第三幕:ヒロインは、誰?
──その笑顔は、まるで祈りだった。
ミリア・セレナ・グランフォード。
この国が誇る“聖女”。
光の加護を受けた稀代の奇跡の子。
絹のように柔らかな薄桃色の髪、濡れたような睫毛、透き通る声。
歩けば花が咲き、手を振れば風がそよぐ。
貴族も平民も、教師も神官も、彼女の前ではひざまずく。
……それが、この物語のヒロイン。
(はずだった)
けれど。
わたくしは、この“聖女”の正体を知っている。
彼女がいかに巧妙に、世界に“物語”を被せているか。
その“構造”の一端を担っていたのが、かつてのわたくし自身であるということも──。
* * *
初めて彼女と出会ったのは、七歳の時。
季節は春。
王立魔導学園に入学したばかりの頃、庭園で迷子になったわたくしを見つけたのが、ミリアだった。
「大丈夫ですの? 怖くありませんの?」
そう言って手を取ってきた彼女の指先は、ほんのり暖かくて、震えていた。
その時、わたくしはただ「ああ、この子は優しい子だ」と思った。
けれど、今ならわかる。
──震えていたのは、わたくしのせいではない。
彼女は、“助ける側”でいられることに緊張していたのだ。
誰かに感謝されること。
誰かより“善良である”こと。
それこそが、彼女の“正しさ”の根源だった。
* * *
ミリアの優しさは、完璧だった。
誰にでも笑顔を絶やさず、困っている者には手を差し伸べる。
だが、それは一方通行の“施し”であり、一切の対等性を許さない善意だった。
「また、侍女が交代?」
「ええ、今月で三人目ですわ。皆“自信を失った”と口を揃えております」
侍女たちは、ミリアの下に配属されると、数ヶ月で潰れる。
命じられたわけでも、叱られたわけでもない。
ただ、“期待に応えられなかった”という自責の念に蝕まれていく。
彼女はいつも、優しいまなざしでこう言う。
「……少し、残念ですわね。でも、きっと、もっとできると信じてましたの」
それは、呪いのような言葉だった。
“わたしはあなたを信じていた”。
その一言で、相手は一生立ち直れないほどの罪悪感を抱え込む。
ミリアは命じない。
ミリアは責めない。
だからこそ、深く刺さる。
* * *
けれど、わたくしの中にはずっと違和感があった。
彼女のあまりにも“完成されすぎた善良さ”に、何か、綻びの予感があった。
気づいたのは、王子とミリアの距離が急速に近づき始めた頃。
人前では常に一歩引いていたミリアが、
ふとした瞬間、誰もいない場所で王子の腕に手を添える仕草を見た。
──そのとき、彼女は笑っていなかった。
目は虚ろで、唇の端だけがゆっくりと上がっていた。
まるで、舞台の裏で脚本を確かめる役者のように。
(この子……“演じている”)
直感だった。
でも、それは確信に変わっていった。
* * *
最近の彼女の言動は、不自然に見えてきた。
わたくしが彼女に贈った“和解の手紙”。
それを受け取ったミリアは、誰もいない場所で鏡を見ながら呟いた。
「……リシア様、最近、変わったわ。前は、もっとわかりやすい悪役だったのに」
“悪役”──そう、ミリアにとってのわたくしは、
彼女の物語を際立たせるために存在する“黒”。
黒が濃いほど、白は輝く。
わたくしが傲慢で、冷酷で、陰湿であればあるほど、
彼女は純真で、可憐で、赦しの象徴になれる。
けれど、今のわたくしは違う。
表向きは冷静に微笑み、裏では社交界の噂話を操作し、
ミリアと王子の関係を“あえて肯定的に”扱う記事を出した。
──“嫉妬の炎に駆られた悪役令嬢”ではなく、
“理解ある元婚約者”というポジション。
わたくしは悪役の枠の中で、“別の役”を演じ始めた。
ミリアは、それを察している。
彼女のヒロインポジションが、本能的に揺らぎ始めているのだ。
* * *
では、彼女はどう動くか?
一、わたくしを赦す。
二、わたくしを“再び悪役”に仕立て直す。
彼女が選んだのは──二番だった。
庭園の一角で、ミリアがわたくしに話しかけてくる。
「リシア様。こないだのお手紙……とても嬉しかったですわ。
でも、わたくし……やっぱり少し、怖いんですの。
前のリシア様を思い出すと……また、意地悪されるんじゃないかって」
震える声。揺れる睫毛。
そして、明らかに“観客を意識した”演出。
「ですから、今後は──お付き合いを、少し控えさせていただけると嬉しいのですわ」
つまり、“悪役リシア”の再演を誘導している。
怒れば「やっぱり怖い」。
黙れば「高圧的で陰湿」。
そのどちらでも、彼女は“被害者としてのヒロイン”でいられる。
──なら、わたくしは第三の選択肢を取るだけ。
「お気遣い、ありがとうございますわ。無理なことは申しません。
お望みであれば、わたくし、いつでも“悪役”を演じて差し上げますわよ?」
一瞬、ミリアの表情が凍りついた。
──見えた。
その一瞬に、彼女の中の“焦り”がにじみ出ていた。
ミリアは聖女ではあるが、完璧ではない。
“悪役が消える”というシナリオを、恐れているのだ。
だって、“ヒロイン”とは常に“対立者”がいて初めて成立する役だから。
* * *
その日の夜、サロンで開かれた小さな茶会の中で、
わたくしは意図的に“誰の味方でもない姿勢”を見せた。
「最近のミリア様、お疲れのようで……」
「アルベルト殿下、以前よりも言葉が鋭くなった気がしませんこと?」
「王子と聖女が近すぎるのでは、と懸念の声も一部に……」
名指しはしない。明言もしない。
けれど、“違和感”だけをさりげなく残していく。
──観客たちの表情が揺らぎ始める。
「聖女だからって、何をしても許されると思っているわけじゃ……」
「リシア様、最近お穏やかですのよ」
「もしも……もしも、構図が逆だったら?」
そう、“観客”が思考し始めた瞬間から、物語はもう“台本”ではなくなる。
* * *
ミリアよ。
あなたは、舞台の中心に立つべくして生まれた。
あなたの物語は美しく、尊く、観客にとっての希望だった。
けれど、それは“観客”がそう望んだから成立した幻想。
そして今、観客は気づき始めている。
“この舞台には、悪役がいないのでは?”と。
……それに気づいた時、ヒロインはどうなるのか。
物語が構造から崩壊したとき、舞台に残るのは──
真に観察し、構築し、選び抜いた者だけ。
わたくしは、もう“悪役”ではない。
そして、あなたも、もう“ヒロイン”じゃないのよ。
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