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実在しうる転生シリーズ

断罪された公爵令嬢が立ち上がり全てを取り戻すまで~実在しうる転生からの逆転物語~

作者: KVIN

「貴様との婚約を破棄させてもらう!!」


 おごそかな玉座の間に怒声が響く。今日は私の成人の儀、そして婚約者のお披露目おひろめが行われるはずだった。しかし、いま私がいるはずだった玉座の側に立ち、私に罵声を浴びせているのは、隣国オルフェイア王国の第二王子で婚約者のハンス王子だった。


「アクィターナ公国、公爵家令嬢、リディア・アクィターナ!! いや、この偽公女が!!」


 私は咄嗟とっさに反論できなかった。何故なら私は転生者。こことは別の日本という国で暮らしていた。転生の記憶もあやふやで、その魂は本物の公爵令嬢ではなかったから──


「よくもこの僕をたばかったな!! その罪は重いぞ!!」


 銀灰色ぎんかいしょくの瞳には不安の色がにじみ、ふるふると首を横に振るたび亜麻色の髪が波打つ。


「衛兵! その偽公女を牢屋へ連れていけ!」


 衛兵達は戸惑いながらも、自らの主を牢へ連れていくのだった。


 † † †


「どうしてこんなことになったんだろう……?」


 前世の私はどこにでもいる普通の高校生だった。素敵な転校生の男の子と、ヤキモキする恋をしたっけ。両親は海外で暮らしてたけど、幼馴染の男の子や、大人っぽい兄さん、ちょっと生意気だけど可愛い弟がいたから全然寂しくなかった。白血病という病気で亡くなってしまったけど……うん、それ以外はどこにでもいる『ごく普通の高校生』ね!


 今から八年前、リディアが十二歳のとき、神殿からの帰路を賊に襲撃され、父と姉を目の前で失った。リディアも怪我と激しいショックで意識を失い、そのとき蘇ったのが前世の記憶だ。襲撃のときの記憶は……おぼろげにしか思い出せない。


 暗闇を切り裂く剣戟けんげきの音、空をつんざく雷、大地を満たす血潮。地下牢の暗がりが恐怖の記憶を揺り動かす。


「うん、きっと大丈夫! 魂は違うけど、体は間違いなく本物の公女だもの! 乳母のマーサやダインザール叔父様が本物だって証言してくれるわ」


 リディアは姉の形見──銀のロザリオを握りしめ眠りに落ちていく。


 ──しかし翌朝、リディアの元に届いたのは「偽公女」の処刑が決定されたとの知らせであった……




 † † †




 コツ、コツ、コツ……


 仄暗ほのぐらい地下牢に軍靴ぐんかの足音が響く。


「リディア……」

「ダインザール叔父様!」


 家族を失ったあと、公爵家に残されたのは幼いリディアだけであった。リディアの後継人として、国内の政治をまとめてくれのが、叔父のダインザールであった。


「リディア……とても残念だ……」

「叔父様! これは何かの間違いですよね!? なぜ私が偽物の疑いをかけられているのでしょうか?? 処刑なんて嘘ですよね!?」


 ダインザールは深く息を吐き、低く答える。


「……今更、お前に出てこられても困るのだよ」

「な、なにを……?」


「ハンス王子とは俺の娘を結婚させることになった。王子を婿に迎え、これからは俺と娘でこの国を守っていくよ」

「まさか……叔父様が私をおとしいれたのですか!?」


「……本物のリディア殿下は八年前、家族とともに亡くなられたのだ。そういうことになる……お前には同情するよ」


 そういうとダインザールはきすびを返した。


「待ってください! 待って!!」

 公女の声は地下牢に虚しく響いて消えるのだった。




 † † †




 ひゅう……ひゅう……


 ──お姉ちゃんの秘密の場所を、教えてあげるね。


 地下牢を通り過ぎる風の声が、微睡まどろみの中、遠く記憶の揺りかごを揺らしていた。


 どれくらいの時間が経ったのだろう? ロザリオを握りしめリディアは冷たい床に横たわっていた。仄暗い地下牢は時間の流れを停止させ、それは永遠よりも長く感じられた。


「──リディ! リディ!!」


 鉄格子の向こうから、小さな声が聞こえた。


「……え?」


 リディアが顔を上げると、仄暗い灯りの中、懐かしい姿がそこに立っていた。


「グラハム……?」


 あの頃と同じ、芯の強い琥珀色こはくいろの瞳が、黒髪の隙間から覗く。グラハムは公爵家に仕える騎士家系で幼馴染だ。


「そうだ。久しぶりだな、リディ。話はあとだ。ここを出るぞ」


 グラハムは鉄格子の鍵を、まるで最初から持っていたかのように静かに回した。きしむ扉が音を立てて開き、冷たい空気が流れ込む。


「ねぇ……私、本当に公女なのかな? 偽物じゃない? あの事件のあと、記憶があやふやなの。事件のことも覚えてないし、姉さまのことを思い出そうとすると……」


「お前が偽者だと? 笑わせるな。俺は子どもの頃から知ってるんだ。リディはリディだ。それで十分だろう」


 言葉が胸に刺さる。自分が“本物かどうか”に迷い続けていた心が、少しだけ揺らいだ。


「行こう。今夜が限界だ。ラーナシン将軍が手配してくれた脱出路がある」

「ラーナシン将軍って……お父様の側近だった、あの……?」

「ああ。もう隠居してたがな。今もお前の味方だ」




 † † †




 地下道は旧王家の避難路だったという。王城の下には無数の通路があり、長年使われていなかったが、ラーナシンが密かに整備を進めていた。


「ここから先は、街道には目を光らせているやつらがいるが、将軍が陽動を仕掛けてくれてる。時間は限られてる。替え馬リレーで哨戒線しょうかいせんを一気に突破するぞ! 馬の乗り方は忘れていないな!?」


「ふふっ、忘れたの? 乗馬も剣技も、私に勝てなかったことっ」


「──ッ! 子どもの頃の話だろ!」

 リディアが悪戯いたずらっぽく言うと、グラハムは顔を赤らめて否定した。


「エスコートはよろしくね! 騎士様♪」

「あぁ! 任せろ!」




 † † †




 脱出後、ふたりは郊外の山岳地帯にある古い狩猟館へと向かう。そこには、かつての公爵家の忠臣たちがひそかに集まりつつあった。


「姫様……!」


 ラーナシン将軍は白髪をなびかせながら膝をつき、リディアに頭を下げた。


「ご無事でなにより。ここにいる者たちは皆、ダインザール公に疑念を抱き、姫様の復権を信じる者たちです。あなたが立てば、人は動く。しかし……立たないなら、その火も消える」


「……分かっています。でも、怖いのです。私が呼びかければ、もっと多くの人が巻き込まれてしまうでしょう」


「姫様……」


 ラーナシン将軍が何かを言いかけたそのとき、駆け込んできた斥候せっこうが声を張り上げた。


「報告! 北のアスラン村で蜂起りゅうきした民兵が、全滅とのことです!」


 一瞬、空気が凍った。


「全滅……?」

「住民ごとです。オルフェイア王国の紋章を掲げた部隊が指揮していたと……」


「──ッ! 教えてください! 私が牢にいる間、何が起こったのですか!?」




 † † †




 ──アクィターナ公国 王宮の一室


「ダインザール公、首尾はどうだ?」

 その王座に坐するのは、この公国の主ではない。隣国のハンス王子だった。


「『抵抗軍』は中々しぶとく戦い続けておりますが、鎮圧も時間の問題かと」


「ふん、王国が援軍を用意したのだ。そうでなくては困る。抵抗する勢力は徹底的につぶせ」


「……仰せのままに」




 † † †




「オルフェイア王国が……本当に派兵を……」


 リディアが拳を握りしめる。


「それも、ハンス王子の旗印のもとだ」


 ラーナシン将軍の言葉に、リディアが視線を落とす。


「……なぜ、あの人が。婚約を破棄しただけでは飽き足らず、我が国の国民を……」


「ダインザールと手を組んだのでしょう。自らの娘を公妃に据え、逆らう者は排除。公国は王国の属領と成り下がるでしょう」


 場が静まり返る。リディアは目を閉じ、長い息を吐いた。そしてロザリオを握りしめ決意を口にする。


「……私が立ちます。もうこれ以上、大切な人たちを死なせないために……!」


 ラーナシン将軍は深く頷き、グラハムは静かに笑った。


「やっと戻ってきたな、リディ」

「ううん。戻ったんじゃないわ。今、ここから始めるの。私の意志で!」


 しかし、その決意とは裏腹に、王国軍の圧倒的な戦力の前に抵抗軍は徐々に追い詰められていくのだった──





 † † †





「防衛線を突破されました」


 報告する騎士の顔に、はっきりと絶望が浮かんでいた。


「敵の動きは? 哨戒に向かった騎士たちから報告はどうですか?」

「現在、敵軍一万が進軍を開始。現在、東へ一日分の距離に展開中です」


「はは、三千と、一万か」

グラハムが自虐するようにに呟く。


「敵の主力は王国軍。総大将はハンス王子、副将は“ダインザール・オーグ・ヴラシュカル”です」

「──ッ!!」


(ハンス王子に…… ダインザール叔父様自ら……)


「……ちょっと頭を冷やしてきます」


 リディアは立ち上がり、天幕を後にした。




 † † †




 ──私は、この丘を知っている。


 いつだったか、お父様と遠乗りに来たっけ……


 お母様の記憶は……ほとんどない。お母様は、私がまだ幼いときに亡くなったと聞いている。でも、誰からも教わっていないはずの童謡どうようを、ふと口ずさんだとき、自分の中にお母様を感じた。


 ──しかし、これは“私”が実際に体験した話ではない。

 幼き日の“リディア”の記憶だ。


 しばらく歩くと、さらさらと音を立てて流れる小川にたどり着く。


 もうひとりの家族──姉さま……


 ──ズキン

 鈍い痛みに襲われる……視界がぼやけ、足元がふらつく。


 “リディア”……

 転生前、あなたと姉さまの過去に、一体何があったの……

 なぜ“あなた”は“私”に、その記憶だけを残さなかったの?


 川のほとり、水面に揺れる自分の瞳が、知らない誰かのように見えた。


 ──その瞬間


 まるで神託のように、電流が背を貫いた。


「……川…… いいえ! 水……! いや、でも……!」




 † † †




「討って出ます。騎士たちに出撃の用意をさせてください」


 野営天幕に戻ったリディアが、静かに告げる。


「おい! 三千と一万だ! ここは南の砦に籠城ろうじょうして、機を待つんだ!」


 グラハムの表情には、焦燥しょうそう苛立いらだちが滲んでいる。


「このまま籠城していても徐々に追い詰められます。砦も低地にあり、城壁も低い。包囲されたら終わりです」


「無いよりはマシだ!!」

「どうかご再考を……」


 周囲の騎士もグラハムに同調する。


「考えがあります。指揮官を集めてください。そして地図も。『北部』の地図です」


 そう言い切るリディアの声色には、強い決意が宿っていた。





 † † †





 カッ、カッ、カッ!


 ラーナシン将軍が、剣のつかで地面を三度叩くと、ざわめきは収まり、辺りは静寂に包まれた。


 リディアが壇上に上がると、騎士たちが槍旗そうきを一斉に傾ける。 そしてリディアは公女として語りかけた。静かに、そして諭すような声色で──


「今日、私たちが踏むこの大地は、祖先より受け継ぎし母なる大地『アクィターナ』。 しかし、それはいま王国軍によって蹂躙じゅうりんされ、亡国ぼうこくの危機にひんしています──


 私たちは報復ではなく、回復のために剣をるのです。

 神の田畑を耕す、十字のすきとして刃を振るおう。

 罪ある者を憎まず、罪そのものを討とう。


 ──これこそ騎士修道の誓い」


 静かな説法が、じわりと胸を震わせる。


 しかし、抵抗軍劣勢の報は誰の耳にも届いており、皆一様に表情は暗い──


「祈りつつ進み、信を違えずに戦おう」

「“神が我らと共におらば、誰が我らに敵し得ようか。”」


 聖典の一節が落ち切った瞬間、その声色がわずかに変わった。


 リディアは公女としての言葉ではなく、自分の言葉で語りだす。


「──既に皆も聞いていると思いますが、前線が突破され、敵がここに迫っています」


 騎士たちは、その声に顔を上げ、聞き入る。


「今ここにあるのは、私たち抵抗軍、三千のみ。対する敵は、 ……万の軍勢です。私たちのもとに『死』が静かに迫っています。──死は恐ろしいですか? 私は恐ろしい」


 その言葉に、騎士たちは息をのむ。


「しかし、真に恐れるのは己の死ではありません。大切な人の死です。私はこれ以上、大切な人を死なせないために、ここに立っています。


 そして皆もそうであると信じています。


 敵は私たちより数が多い。しかし、彼らは数を頼む者であり、私たちは志を頼む者です。


 一日、一日だけでいい、敵の侵攻を防ぎ切ってください!

 そうすれば私たちの叡智えいちと、祖霊の御力が必ずや奇跡を起こします! 必ず!!


 私はここに宣言します!! 私たちこそが勝者であると!!


 祖霊の導きと、あなた自身の誇りに誓って、今こそ、その武勇を示せ!!」


「「 おう!!」」


 騎士たちがその瞳に、わずかな光を宿した気がした。




 † † †




 騎士団は東部平原に向かい行軍を開始する。死地におもむく、その足取りは軽くない。


 グラハムはひとり思案する。


 昨晩──


「リディ、本当にできるのか? 大水門を決壊させて、洪水で敵を飲み込むなんて」


 グラハムはそう口にしながら、いぶかしげにリディアを見やった。


「えぇ、洪水で敵を飲み込む。

 そして物資を水没させ継戦能力を奪う。

 糧秣りょうまつがなくなれば遠征軍は引き上げざる負えません」


 リディアの声に、迷いはない。


「ああ! 確かにそれなら、王国軍も撤退せざるおえない! だが敵も馬鹿じゃない! こっちが討って出て、川岸に陣を敷いた時点で気づかれる! 大水門の守りを固められたら終わりだ!」


 グラハムの懸念に、リディアはふっと目を伏せた。


「……これだけの戦力差、そろそろ裏切りや降伏を画策する人もいるかと思うんです」


「……?」

 グラハムはその言葉の真意が分からず困惑した。




 † † †




「ラーナシン将軍、本隊の指揮を任せます」

「……はっ!」


「最初の狼煙のろしから四刻です。四刻を防ぎ切ったら、撤退して構いません」

「姫様……ご武運を……!」


 リディアとグラハムは静かに馬首を返すと、北へ向けて駆け出した。 別動隊が浸透する、静かな川沿いの道を進んでいく。


「三ノ門から大水門までの距離は、凡そ十四キロメートル。抵抗軍と王国軍の戦力差と、水門同士の距離を考えると、水門の破壊にかけられる時間は二刻半です。最初の狼煙から二刻半。それが『約束の刻』よ」


「ここからは別行動ね……私は東岸から、グラハムは西岸から攻め込みましょう」


「……リディ、死ぬなよ」

「グラハム、あなたも」




 † † †




 グラハムは別動隊の一隊を従え、川の西岸を遡上そじょうする。


「──グラハム殿、大水門への道より、少々西にずれているかと」


 別動隊に同行する騎士が、不審げに尋ねる。


「あぁ! 俺たちは大水門には向かわない」

「──なっ!? 一体、何をおっしゃっているのです!?」


 ──その問いに答えるように、グラハムは昨夜の会話を思い返す。




 † † †




「グラハム、あなたにだけ伝えます。これが、本当の作戦です」

 ──リディアは地図を広げ、現在の位置を指し示す。


「私たち別動隊は、大水門を目指し北上します」

 ──リディアの指が、北へ向かい地図をなぞる。


「そして、それを『通り過ぎる』」

「──??」


 リディアが指し示す指は、更に北へ……


「私たちが落とすのは、大水門じゃない。その上流にある三つの水門を一気に落とすの」

「──ッ!?」


「人工的に鉄砲水を発生させ、その猛烈な流れをもって、大水門を決壊させる!!」


 リディアの指が指示したのは、川の遥か上流。


「まずは、上流にある一ノ門、そして支流にある二ノ門を同時に襲います。奇襲により敵を素早く殲滅せんめつしたら、水門を開く。恐らくこの時点で敵は気づく。


 ここからは時間との戦い。下流に向かい、三ノ門に両岸から攻め込みこれを落とす。


 二つまでは、耐える。

 三つなら……大水門は、決壊します!


 水は水竜となり、蛇行だこうする川の東側──低地にある王国軍陣地を飲みこむ!!」


「こいつは…… すげぇ…… 流石さすがは俺のお姫様だ」


「ふふっ、頼りにしてるよ、騎士様♪」




 † † †




「信じがたい…… そんな作戦……!」


 別動隊の騎士たちが、リディアの真意を知り、思わず息を呑んだ。


「恐らく、大水門を決壊させる作戦は、敵に漏れている」


「内通者がいると?」


「それを逆手にとり、大水門に敵の視線を集める!」

「敵の目が大水門を向いている隙に、上流の水門を落とすぞ」


 まっすぐ前を見据え、馬を駆ける!


「見えたぞ! 一ノ門だ!」


 いま、雌雄しゆうを決する戦いが幕をあけた !!




 † † †




 カンカンカンカン──!


 抵抗軍の陣地に、警鐘けいしょうが激しく打ち鳴らされた。 川辺に布陣した三千の兵たちの緊張が、限界まで高まる。


「敵接近ッ! 全軍、備え!!」


 馬上で叫ぶ伝令。地鳴りのような足音が、東から押し寄せる。鎧を打つ武者震い。


 ──そして、地平線の向こうから、黒い波が姿を現す。


 その数、一万以上──三倍以上の敵勢。果てしなく続く戦列。見ただけで心が折れそうな、圧倒的な兵力差だった。


「姫様、長くは持ちませぬ……どうか、お急ぎを……」


 ラーナシン将軍は、その戦列を見つめ唇を噛みしめた。




 † † †




 同じ頃──川上の水門 二ノ門


 それはいつもの退屈な守備任務のはずだった。遥か南では、大きな合戦があるらしいが、こちらには関係がない。 ある者は昼間から酒を楽しみ、ある者は談笑している。


 その日常を──


「何だ? 今日は鳥がやけに五月蝿うるさいな……」


 矢の雨がが貫いた──


「うわぁぁああ!!」

「敵襲か!? て、敵襲だーー!!」


 簡素な柵をなぎ倒し、騎馬隊が一気に雪崩込んてくる!


「進め! 進め! 進めぇ!!」


「工兵を守れ! 守備兵を無力化しなさい!」


 リディアが勇ましく吼えると、嵐のように守備隊を襲い降伏に追い込む。


「回せ! くさびを打て! 水門を破るのです!!」


 工兵が楔を打ち、水門の破壊に取りかかる!


「よし! 次の水門に先行します! 二十騎ついてきて!」

「残りは周囲を警戒して! 工兵を守れ!」


 リディアは馬を乗り換えると、次の水門へと矢のように駆けていった。


 程なくして、背後から雷のような轟音ごうおんがとどろき、地鳴りが追いかけてきた。




 † † †




 川下──抵抗軍布陣地


 東部平野では、川辺に布陣した抵抗軍が粘っていた。 数の上では絶望的だったが、地形を活かした巧みな布陣が功を奏し、王国軍の進軍を寸断している。


「抵抗軍……なかなかしぶといな」


 ダインザールは、戦列後方から冷静に戦況を見つめていた。


「ダインザール様……何かの間違いかもしれませんが、念のため……北の空に、救援を求める狼煙が……」


「………大水門か?」


「いえ、それよりも、更に北です」


「……なんだと?」


 ダインザールの眉がぴくりと動いた。


(大水門じゃない? 何かの手違いか? 抵抗軍に水計の兆候ありとの連絡を受け、大水門の守備兵を増やしていた。大水門を開いて増水させ、渡河とがを妨害してくると読んだのだが……)


 ダインザールは深く息を吐き、思案を巡らせる。


(まあ、この戦力差で、戦力を分散してくれるなら、願ったり叶ったりだな)




 † † †




 ──リディア・アクィターナ


 まさかあの娘がここまでやるとは……八年前のあの日、殺しそびれたツケが回ってきたか。


「ダインザール様、救援を求める狼煙が再び……同じく大水門より北側、先ほどより東寄りです」


(また? 間違いじゃない……このタイミングで……? 明らかに何かの意図がある)


 もう一度、北の空を見上げ、思案を巡らす。


「……いや……まさか……そうか……やるじゃないか。姫様」


「まずいな。本陣に馬を飛ばせ!」

「だが、指示を待っている暇はない。独断で動く! 五十騎用意させろ!」


「ガイル!! ここの指揮は任せた! 五十騎、俺についてこい! いくぞ!!」


 吼えるように叫び、馬に飛び乗る。八年前、逃したその影が、今また、自分の前に立ちはだかるとは──


「奴め! 今さら過去が追いかけて来やがった」

「いいぜ、姫様! 俺が相手になってやる!!」




 † † †




 ──馬を駆ける、駆ける!!


 泥を跳ね、草を蹴散らし、風とともに疾走する。


 それを追う激しい水流!!  すべてを呑み込むような轟音が、すぐ後ろまで迫っていた。


「見えた! 川の合流地点です!!」


 リディアの叫びと同時に、崖上から眼下を見下ろす。対岸を見やると、向こうの川もうねりをあげ、泡立っている!


 二つの水門から解き放たれた水が互いにぶつかり、渦巻く! 凄まじい轟音とともに合流した水流は、巨大な水竜と化す。


 ──馬を駆ける駆ける駆ける駆ける!!


「進め! 進め! この先が三ノ門です!!」


 リディアは馬の腹を蹴り、更に速度を上げる!

 巨大な水竜が凄まじい咆哮を上げ、それを追いかけてくる!!


 凄まじい水しぶき!!

 耳を劈く轟音!!


 そのとき──


 その巨大な水竜の胴の向こう側! 川の対岸に、グラハムの姿を認める!!


「グラハァァァァム!!」

「うまくいったな!! リディ!!!!」


 巨大な水竜を挟んで、二頭の馬が疾走する。


「敵は狼煙に気づいて警戒してます! 防衛体制を取ってる!!」


 リディアが怒号のように叫ぶ。


「関係ねぇ!!」


 グラハムから怒号が返る。


「このまま両岸から! 同時に! 三ノ門に攻め込む!!」

「ブチ抜くぞ!!!!」


 空気が唸り、風が草原をなぎ倒す。空を覆う鉛色の雲の下、ついに雨が降り始めた。


 そして嵐がやってくる。


 ──約束の刻まで、あと一刻半!!




 † † †




 川下──抵抗軍布陣地


「うわぁあああッ! 押されるな!! 退くな! 最後列に詰めろ!」


 雨と泥にまみれながら、抵抗軍の兵士たちは必死に踏みとどまっていた。


 敵軍一万は、まさに巨大な波の如く攻め寄せてくる。剣戟の音がひとつ、またひとつと近づく中、包囲の一角が崩された。 そこから敵が上陸し、橋頭堡きょうとうほが築かれていく。


「予備兵を回せぇええ! 背後に厚みを作れ!!」

「敵を上陸させるなぁああ!!」


 だが、その予備兵も、すでに尽きかけていた。

 戦況は危機的。


 ある者は神にすがり、ある者は剣を握ったまま祈り、ある者は静かに泣いていた。


「あぁ! 神よ…… どうか……」


 ──約束の刻まで、あと一刻!!




 † † †




「リディ!! 後ろだぁあああッ!!」


 雷のようなグラハム声に、反射的に身をひねる。


 刃が鼻先を掠め、寸前のところで斬撃をかわし、銀灰色の瞳が捉えたのは、


 ──私を陥れ、国を売った仇!


「よう! 姫様! 久しいな!! 俺が相手だ!!」


 ──ダインザール・オーグ・ヴラシュカル。


「ダインザァァァァル!!」


 叫びと同時に、リディアは鞘から閃光のように剣を抜いた。ダインザールも応じるように鋭く斬撃を放つ。


 ──キィィィィンッ


 火花が散り、馬上での剣戟が交差する。一太刀、二太刀──風とともに刃がぶつかり、金属の悲鳴が空を裂く。


 剣圧に押され、リディアは馬体をひるがえし、素早く間合いを取った。ダインザールも手綱を引き、馬を小さく旋回させて構えを立て直す。


 二人の間に風が吹き抜ける。 馬上で視線をぶつけ合い、怒気が火花のように飛び散る。


「グラハム! 水門に走って! ここは私が抑えます!」


「──ッ! ……ああ! 死ぬなよ! リディ!!」


「ラング!」


 ダインザールが吠える。


「三十騎預ける! あの野郎を追撃しろ!

 絶対に水門を破らせるな! どんな手を使ってもだ!!」


「はっ!!」


 部下たちが雷鳴の中を駆けてゆく。 その背中にダインザールは一瞬だけ視線をやると、再びリディアを睨み据えた。


「さぁ! 決着を着けようか!!」




 † † †




 グゴオオオオオ……


 巨大な水竜の咆哮が周囲に響き渡る。土砂を巻き込み、岩を砕き、木々をなぎ倒しながら、それはあらゆるものを押し流す。


「見えたぞ! 三ノ門だ!!」


 グラハムの鋭い視線が、水門の姿を捉える!


 三ノ門では、異変を察した守備隊がすでに動き出していた。混乱しながらも、慌ただしく土嚢どのうを積み上げているのが見える。


 巨大な水竜を引き連れたまま、馬を駆ける!

 ダインザールの放った敵騎兵が、少し遅れて対岸を追走する!


「チィッ!! 工兵はすぐ閘門こうもんの破壊に取り掛かれ!」

 ──水竜の頭が三ノ門に到達する!


「十騎は守備隊を蹴散らせ! 工兵の邪魔をさせるな!!」

 ──激しい水しぶきが上がり、大地が軋む!


「残りは敵騎兵を迎え撃つ! ついてこい!!」

 ──混乱する守備隊に一瞥いちべつもせず、これを振り切ると、水門に架かる橋を渡る!


「工兵を狙え! 水門を破らせるな!!」

 ──橋の反対側から敵騎兵が突っ込んでくる!


「「ウォオオオオオオ!!」」

 騎士たちの咆哮ほうこう木霊こだまし──


 両軍の騎士たちは、橋の中心で激しくぶつかった!!

 稲光がその影を、水面に映し出す!!


 ──約束の刻まであと半刻!!




 † † †




 リディアとダインザールは、馬上で剣を激しく切り結ぶ! リディアとダインザールの剣が交錯するたび、騎士たちに緊張が走る。


 そのとき──


 上流から流されてきた巨木きょぼくが、轟音とともに戦場へ突っ込んできた!


「みんな避けてぇえええ!!」

「クソッ!!」


 メキメキと激しい音を上げ、巨木が騎士たちをぎ払う!! 馬が宙を舞い、薙ぎ払われた騎士たちが、水竜の背に叩きつけられる!!


 周囲の景色は一変し、少し離れたところにいたリディアとダインザールが分断された形となった。


「くっ、被害は……」

 ──抵抗軍側の被害は……小さい!


「ギュスターヴ! こっちはもういい! グラハムを追って!!」

御意ぎょい! 無事な者はついてこい! いくぞ!!」


「くそっ! 俺の馬が! お前達は奴らを追え!!」


 剣戟の音が、震える大気を切り裂く。


 約束の刻はすぐそこまで迫っていた──




 † † †




「はぁ……はぁ…… これで最後だ!」

 グラハムが剣で薙ぐ!


「あああぁぁぁ………」


 敵兵の身体は、受け止めた剣ごと吹き飛び、水竜の腹の中へ落ちていった……


「状況はーーー!?」


 グラハムに対岸の工兵に、叫び問いかける!


「閘門の蝶番ちょうつがいを破壊! 楔もすべて打ち込みました! 間もなく冠石かんむりいし陥落かんらくし、流出がはじまります!!」


「よし! あと一息だ!!」


 グラハムは荒く息を吐きながら、拳を握りしめた。


 そのとき──


「ぎゃぁあああ」


 矢の嵐が工兵を襲った!!


「敵襲――! 敵襲――! 弓兵だ! 森に潜んでいるぞ!」


 こちらと同じく、ダインザールも両岸に兵を配置していた。遅れて到着した西岸の敵兵は森に潜み、反撃の機会を伺っていたのだ。


「間に入れ!! 工兵を守るんだ!!」


 矢の嵐は収まらない──




 † † †




 ──騎士たちが森の中に入り込み、弓兵を迎え討つ。


 森のざわめきが収まった頃、生き残った工兵は誰もいなかった……


「クソぉおおおおおお!!」


 グラハムの雄叫びが響き、それを水竜の咆哮がそれをかき消した。


 約束の刻は、既に過ぎていた──





† † †





 カンッ、カンッ──


 ついに抵抗軍の盾列が崩された。


「敵、上陸拠点より突出! 我が背面へ──!!」


 上陸した王国軍は、川辺に布陣した抵抗軍の背後に回り、包囲殲滅ほういせんめつうかがう。


 無数の敵旗が川霧を割って現れる。

 騎士たちは神に祈り、兵士たちは絶望を叫んでいた。


「……ここまでだ」

「全軍、西方の丘へ後退せよ」


 ラーナシン将軍の命に、一同が息を呑んだ。


「私は兵をまとめて殿しんがりとなる。お前たちは、生き延びろ!!」




 † † †




 三ノ門──


「クソぉ… どうすればいい? どうやったら水門を破れる!?」


 すべての工兵を失った別動隊に、もはや成すすべはなかった。


「クソッ、クソクソクソぉおお!! あと! あと一歩なんだ!!」


 そのとき──


「グラハム殿!! 水門の状況は!?」

「ギュスターヴ殿!? お前は!? リディは!? 工兵はいないかっ!?」


「姫様は現在、敵の首魁しゅかいと交戦中です。工兵は五名、随行しています。敵騎兵が数騎こちらに!」


「よし!! すぐ作業に取りかからせろ!!」


 希望が戻ったその声に、騎士たちの顔が上がる。


「騎士たちは敵を歓迎してやれ!」

「「承知!!」」


「グラハム殿、あとは接続石と端石を取り除くだけのようです。あとは重さと水圧で自壊します!」

「ただ人数が少なく、破城槌はじょうついもなく……」


「手が空いている者は手伝え! 破城槌なんかそこら辺の丸太でいいだろう!」


 雄叫びとともに、水門の最後の障壁に丸太を叩きつけた。


 ──すべての水門が破られた。


 そして、遂に、大食らいの巨大な水竜が、その全貌ぜんぼうを見せた……




 † † †




 大水門は困惑していた。


 抵抗軍に水計の兆候ありとの連絡を受け、大水門は厳戒態勢を敷いていた。しかし、届く情報は、別の水門が破られたという情報。


 ひづめの音──


 哨戒に出ていた兵士が帰ってきた。


「水だァァ! 水が来るぞ!! 鉄砲水だっ!! すぐそこまで!!」


 蹄の音とともに帰還した兵の叫びが、陣内を引き裂く。


 耳を劈く水竜の咆哮──

 巨大な水竜が雷の吐息を吐くたび、周囲に轟音が鳴り響く!!


「水門を開けぇええ!! 直撃したら持たんぞぉおおお!!」


 ──もう遅い


 水竜がその巨体を水門にぶつけると、激しい水柱が天を突き刺し、天空から川が降り注いだ!!


 大地の全て軋み、鉄と石を喰い破る音──大水門の激しい断末魔だんまつまが響き渡った!!


 そしてその断末魔が水竜の咆哮にかき消された、

 次の瞬間!! 粉塵雲ふんじんうんを突き抜け、巨大な水竜が大地に解き放たれた──


 人も、大地も、すべての生命が悲鳴をあげ、巨大な水竜に飲み込まれていく。


 雨空の向こう、南の空に、王国軍の悲鳴と、抵抗軍の歓声が木霊していた──




 † † †




 ──いくさの音が消えた。

 騎士たちの叫びも、蹄の響きも、耳に届かない。


 リディアにとって、もはやそれは戦争ではなかった。

 復讐でもなく、使命でもない。


 これは、命が命に問う、『最後の問い』だった。




 剣戟の音。

 ──あの夜、聞いた音。


 空を劈く雷。

 ──あの夜、見た光。


 大地を満たしていく血潮。

 ──あの夜、感じた匂い。


 気が付くと、誰かの名を叫んでいた。


「思い出したかァ!!」


 ダインザールの怒号が飛ぶ。


「俺が殺したんだよ!!」


「そうだ……そうだ、そうだ、そうだ!!」


「姉さまを! 家族をよくも!!」


「恨め! 恨んでいいぜ! 恨みの数なんて、いちいち数えちゃいねぇ!」


 剣が、火花を散らす。


「殺してやる!! 今日、ここで!! あの日と同じ! この場所で!!」


「いいぞ! 来いッ!! 決着を着けてやる!!」


 ダインザールの剣戟が、リディアの頬を掠め、束ねた髪がほどける!!


「良いぞ! 怨念のこもった剣戟だ!」


 ダインザールが、リディアの髪を掴んで引き倒そうとした──その刹那せつな!! 咄嗟に、剣を捨て、左手のナイフで自らの髪を断つ!


 バランスを崩し、大振りになった敵の一撃が、空を切る!

 回避と同時に反撃! ナイフで敵の脚を切り払う!


 切り落とされた髪が、黄金の羽のように宙を舞った。


 倒れた敵の剣をり飛ばし、ナイフを振り下ろす──


 狙った首を、手で防がれ、体をよじって避けられる。

 手指が落ち、ナイフが敵の肩に突き刺さる!!


 真っ赤な血潮が広がり、黄金の羽が血溜りに舞い降りた。


 リディア、剣を拾い上げ、

 トドメを──


「……殺さないで……」


 今更ッ──

 リディアは剣を振り上げる。


 ──その剣に、ロザリオが引っかかり、




 ……千切れた。




 キィン──




 その僅かな感触に、リディアの動きが止まる。


(姉さま……)

 剣を持つ右手が微かに震える。


 リディアは、僅かに剣を握りなおす。


 息を吐き、一度視線を落とし、再び敵を見据え、剣を降ろした。


「……貴方を、捕虜にします」

「処遇は指揮官待遇とし、正式な戦の法に則り、対応します」




 † † †




 この日、抵抗軍三千と王国軍一万は、アクィターナ東部平原で激突した。その戦闘の最中、突如発生した大洪水により、王国軍は三千人の兵士と一千騎の馬、糧末の七割を失い、撤退を余儀なくされたのだった──




 † † †




 エピローグ──


「私の中にね、もうひとり、誰かいる気がするの」


 そう言ったら、姉さまは少し困ったような顔をして──

 でも嬉しそうに笑ってこう言ったの。


「ふふっ……それ、もしかして“友達”かもね? リディが心の中に作った、大切な子」


 ──母を亡くして、泣き暮らしていた幼き日々。


 幼い“リディア”は、しばしば“私”と話をしていたらしい。その声は微かで、けれどたしかに、どこかにずっとあったんだね。


「お姉ちゃんの秘密の場所を、教えてあげるね」


 静かにささやく森の中を進むと、私はふと、そんな声を思い出す。やさしくて、穏やかな、そんな声──


 ビュウッと、強い風が吹き、私の背中を押した。


「ふふっ、姉さま、焦らないで。そんなに強く押したら転んじゃいます」




 † † †




 やがて、こけに覆われ、静かに水をたたえた洞窟が姿を現した。


「ここも、すっかり水に沈んじゃったね……」


 あの森の奥の洞窟。姉さまだけが知っていた『秘密の図書館』。地震のあとに現れたそれは、一千万年前の超古代文明の痕跡こんせきだった。


「この石板、不思議な感じでしょ? チッカケイソっていうんだって。数千万年経っても形を保つみたい。そこに人工言語が刻まれてるの。一週間もあれば覚えられるんだよ」


 笑いながら話していた、姉さまの顔を思い出す。


「ここには、いろんな文章があったんだぁ。古代の記録、当時の文化、そして物語も。語り継がれるような名作から、当時流行していた小説まで、色々な物語が残されていたの。推理小説、学校での青春…… “リディア”はね、その中でも“異世界転生”の物語が好きだったの。『もしこの世界が全部夢なら』って」


「なぜ超古代文明は滅びたか知ってる?」


 ふいに、姉さまの声が風のように問いかけてくる。


「……子どもが、生めなくなったから、でしょ?」


「うん。そういう感染症かんせんしょうだったの。すごく静かに、でも確実に、彼らの未来を奪った。それを悟った彼らは、自分たちのすべてを遠い未来に残そうとしたの。……この図書館に、ね」


 彼らが託した記録。姉さまが何年も何年もかけて読み解いた断片。それを“リディア”は夢中で読み漁った。辛い現実から目を背けるように、超古代文明の生活や文化を学び、物語の世界へ逃げ込んでいった。


 そして……あの日。


 賊の襲撃。家族の死。“リディア”の心は、砕けてしまった。“リディア”の時間はそこで凍り付き。世界は彼女を置き去りにした。


 そして──“私”が生まれた。


 物語のように、『二十一世紀の地球で生きていた記憶を持つ人格』である“私”。


 “私”が目を覚ましたとき、そこは見知らぬ世界だった。剣があり、お城があり、貴族や王族が住まう、そんな世界。住んでいた世界とは何もかもが違ったの。


「そうね。でも、あなたは転生したんじゃない。『記録』を読んで、信じたの。それがあなたを創ったのよ」

「一千万年前の物語や記録。それがあなたが自分の記憶と信じていたもの」


 “私”が前世と思っていた『記憶』は、全部この図書館と、姉さまが遺してくれた『記録』から来ていたんですね。


「……そうね。あなたは物語の中に転生したんじゃない。あなたという人格が、この現実の世界に転生してきたの。一千万年前の物語の中から」


 ありがとう、姉さま……


「どういたしまして。そして、こちらこそありがとう。“リディア”を続けてくれて、ありがとう」


 彼女の声は、もう風の中に消えていた。




 † † †




 その後──


 リディア・アクィターナは公都への上洛じょうらくを果たし、アクィターナ公国の大公に即位した。ハンス王子は国に逃げ帰るが、独断で戦争をはじめ、敗戦をしたことで権威は失墜。その後、廃嫡はいちゃくされたらしい。ダインザールとその娘は現在、北にある塔に幽閉ゆうへいされている。もう二度と出ることはない。人々は公女の帰還を喜び、公国は繁栄の時を迎えるのだった。その傍らには琥珀色の瞳の騎士がひとり。ここから紡がれるのは、また別の物語──


(終)

お読みいただき、ありがとうございました。良かったら☆マークで評価いただければと存じます。


実はこの作品は、完結した「此岸の大地~現実に実在しうる異世界転生~ 」の主人公を公爵令嬢にTSし、伏線やサブストーリーを全てすっ飛ばして、最終章だけを短編にリメイクしたものです。そのため二重人格の伏線もなく、決戦から真相告白が唐突に感じた方も多いかもしれません。こちらの作品で、「実現しうる転生」に興味を持っていただけましたら、ぜひ原作(連載)の方も読んでいただければと存じます。

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― 新着の感想 ―
ハンス王子から婚約破棄された公爵令嬢のリディアは自信なさげで周囲の状況に身を任せていますが、処刑から逃れるために地下牢から脱出し、国情を知るまでの構成がお見事でした。 まるで裏返るように覚悟を決めるリ…
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