閑話 死を挽くコーヒーミル 数学的無双の裏側
要塞グラードから5キロ後方。 「203高地」の裏側に、帝国軍砲兵隊の陣地はあった。
北方の秋は深い。吐く息も白くなる寒波の中、砲兵長のハンス軍曹は、手元に配られた「奇妙な鉄の筒」を訝しげに眺めていた。 大きさは掌に収まる程度。黒い金属製で、上部には小さなハンドルがついている。 見た目はまるで、台所にある「コーヒーミル」だ。
「おい、隊長。……本当にこんなオモチャで戦争ができるんですかい?」
部下の兵士が、不安そうに聞いてくる。 無理もない。彼らの前には、虎の子のカノン砲が五十門並んでいるが、肝心の「標的」が見えないのだ。 目の前には山があるだけ。敵の要塞は、その山の向こう側だ。
「上からの命令だ。……文句を言うな」
ハンスはそう答えたものの、内心では同じ不安を抱えていた。 これまでの戦争は、敵を見て、勘と経験で角度を決め、撃つものだった。 だが、今回の作戦は違う。 前線にいる皇帝陛下から送られてくる「数字」を、このミルに入力してハンドルを回せというのだ。この機械自体も、あの皇帝陛下が自ら試作品を作成し、帝国工廠で量産化したものだというが……
ピピ、ピピピ……。 通信兵の電信機が鳴った。
「来ました! 観測する皇帝陛下より入電! 『目標、要塞中央。距離5200。風速、右へ3。気温マイナス1』!」
ハンスは唾を飲み込み、マニュアル通りに「コーヒーミル」――手回し式計算機の側面にあるスライダーを動かした。
カチ、カチ、カチ。 小さな数値をセットする感触が指に伝わる。 彼は学がない。読み書きも怪しい。複雑な弾道計算式など、逆立ちしても理解できない。 だが、「言われた数字をセットして、ハンドルを回す」ことなら、猿でもできる。
「……計算、始め!」
ハンスの号令で、砲兵たちが一斉に上部のハンドルを回し始めた。
カリカリ、カリカリ、カリカリ……。
静寂な雪山に、何十もの小さな歯車が噛み合う音が響き渡る。 それは、戦場の音にしてはあまりにも軽く、牧歌的で、滑稽ですらあった。 本当に、コーヒー豆を挽いているようだ。 だが、この機械の中で挽かれているのは、豆ではない。「死の座標」だ。
チーン。 ハンスの手元で、小さなベルが鳴った。計算終了の合図だ。 上部の目盛りに、白い数字が浮かび上がっている。
「……で、出ました! 仰角42度、方向修正プラス0.5!」 「こっちも出たぞ! 装薬3だ!」
兵士たちが口々に叫ぶ。 誰も、なぜその答えが出たのか理解していない。 だが、全員の機械が、全く同じ数字を示している。
「……信じるしかねえな」
ハンスは覚悟を決めた。
「全砲門、諸元設定! ……仰角42度! 装填!」
巨大な砲身が、ゆっくりと空を仰ぐ。 その先には何もない。ただの空だ。 だが、機械が「そこを撃て」と言っている。
「撃てェッ!!」
ズドォォォォォォォン!!
五十門のカノン砲が一斉に火を噴いた。 凄まじい轟音と衝撃波が雪を巻き上げる。 発射された砲弾は、山を飛び越え、視界の外へと消えていった。
「……当たったのか?」
兵士の一人が呟く。 誰も分からない。手応えなどない。 ただ、手順通りに作業をしただけだ。
数秒後。 電信機が再び鳴り響いた。
ツツ、ツー……。
通信兵が、目を見開いてハンスを見た。
「……ちゃ、着弾確認! 要塞中央広場に直撃! 敵魔導師部隊、壊滅的被害とのことです!」
「……は?」
ハンスは、手の中の「コーヒーミル」を見た。 当たった? 本当に? 山越えで? 姿も見ずに? ただ、このハンドルをカリカリ回しただけで?
「……おいおい、マジかよ」
部下たちがざわめく。 歓声ではない。恐怖に近いざわめきだ。 自分たちが何をしたのか、実感がない。 人を殺した手応えも、狙い澄ました緊張感もない。 ただ、「事務作業」をしたら、見えない場所で人が死んだのだ。
ピピピ……。 再び電信。
「つ、次弾データ来ました! 『修正不要。効力射、続行』!」
ハンスは震える手で、再びハンドルを握った。
「……次弾、装填! 計算始め!」
カリカリ、カリカリ、カリカリ……。
再び響く、軽快な歯車の音。 ハンスは、背筋が寒くなるのを感じた。
俺たちは、兵士じゃない。 俺たちはただの、巨大な「死の工場」の歯車だ。 この小さな機械が弾き出す数字こそが、絶対的な「死の宣告」なのだ。
カリカリ、カリカリ。 彼らは回し続ける。 山の向こうで、魔導師たちが絶望の中に肉片と化していることなど、知る由もなく。 ただ淡々と、コーヒー豆を挽くように死を挽き続けるのだ。




