災厄ゼイオ
噂とは、風のようなものだ。姿なく実体なく、人々の口から口へと渡り、いつしか思いもよらぬ形をとる。私が中立交易都市ラグリオスに足を踏み入れて数日、些細な行いが尾ひれを伴い、街の喧騒に新たな色を添えているのを感じていた。「跪き姫」――いつからか、そんな芝居がかった異名で囁かれるようになっていた。奴隷商ゲルトンを、その圧倒的な力で屈服させた金髪の少女。噂は興味本位の尾ひれをまとい、面白おかしく消費されていく。
「ルゥアさん、最近ちょっと有名になりすぎじゃないですか? 今朝も市場の八百屋のおばちゃんに、『あんたが連れてる綺麗な金髪のお嬢ちゃんが、もしかして噂の“跪き姫”さんかい?』なんて真顔で聞かれちゃいましたよ」
隣を歩くリィナ=カレッタが、香ばしい焼き栗の入った紙袋を片手に、いつもの快活な声でそう言った。彼女の黒いツインテールが、その言葉に合わせて楽しげに揺れる。
この街の光も闇も知り尽くしているかのような彼女の情報網は、時に私を驚かせるほど広範で正確だ。
「私は、ただの旅人に過ぎません。風聞に右往左往するのは、愚かな者のすること。いずれ飽きられれば、風と共に消えゆくものでしょう」
常と変わらぬ落ち着いた声音で返すと、リィナは「またまたご冗談を。ルゥアさんのやったこと、そんな簡単に消えるようなタマじゃないですよ」と頬を膨らませたが、私にとっては事実だ。他者の評価が、私自身の価値を規定するわけではないのだから。
その日も、私はラグリオスの雑踏の中を漫然と歩いていた。この街の猥雑な活気、富と貧困が隣り合わせに存在する剥き出しの空気は、決して好ましいものではない。しかし、目的もなく歩くことで見えてくる街の素顔や、人々の息遣いを感じることは、無意味ではないと思えた。
「そういえばルゥアさん、ちょっと厄介な情報が入ってきたんです」
焼き栗を一つ口に放り込みながら、リィナがふと声の調子を落とした。その緑色の瞳に、一瞬、情報屋としての鋭い光が宿る。
「この街に、かなり腕の立つ、そして何より性質の悪い魔術師が流れ込んできたみたいなんです。この前のあの奴隷商ゲルトンが裏で手を回した可能性が高いです」
「報復、ですか。自身の非力を省みず、他者の力に頼るとは。愚かしいことです」
「ええ、本当に。でも、相手はゼイオ=ナヴァレ。通称『災厄のゼイオ』。やる気出したら一晩で町ひとつ消し飛ばすって噂されてて、どんな依頼でも絶対に失敗しないって有名なんです。圧縮魔法の使い手で私の魔法も、ああいう単純な破壊を好むタイプには、ちょっと相性が悪くて……あ、いえ、何でもないです!」
リィナは何かを言いかけて、慌てて口を噤んだ。
私がリィナの言葉に思考を巡らせようとした、まさにその時だった。
街の一角から、突如として耳を劈くような轟音と、人々の絶叫が響き渡った。乾いた土煙がもうもうと舞い上がり、恐慌に駆られた人々の逃げ惑う声が、風に乗って生々しく耳朶を打つ。
「な、何事ですの!?」
「まさか……ゼイオ!? こんな白昼堂々と!」
リィナと顔を見合わせ、私たちは音源と思われる広場の方へと、瓦礫で足を取られそうになりながらも駆け出した。胸の奥で、冷たい何かが静かに形を取り始めるのを感じる。それは怒りというよりも、世界の調和を乱す異物に対する、純粋な拒絶の念に近いものだった。
辿り着いた現場は、筆舌に尽くしがたい惨状だった。日用品や食料を売る露店は軒並み薙ぎ倒され、木片や商品が広範囲に散乱している。石造りの家屋の壁は無残に崩れ落ち、堅牢であるはずの地面には、まるで巨人が暴れたかのように深い亀裂が何本も走っていた。そして、その破壊の中心に、一人の男が立って哄笑を響かせていた。
だらしなく伸びた黒髪、嗜虐的な喜びに歪んだ醜悪な笑み。その両手からは、不吉な赤黒い魔力のオーラが陽炎のように立ち昇っている。間違いなく、彼がリィナの言っていた「災厄のゼイオ」なのだろう。
「ハハハ! 泣け! 喚け! 無力な者どもが恐怖に歪む顔は、何度見ても飽きねえなぁ! このラグリオスも、俺様の手にかかればただの瓦礫の山だ!」
男はそう叫びながら、再び両腕を振り上げ、その手に凝縮された魔力を無差別に周囲へ解き放とうとしていた。その瞳には、他者の苦痛を蜜とする、底なしの悪意が湛えられている。
許せない。このような理不尽な暴虐、断じて見過ごすわけにはいかない。
私は、リィナが何かを言おうとするのを手で制し、散乱する瓦礫を踏み越えて、その男――ゼイオの前に静かに進み出た。背筋を伸ばし、一切の動揺を見せることなく。
「そこまでですわ、下賤の者。その見苦しい暴虐、私が見過ごすことはできません」
私の静かな、しかし凛とした声は、騒乱の中でも奴の耳に正確に届いたのだろう。ゼイオは面白くなさそうに眉をひそめ、その濁った瞳でこちらを値踏みするように睨めつけた。
「ああん? なんだ、この小娘は。どこから湧いて出やがった。俺様の極上の楽しみに水を差すんじゃねえよ、クソガキが」
吐き捨てるような言葉と共に、彼は懐から魔術師がよく用いる携帯型の魔力測定器を取り出し、私に向けた。その扁平な水晶部分に、何らかの数値が浮かび上がるのだろう。その結果を見て、ゼイオは侮蔑を隠そうともせず、鼻で笑った。
「……『10』だと? ハッ、冗談きついぜ! 子猫以下じゃねえか。こんな雑魚に邪魔されるとは、興醒めもいいところだ。ちなみに俺様は、この通り『200』だ! この魔力偏差値が何を意味するか、てめえのような無能には理解できんだろうがな!」
測定器に赤々と表示された「200」という数値をこれ見よがしに突きつけ、ゼイオは完全に私を侮りきった様子で高笑いを始めた。魔力の“偏差値”が絶対の基準となり、社会階級すら左右するこの世界において、その数値は確かに一般人にとっては絶望的な脅威なのだろう。周囲で遠巻きに見ていた市民たちからも、恐怖と絶望が入り混じったような、低い囁きが聞こえてくる。
「ルゥアさん、本当に大丈夫なんですか……? あの数値、並の騎士団長クラスですよ……!」
リィナの心配そうな声が背後から届いたが、私は微塵も動じなかった。彼女の不安はもっともだ。しかし、そのような表層的な数値で、私の本質が測れるはずもない。
「魔力数値など、所詮は飾りですわ」
私は静かに、しかし確信を込めて言い放った。
「本当の強さというものを――その身に教えてさしあげます」
私のその言葉が、まるで戦いの開始を告げる合図であったかのように、ゼイオは再び両腕を振りかぶり、今度は周囲で逃げ遅れた市民たちに向けて、明確な殺意と共に圧系の魔術を放ち始めた。ゴウ、と空気を圧する音と共に、地面が抉れ、人々が木の葉のように吹き飛ばされる。悲鳴と絶叫が、広場に木霊した。
「巻き込ませはしませんわ!」
私は右手を水平に、淀みなく薙いだ。詠唱は不要。ただ、内なる純魔力の意識を集中させ、その指向性を定めるだけ。その瞬間、私とゼイオの間、そして攻撃の射線上にいた市民たちを隔てるように、空間そのものが揺らぎ、目には見えぬ透明な障壁が形成された。ゼイオの放った赤黒い魔力の奔流は、その不可視の壁に激突し、まるで実体のある何かに阻まれたかのように勢いを失い、やがて霧散していく。
「なっ……! 俺様の魔術が、ただの小娘に防がれただと……!?」
ゼイオが初めて驚愕の表情を見せた。自身の魔力偏差値への絶対的な信頼が揺らいだのだろう。その顔には焦りと、そして理解を超えた現象に対する僅かな恐怖の色が浮かんでいた。
形勢不利と見たのか、あるいは単にその歪んだ嗜虐心をさらに満足させるためか、ゼイオは近くで腰を抜かし、怯えていた若い女性に狙いを定め、その細い腕を掴もうと手を伸ばした。
「チッ、面倒な小娘だぜ! こいつを人質にして、嬲り殺してやる!」
その汚れた手が、恐怖に引きつる女性に触れる寸前、赤い影が疾風のように素早く割り込んだ。リィナだ。彼女は女性を力強く突き飛ばして庇い、身代わりになるようにゼイオの凶手に捕らえられてしまった。
「どうだ! この女がどうなってもいいのか!? それとも、仲間ごと撃ってみるか、ああん!?」
ゼイオはリィナの細い首に腕を絡め、盾にするように自分の体の前に引き寄せ、下卑た笑みを浮かべる。彼の体格に比べ、リィナの体はあまりにも華奢に見えた。
しかし、その絶体絶命の状況にあっても、リィナは怯むことなく、むしろ挑戦的なほど真剣な眼差しで私を見つめ、凛と張り上げた声で叫んだ。
「大丈夫です、ルゥアさん!信じてますから、私のことは気にせずドーンとやっちゃってください!」
その緑色の瞳に宿る、揺るぎない覚悟と私への絶対的な信頼。私は、ほんの一瞬の逡巡の後、静かに、しかし強く頷き返した。彼女の勇気を無駄にはしない。
私は右手をゼイオに向け、意識を深く集中させる。この世界で最も基本的とされる攻撃魔法、エネルギー弾術「ヴィルガーナ」。本来はリンゴを貫く程度の、魔術師見習いでも習得可能な初級呪文。しかし、私の根源的な純魔力で放たれるそれは、もはやその原型を留めぬ、別次元の破壊力を秘めた殲滅の光へと昇華する。
指先に、莫大な魔力が急速に圧縮され、眩い青白い雷光が凝縮されていくのが、自分でもはっきりと感じられた。それはまるで、小さな太陽が生まれ出る瞬間のようだった。
「バ、バカな……この状況で、仲間ごと撃つつもりか……! 正気じゃねえ……!」
ゼイオが、その顔から血の気を失わせ、狼狽の声を上げた。彼の常識では、理解不能な行動なのだろう。
私は、ただ静かに、その極限まで凝縮された純魔力の塊を解き放った。
ゴォォオオオオンッ!
耳を聾するほどの轟音。
閃光が、空間を切り裂くように一直線にゼイオと――その腕に囚われたリィナごと――呑み込もうと突き進む。家屋を粉砕し、地面に深いクレーターを穿つほどのエネルギー奔流。
ゼイオの顔が、死を悟った者の絶望に染まる、その刹那。
彼の腕に抱えられていたはずのリィナの姿が、まるで陽炎のようにふわりと揺らめき、そして――実体なく霧散した。
「なっ!? 幻だと!?」
ゼイオが呆気に取られた、まさにその瞬間、彼の背後から、本物のリィナが軽やかに姿を現した。
「信じてましたよ、ルゥアさんならきっと撃ってくれるって、その勇気に応えるために、私も全力で幻影を張りました。はい、残念!今あなたが掴んでたのはただの幻です。これが私の魔法――幻影魔法『ミラザール』!」
リィナの凛とした、勝利を確信した声が広場に響き渡る。見事な手際、そして胆力。私が「ヴィルガーナ」を放つ寸前に、彼女は自身の精緻な幻影と本体を瞬時に入れ替え、ゼイオの死角へと巧みに移動していたのだ。それは、単なる幻影の生成に留まらない、高度な状況判断と精密な魔力制御の賜物だろう。
動揺し、完全にがら空きになったゼイオに向けて、私は間髪入れずに二射目の「ヴィルガーナ」を放った。今度は一切の手加減なし。先程よりもさらに巨大な青白い雷球が、大気を震わせる凄まじい轟音と共にゼイオの胴体を正確に貫いた。
「ぐ…あああああああっ……!」
断末魔の絶叫を上げ、ゼイオはその場に力なく崩れ落ちた。その体は激しい衝撃で黒く焼け焦げ、もはや虫の息。彼の周囲の地面は、その余波だけで大きく陥没し、放射状に亀裂が広がっていた。
「魔力数値……あれは、嘘だったのか……? お前、一体、何者なんだ……この、怪物め……」
それが、彼の最期の言葉だった。その瞳には、信じられないものを見たという驚愕と、理解を超えた力への恐怖、そして自らの矮小さを悟ったかのような絶望が浮かんでいた。やがてその光は消え失せ、彼は動かなくなった。
嵐が過ぎ去ったかのように静まり返った広場に、やがて堰を切ったように市民たちの歓声が沸き起こった。
「助かったぞ!」「悪党がやられた!」「あの二人の嬢ちゃんたちが助けてくれたんだ!」「すげぇ……あんな魔法、見たことねえ!」
口々に感謝の言葉を述べ、安堵の表情を浮かべる人々。中には、私たちを新たな英雄と称え、その戦いぶりを興奮気味に語り合う声も混じっている。その喧騒は、破壊された街の風景とは裏腹に、どこか祝祭のような熱気を帯びていた。戦闘の余波で舞い上がった土埃がゆっくりと地面に落ち、夕暮れの陽光が斜めに差し込む頃には、広場の騒ぎも少しずつ落ち着きを取り戻し始めていた。
リィナが、額の汗を手の甲で拭いながら、少し頬を赤らめて私のそばへ駆け寄ってきた。その表情には、安堵と誇らしさ、そしてほんの少しの疲労が浮かんでいる。
「ねえルゥアさん、今の私、結構頑張ったと思いません? ほら、一回だけでも褒めてもらえたら元気出るんですけど!」
その声は弾んでいたが、間近で見れば、彼女の呼吸はまだ少し乱れている。幻影魔法の行使は、見かけ以上に精神を消耗するのだろう。
私は、その健気で勇敢な姿に、知らず自然な、そして穏やかな微笑みが浮かぶのを感じていた。
「ええ、見事な幻影でしたわ、リィナ。あなたの『ミラザール』と、その機転と勇気がなければ、こうも容易く事は運びませんでしたでしょう。素晴らしい活躍でした」
「へへ……あ、ありがとうございます! ルゥアさんに褒められると、なんかこう、むず痒いけど嬉しいです!」
素直に称賛の言葉を紡ぐと、彼女は満面の笑みを浮かべ、その喜びを隠そうともしなかった。その屈託のない笑顔は、この殺伐とした街では稀有な輝きを放っているように思えた。
しばらく、私たちは言葉もなく、夕陽に染まりゆくラグリオスの空を眺めていた。戦いの後の静寂が、心地よく二人を包む。やがて、リィナが何かを思い出したように、悪戯っぽい光を瞳に宿して私を見上げた。
「ねえ、ルゥアさん。私の幻影魔法……見抜いてました?」
その問いかけは、不意だった。私は僅かに視線を彼女に向け、静かに問い返す。
「……なぜ、そう思われますの?」
リィナは、ふふっと小さく笑みを漏らしながら、自信ありげに胸を張った。
「だって、ゼイオに“ヴィルガーナ”二発撃ってましたよね。ルゥアさんの力なら、一発目で十分倒せたはずなのに、何で二発も撃ったのかなーって。もしかして、私が幻影だって分かってなくて手加減してました?」
私は小さく息をつき、夕焼けの空に再び視線を戻した。
「……別に、貴女を信じていなかったわけではありません。ただ、“念には念を”――ですわ」
それは、我ながら苦しい言い訳だったかもしれない。リィナの幻影を見抜いていなかったわけではない。だが、万が一という可能性を、私は常に考慮する。
リィナは、私のその答えに満足したのか、あるいは私の心中を察したのか、楽しそうに肩を揺らした。
「ふふっ。ありがとうございます……じゃあ、もし私が本物だったら、それでも――ルゥアさんはためらわずに魔法を放ってくれてました?」
その言葉には、先程までの快活さとは少し違う、どこか試すような、それでいて縋るような響きが混じっていた。
私は、その問いには直接答えず、ただ静かに、夕暮れの風に髪を遊ばせながら、呟くように言った。
「迷う理由など、ありませんわ」
その言葉にどのような意味を込めたのか、リィナがどう受け取ったのか。それは、私たち二人の間にだけ存在する、言葉にならない約束のようなものかもしれなかった。
ただ、この騒がしいけれど信頼できる少女が隣にいるという事実は、これから始まるであろう過酷な運命の中で、私にとって一条の光となるのかもしれない。そんな予感が、胸の奥にかすかに灯っていた。
【ヴィルガーナ】
初等攻撃呪文。体内魔力を圧縮・収束し、光弾として射出する魔法体系の基本。
発動時、術者の指先や掌より青白く発光するエネルギー球が形成され、直線的な軌道で対象に命中する。
威力・射程・連射速度は術者の魔力偏差および集中力に依存し、ごく少数の天才を除き、“小動物を撃退する”程度の威力が標準とされる。
【ミラザール】
幻影魔術。自らの魔力を用いて、自身の姿・気配・声を精緻に模した“幻影”を創出する。
幻影は本体の意思で自在に動かすことができ、視覚・聴覚情報も高度に再現されるため、至近距離でなければ判別困難。
直接の攻撃力は持たないが、敵の目を欺き、攻撃や追跡を回避するほか、人質の“すり替え”や囮など多様な戦術運用が可能。
――魔導大典より抜粋