リィナの帰郷
4話
ラグリオスの喧騒を後にし、私とリィナは新たな目的地である彼女の故郷の村へと向かう道を歩んでいた。目指す村は、ラグリオスから数日ほどの距離にあるという。道中は、時折、森の獣や、あるいは知性の低いとされるゴブリンのような魔物と遭遇することもあったが、私の純魔力の前では物の数ではなかった。リィナは最初こそ私の戦闘を固唾を飲んで見守っていたが、数度同じような光景が繰り返されると、慣れたのか、あるいは呆れたのか、「ルゥアさん、もうちょっと手加減とか…いや、やっぱりなんでもないです」などと軽口を叩く余裕さえ見せるようになっていた。
「私の村、本当に何もないところですよ? ルゥアさんみたいな人が来たら、みんなびっくりして腰抜かしちゃうかも」
焚き火の火を見つめながら、リィナが少し申し訳なさそうに言った。野営も三日目となり、私たちはだいぶ旅慣れてきたように思う。
「貴女が育った場所なのでしょう? 興味がありますわ。それに、貴女のご家族にもお会いできるのは楽しみです」
私の言葉に、リィナは嬉しそうに顔をほころばせた。
「うん! お父さんもお母さんも、ちょっと頑固だけど優しいし、小さい弟と妹もいるんです。ルゥアさんのこと、きっと歓迎してくれますよ!」
その瞳は、故郷への愛情と、私をそこに連れて行くことへの純粋な喜びで輝いていた。彼女がそこまで言うのなら、きっと素敵な村なのだろう。そう思うと、私の心にも微かな温かいものが灯るのを感じた。
数日後、私たちはついにリィナの故郷である「ミルトン村」に到着した。それは、広大な森林地帯を抜けた先に広がる、小さな谷間にひっそりと佇む村だった。石と木で造られた素朴な家々、畑を耕す村人たちの姿、そして子供たちのはしゃぎ声。ラグリオスのような猥雑さとは無縁の、穏やかで平和な空気が流れている。
「着いたー! ここが私の村です!」
リィナは大きく深呼吸し、満面の笑みで私を振り返った。彼女の表情は、ラグリオスにいた時よりもずっと生き生きとして見える。
村の入り口で、農作業をしていたらしい初老の男性が私たちに気づき、驚いたように目を見開いた後、リィナの姿を認めて破顔した。
「おお、リィナじゃないか! よく帰ってきたな!」
「ただいま、ボルガ村長さん!」
ボルガと呼ばれたその男性は、リィナの頭を優しく撫でた後、私の姿に気づき、少し緊張した面持ちで頭を下げた。
「こちらのお方は……?」
「私の恩人なの! ルゥアさんっていうの。ちょっと事情があって、村でお世話になりたいんだけど……」
リィナがそう言うと、村長は「リィナの恩人となれば、我々にとっても恩人だ。何もない村だが、ゆっくりしていってくだされ」と、深々と頭を下げて私たちを歓迎してくれた。その言葉と態度には、偽りのない誠実さが感じられた。
リィナの家は、村の中でもひときわ小さな、しかし綺麗に手入れされた家だった。家の前では、リィナによく似た目鼻立ちの母親と、幼い弟と妹が彼女の帰りを今か今かと待っていたように駆け寄ってきた。父親は畑仕事に出ているという。
「お母さん、ただいま! この人がルゥアさん!」
「まあ、リィナ! 無事でよかった……。そして、ルゥア様、娘が大変お世話になったそうで、本当にありがとうございます」
リィナの母親は、深々と頭を下げた。その目には涙が滲んでいる。彼女は私の手をとり、食事の準備ができているからと家の中に招き入れた。その際、彼女の手が微かに震えていたことに、私は一瞬だけ気づいたが、久しぶりの娘の帰宅と見慣れぬ客人に緊張しているのだろうと、特に気には留めなかった。弟と妹は、最初こそ物珍しそうに私を遠巻きに見ていたが、リィナに促されると、小さな手で私の服の裾を掴み、はにかんだような笑顔を見せた。
その夜は、リィナの家で、村人たちも集まってささやかな歓迎の宴が開かれた。質素ではあったが、心のこもった手料理の数々。猪の燻製、木の実と野菜の煮込み、焼きたての黒パン。リィナの母親のサラさんは、特に私に対して「旅でお疲れでしょうから、これをどうぞ。滋養がつくハーブをたくさん使いましたのよ」と、一杯の温かいスープをしきりに勧めてくれた。その親切心に感謝し、私はそれを美味しくいただいた。村人たちの素朴な笑顔と、リィナの楽しそうな声。焚き火を囲んで語られる村の昔話や、子供たちの無邪気な歌声。それは、私がこれまで経験したことのない、温かく、そしてどこか懐かしいような時間だった。
私の魔力の事や、私が何者であるかなど、ここでは誰も気にしない。ただ、リィナが連れてきた大切な客として、心から接してくれている。その事実に、私の心の奥深く、凍てついていた何かが、ほんの少しだけ融けていくような感覚があった。
宴も終わり近くなった頃、村人たちは口々に私への感謝と労いの言葉を述べながら、それぞれの家路についていった。しかし、その際、彼らの多くがどこか伏し目がちで、私と真っ直ぐに視線を合わせようとしないことに、微かな違和感を覚えた。気のせいだろうか、それとも、やはり私のようなよそ者は、どこか警戒されているのだろうか。
宴の片付けが終わり私と二人きりになると、私たちは家の前の小さな縁側に腰を下ろし、夜空を眺めた。谷間の村から見上げる星空は、驚くほど澄み渡り、無数の星々が手の届きそうなほど近くに瞬いている。まるでダイヤモンドを散りばめた黒いベルベットのようだ。
「今日の宴、楽しかったですね、ルゥアさん」
リィナが、満ち足りたような声で囁いた。その横顔は、月明かりに照らされて柔らかく輝いている。
「ええ、とても。賑やかで、温かいものでしたわ」
「ラグリオスにいた頃は、こんなふうにゆっくり夜空を見ることもなかったなぁ。毎日必死で……あの街でゼイオみたいな奴と戦ったり、ルゥアさんと出会って、本当に色々なことが変わりました」
彼女はこれまでの短い旅路を振り返るように、遠い目をする。
「貴女の村への想い、そしてエクラティアを崩壊させるという私の目的。道は異なりますが、何かを変えたいという思いは同じなのかもしれませんわね」
私の言葉に、リィナはこくりと頷いた。
「……ルゥアさん。この村、気に入ってくれましたか? ここは貧しいけど、みんな優しくて、温かいんです。私、いつか、ルゥアさんにもこんなふうに心から安らげる居場所ができればいいなって、本当に思うんです。ルゥアさん、いつもどこか寂しそうだから……」
リィナの純粋な願いが、静かな夜気に溶けていく。その言葉は、私の心の最も柔らかな部分に、そっと触れたようだった。
「……居場所、ですの」
私は小さく呟き、星空からリィナへと視線を移した。彼女の真摯な瞳が、暗がりの中でもはっきりと見える。この少女になら、少しだけ、心の奥底に仕舞い込んできたものを話しても良いのかもしれない。そんな思いが、不意に込み上げてきた。
「私にも……かつて、故郷と呼べる場所がありました。けれど、それは幼い日に、理不尽な力によって奪われましたの。それからの日々は……名もなき商品として扱われ、ただ生きるためだけに存在を許されるようなものでした」
言葉を選びながら、私はゆっくりと語り始めた。奴隷として売買され、感情を押し殺して生きてきた日々。首に嵌められた鉄の輪の、あの冷たい感触と、魂まで縛り付けるような重圧感。
「首に嵌められた魔力封印の首輪は、ただ魔力を封じるだけでなく、思考や感情、人間としての尊厳そのものを否定する象徴でしたわ。あの冷たさと重みを、私は生涯忘れることはないでしょう。食事も、寝床も、まるで家畜のような扱い。人間以下の存在として、ただ労働力として消費される毎日……」
語るうちに、当時の無力感や屈辱が、まるで昨日のことのように蘇ってくる。しかし不思議と、それを口にすることへの抵抗はなかった。リィナが、ただ黙って、私の言葉に耳を傾けてくれているからだろうか。
「ルゥアさん……」
リィナの声は震えていた。彼女の瞳には涙が浮かび、私の痛みを自分のことのように感じているのが伝わってくる。
「過去のことですわ。もう、終わったこと。ですが……貴女のような方に、こうして話を聞いていただけたのは……おそらく、初めてのことかもしれません」
そう言って、私は微かに微笑んだ。心の奥に長年澱のように溜まっていた何かが、少しだけ軽くなったような気がした。それは、解放というには些細すぎる変化かもしれないが、私にとっては大きな一歩だった。
「私、絶対にルゥアさんの力になります! ルゥアさんが安心して過ごせる場所、きっと見つけますから!」
リィナは涙をぐっと堪え、力強くそう宣言した。その言葉は、夜空の星々のように、私の心に確かな光を灯してくれた。
部屋に戻ると、サラが私たちのために寝床を整えてくれていた。彼女は私に、温かいハーブティーを差し出し、「これを飲めば、旅の疲れも取れて、ぐっすり眠れますわ。明日はゆっくり休んでいってくださいましね」と、笑顔で言った。その手がまた微かに震えているのに気づいたが、私はそれも客への厚意と受け取り、感謝してそのハーブティーを飲み干した。確かに、濃厚な香りと優しい甘さが体に染み渡り、心地よい眠気が誘われるようだった。
その夜は、リィナの部屋で、彼女の家族が用意してくれた清潔な寝床に身を横たえた。窓からは、穏やかな月光が差し込み、遠くで虫の音が聞こえる。隣で眠るリィナの寝息は、安らかで規則正しい。ハーブティーによる心地よい倦怠感と、リィナの隣で感じる安心感、そして久しぶりに人の温もりに触れた満足感が、私を眠りの底へと押し流していった。
(たまには、このような休息も悪くありませんわね……ええ、本当に)
そんなことを思いながら私はいつしか深い、そして久しぶりに心からの安らげる眠りへと落ちていった。
―*―*―*―*―
翌朝。
小鳥のさえずりが、優しくリィナの意識を現実へと引き戻した。心地よい目覚めだ。窓から差し込む朝日は柔らかく、部屋の中を暖かな光で満たしている。昨夜の宴の楽しかった記憶、そしてルゥアと二人で語り合った星空の下での会話が蘇り、リィナは自然と笑みを浮かべた。ルゥアが少しだけ心を開いてくれたこと、そして彼女の力になると誓ったこと。その全てが、リィナの胸を温かく満たしていた。
(ルゥアさんも、ゆっくり眠れたかな……)
そう思い、隣に用意されたルゥアの寝床に目をやったリィナは、しかし、そこに彼女の姿がないことに気づいた。
「あれ? ルゥアさん?」
もう起きて、家の手伝いでもしているのだろうか。それとも、一人で散歩にでも出かけたのだろうか。
リィナは寝床から起き上がり、部屋を出て家の中を探した。しかし、どこにも彼女の姿は見当たらない。両親に尋ねても、「さあ、まだお休みになっているのでは?」と、どこか曖昧な返事しか返ってこない。
胸騒ぎがした。何か、嫌な予感がする。昨夜の穏やかな時間とは裏腹な、冷たい不安が足元から這い上がってくるのを感じた。
リィナは家を飛び出し、村の中を探し始めた。村長さんの家、広場、昨日宴会をした場所……しかし、どこにもあの美しい金髪の少女の姿はなかった。
まさか、黙って村を出て行ってしまったのだろうか? いや、彼女はそんなことをする人ではない。必ず一言声をかけるはずだ。
焦りが募る。心臓が早鐘のように鳴り響く。
その時、村の集会所の前で、数人の村人たちが何かを囲むようにして集まっているのが見えた。その中には、村長の姿もある。
「村長さん! ルゥアさんを見ませんでしたか!?」
リィナは息を切らしながら駆け寄り、声を張り上げた。
村人たちが、ぎくりとしたようにリィナの方を振り返る。その表情はどこか強張り、リィナと視線を合わせようとしない。そして、彼らが囲んでいたものが、リィナの目に飛び込んできた。
「ルゥア……さん……?」
そこにいたのは、紛れもなくルゥアだった。しかし、その姿はいつもと全く違っていた。彼女は、集会所の太い柱に、まるで罪人のように荒縄で固く縛り付けられていたのだ。深い眠りに落ちているかのように、何の抵抗も見せずにぐったりと項垂れている。その美しい顔には苦悶の色はなく、ただ静かに眠っているようにさえ見える。しかし、その首には、かつて彼女が破壊したはずの、冷たい光を放つ魔力封印の首輪が、再び鈍く、そして嘲るように嵌められていた。
「な……なんで……ルゥアさんが、こんな……」
リィナは目の前の光景が信じられず、言葉を失った。足元から力が抜け、その場に崩れ落ちそうになる。どうして。なぜ。昨夜、あんなにも穏やかに眠りについたはずの彼女が、なぜこんな姿に。
混乱する頭で、リィナは必死に村長に問いかけた。昨日まで、あんなにも優しく、温かい言葉をかけてくれた村長に。
「村長さん……! これ、どういうことですか!? どうしてルゥアさんがこんな目に……!? 誰がこんな酷いことを……!」
リィナの悲痛な叫びにも似た問いかけに、村長はゆっくりと振り返った。その顔には、昨日までの温和な笑みはどこにもなく、能面のような無表情さが張り付いている。そして、彼は、リィナの心を絶望の淵に突き落とす言葉を、淡々とした、感情の欠片も感じさせない口調で告げた。
「ありがとうよ、リィナ。まさかお前さんが、あの高額の賞金首をこうも易々と捕らえてくれるとはな。大助かりだ」
その言葉の意味を理解した瞬間、リィナの世界から、音が消えた。
「ち、違う……! 私は……私はそんなつもりじゃ……!」
か細い否定の声は、しかし、誰の耳にも届かなかったのかもしれない。リィナの瞳からは、堰を切ったように大粒の涙が溢れ出し、頬を伝って乾いた地面に次々と染みを作っていった。信じていた温もりは、冷たい裏切りへと姿を変え、リィナの心を容赦なく引き裂いた。