコルツェニーも黙って頷き、愛用の斧を握りしめている。
私は、ふっと息を吐いた。白い息が、空中で凍りつく。
「いいえ。……全軍、撤退よ」
私の言葉に、時が止まった。
モルトケが、呆けたように口を開く。
「……は? て、撤退……ですか? 今、なんと?」
「聞こえなかった? このままでは全滅よ。雪も深くなってきたし、兵士たちの士気も限界だわ。……私の計算ミスね。北国の冬がこれほど早いなんて、想定外だったわ」
私は、わざとらしく肩を落とし、弱々しい少女の声を演じて見せた。
「なりませぬ! 三ヶ月も戦い続け、多くの血を流してようやくここまで追い詰めたのですぞ! ここで引けば、死んでいった者たちが浮かばれません!」
モルトケがテーブルを叩く。その目には涙が滲んでいた。
帝国軍が払った犠牲は大きすぎた。ここで退くことは、その全てを無に帰すことだと、感情が叫んでいるのだ。
「陛下! 我らはまだ戦えます! 敵に背を見せるなど、帝国軍人の恥! どうか、どうか玉砕の覚悟を!」
「玉砕? 馬鹿なことを言わないで。冬将軍に勝った独裁者は歴史上いないのよ。……命あっての物種だわ」
私は彼らの懇願を冷たく切り捨てた。
そう、私にとっては生き残りこそが至上。この戦争も、突き詰めれば、私の生存圏を侵すゲメリアを完全に掃討するためのものだ。
軍人の意地などという下らないものよりも、敵の援軍が来る前にサッサと逃げる方が、よほど理にかなっている。
「総員、市街地から退去。動かない蒸気戦車や重機材も放棄して構わない。身一つで逃げなさい。……これは皇帝命令よ」
「…………」
モルトケの肩が、ガクリと落ちた。
それは、崇拝していた「軍神」が、ただの「か弱い少女」だったという現実に直面し、絶望した姿だった。
無敵だと思っていた科学も、皇帝も、冬の寒さと狂気の信仰には勝てなかったのだと。
「……承知いたしました。……全軍、撤退準備」
モルトケは、老け込んだ背中を向けてテントを出て行った。
スコルツェニーもまた、やり場のない怒りを抱えたまま、唸り声を上げて後に続く。
司令部から人が消えた。
私は、一人残された指令室の中で、地図を見つめながら、ふっと口元を歪めた。
(……これでいい)
この二ヶ月の泥沼は、決して無駄ではなかった。
私たちは十分に「弱り」、十分に「無様」を晒した。
そして、この要塞の地下構造、熱源の対流、崩落の危険箇所……すべてを完璧に把握した。
(この雪の中を行軍してきた敵の援軍五万。彼らは寒さと疲労で限界のはず。そこへ我々が「敗走」し、暖かい「空の要塞」と「食料」を残していけばどうなるか)
答えは一つ。
彼らは勝利の美酒に酔いしれ、暖を取るために、この要塞グラードに雪崩れ込む。
地下に潜っていたネズミたちも、地上へ出てきて合流するだろう。
モルトケたちを失望させたことに、罪悪感はない。
彼らの「本気の絶望」こそが、敵を欺く最高のスパイスになるのだから。
「アノン、後方陣地へ砲撃中止を打電。私達はもう兵站が尽きて、砲撃ももう、満足にできませんからね」
「了解した」
彼は素早く、203高地後方に展開する砲兵に電信を送る。
唐突に、この2か月間続いた鉄の雨が止んだ。
「さぁてと、行くわよ。……みっともなく、尻尾を巻いて逃げましょうか」
「フッ……とんだ食わせ物だな、お前は」
アノンだけが、私の真意を察して苦笑する。
私はパワードスーツを反転させた。
ロキヌス帝国軍は、雪崩を打って敗走を開始した。
雪に埋もれた大砲を捨て、傷ついた体を引きずりながら、東へと逃げていく。
その無様な背中を、瓦礫の影から見つめる数千の瞳があることも知らずに。
グラードの冬は、これからが本番だ。




