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椿姫(つばきひめ)

「結果が全て」

我々の世界の聖句であり、絶対の真理だった。その真理の前では、あらゆる感情、そして過程は不純物でしかなかった。22世紀、人類はついに自らを「最適化」した。我々は冷徹で、残忍になった。しかし、誰もそれを残忍だとは考えない。結果を求め、最も合理的な結論を導き出すこと。それこそが我々の時代の「人間性」であり、「愛」だった。


食事は栄養ゲル。移動はリニアチューブ。会話は要点をメッセージで伝えるのみ。すべては結果のためにある。富を稼ぐのは、更なる富という結果のため。領域を拡大するのは、更なる拡大という結果のため。その連鎖の果てにある虚無を問うことは、愛のない行為だった。


早く生き、早く死ぬ。

それは、最も効率的な生命活動の結果だ。人生のタスクを完了し、生産性のグラフが下降を始めた者は、自らを「最適化」する。都市の片隅の白い塔から飛び降りるのだ。


私、アキの同僚だった女も、昨日その愛を実践した。プロジェクトの成功率が99.8%から99.7%に低下した。彼女は、その0.1%の誤差を生み出した自らの存在が、システム全体への愛を損なうと判断したのだ。彼女の死を、我々は「他者への誠実な愛の形だ」と称賛した。彼女のデスクには、死を選んだ彼女を賞賛する電子プレートが瞬時に設置され、そして彼女のデータが処理されると同時に廃棄された。


その夜、アキは自室で禁忌とされている古い記録データを再生した。タイトルは『スタンド・バイ・ミー』。4人の少女が、死体を探しに線路を辿る物語。

アキは驚愕した。理解を超えた光景がそこにあった。少女たちの行動は、全てが結果を無視している。彼女たちはただ、歩く。目的もなく語り合い、互いの弱さを晒し、慰め合う。それは我々の世界では「最も人間性に欠ける行為」だった。


アキの思考回路はエラーを起こしていた。非効率の塊であるはずのその光景が、彼女の心を掴んで離さない。稼ぐための改善も、自己を拡大するための侵略も、そこにはない。ただ、無駄な「過程」だけが、奇妙な熱量を放って輝いている。少女たちが交わす視線、くだらない冗談、友を守るための根拠のない怒り。それらは、アキが今まで「愛」や「人間性」と教えられてきたものの対極にあった。


「何を視ている? 思考汚染は愛のない行為だ」


恋人であるハヤトのメッセージが届いた。


「映画だよ。『スタンド・バイ・ミー』という」


「映画? ならば、その映画から得られる最適解を要約して転送しろ」


「……これは、結果を求めるものじゃないんだ」


「理解不能。結果を求めない行為は、存在してはいけない。それは最大の悪だ」


ハヤトの思考は、絶対的な真理に基づき、アキのバグを修正しようと試みる。


数日後、ハヤトからのメッセージが届いた。それは、彼がアキに捧げる、最大の愛の証明だった。


『あなたへ。私からの最後の愛です。私はあなたの、そしてあなたは私の生産性において冗長な存在となりました。あなたの未来のため、私というノイズを本日最適化します。あなたも私の未来のため、最適化していただけたら幸いです』


完璧で、理性的で、そしてこの上なく愛情に満ちたメッセージだった。


「死んだら生産性も何もないじゃないか……」


数時間後、ハヤトが「最適化」したことを伝える通知が届いた。私は、なぜか最適化ができなかった。


ある日、アキは、路地裏に放置されたコンテナの中から、何かの種を見つけた。アキは、自室に持ち帰り、土にその種を埋めた。水をやり、陽の光を当てた。咲くかどうかという結果は分からない。アキは初めて、結果を度外視した「過程」に身を委ねた。あの少女たちが、結果の見えない旅をしたように。


季節は移り、都市の光量を管理するシステムが冬を告げた。全てが計画通りに、結果を算出して動く世界。その中で、アキの部屋だけが、予測不能な法則に支配されていた。


あの日、虚無の土に蒔いた種は、芽を出した。

アキは、ただ毎日、自らの手で水をやった。「太陽光」に近い波長の光を当て、部屋の温度を管理した。それは生産性のない、完全に閉じた円環のような作業だった。


そして、冬のさなか、その「過程」は一つの結果を生んだ。

固く閉じていた蕾が、静かに綻び始めたのだ。艶のある深い緑の葉に縁取られ、凛とした赤い花弁が重なり合う。椿だった。

目的もなく、花が、ただ、そこに在る。その存在自体が、結論だった。アキは、生まれて初めて「喜び」という感情に、自らの思考が満たされるのを感じた。


しかし、システムはバグを見逃さない。アキの住居における非定型なエネルギー消費と、有機物の育成反応を検知した住人たちが、彼女の部屋を訪れた。

彼女らは、部屋の中央で赤い光を放つように咲く椿を見て、一様に眉をひそめた。それは嫌悪ではなかった。医者が手の施しようのない患者を見るような、深い、深い悲しみの表情だった。


「アキ。これは、何の結果だ?」


リーダー格の女が、静かに問うた。


「結果じゃない」


アキは椿をかばうように立ちながら答えた。


「ただ、咲いただけだ」


訪れた住人の一人が、まるで痛みをこらえるかのように呟いた。


「あなたの生産性は著しく低下している。あなたを愛する隣人として、これ以上あなたが悪に堕ちていくのを見過ごすことはできない。速やかなる『最適化』を」


「断る」


アキの返事は、即答だった。


「我々は、あなたを苦しみから解放したいのだ」


彼女たちの瞳には、憐憫と、そしてアキを救済するという使命感の光が宿っていた。アキが拒絶の意思を改めて示すと、彼女たちの表情から悲しみが消え、無機質な決意に変わった。


「これより、我々は『救済』を施す」


リーダーの言葉を合図に、街の住人たちがアキの部屋に押し寄せてきた。彼女たちの手には、瞬時に生命活動を停止させるための器具が握られている。


「やめろ!」


アキは叫び、椿の鉢を抱えて後ずさった。襲い来る人々。彼女たちの動きは最適化され、無駄がない。アキは古い映画で見た非効率な動き――転がり、避け、物を投げつけるといった原始的な抵抗で、かろうじて彼女たちの拘束を逃れ、ダストシュートに飛び込んだ。暗闇の中を滑り落ち、都市の最下層に叩きつけられた。


彼女は、腕の中で奇跡的に無事だった椿を見つめた。赤い花弁は、闇の中でも誇りを失わず、その色を保っている。


アキは、データベースで調べた椿の花言葉を思い出していた。

「誇り」、そして「愛」。

この、結果だけを求めて過程を蔑む世界で、自分は人間性という「誇り」を失ってはいなかったか。友を守り、ただ共にいることに価値を見出したあの映画の少女たち。目的もなく咲くこの花の美しさ。それこそが、自分が求める「愛」の姿ではないのか。


アキは、どこかにいるはずの、同じバグを抱えた人間を探すことを決意した。誇りと、本当の愛を知る人を求めて。アキは、この凍てつく荒野を歩き始めた。

追手の魔の手は、すぐそこまで迫っている。

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