「ごきげんよう、下賤の者」
椅子に座って、温かい食事を待つ。たったそれだけのことで、胸の奥に微かな幸福が灯る。中央都市ラグリオスの喧騒から一歩離れたこの小さな食事処の窓際は、私のささやかな聖域だ。降り注ぐ陽光は、磨かれた木製のテーブルに柔らかな光の斑点を描き、やがて運ばれてくるであろう料理への期待を静かに育んでくれる。
私はルゥア=フィロス。かつては名もなき村の娘だったが、今は違う。いや、正確には、何者でもないのかもしれない。ただ、私自身の意志で、こうして生きている。それだけが確かなこと。
艶やかな金色のボブヘアーは、どんな時も手入れを怠らない。白いポンチョが付いた紺色のワンピースは、動きやすさと最低限の品位を両立させてくれる。そして、この白手袋。直接何かに触れることの不快さから私を守り、同時に、私自身の内なる何かを、僅かながらでも覆い隠してくれるような気がするのだ。
運ばれてきたのは、野菜と干し肉を煮込んだシチュー。湯気が立ち上り、素朴ながらも食欲をそそる香りが鼻腔をくすぐる。スプーンを手に取り、まずは一口。うん、悪くない。飛び上がるほど美味というわけではないけれど、丁寧に作られたことがわかる温かな味だ。こういう当たり前の食事ができることの尊さを、私は誰よりも知っているつもりだ。かつて、泥水を啜り、残飯を漁った日々を思えば、この一皿はまさに天上のご馳走に等しい。
背筋を伸ばし、周囲の喧騒には意識を向けない。このラグリオスという街は、中央帝国と辺境の文化が猥雑に混じり合い、富と貧困、自由と隷属が隣り合わせに存在する場所。裏社会が蔓延り、奴隷売買も公然と行われている。治安が良いとはお世辞にも言えないが、それでも、この街にはある種の活気と、そして何よりも「機会」があるように感じられた。私のような者でも、息を潜めて生きていくには、案外悪くない場所なのかもしれない。
ふと視線を上げると、斜め向かいの席で、黒髪のツインテールを揺らしながら、何やら熱心にメモを取っている少女が目に入った。年の頃は私と同じくらいだろうか。濃い緑色の上着に赤茶色のショートパンツという活動的な服装で、腰には情報屋が使うような小さな革ポーチをいくつもぶら下げている。時折、眉間にしわを寄せたり、小さく頷いたりしていて、見ているとなかなか面白い。きっと真面目なのだろう。彼女もまた、この街で懸命に生きている一人なのだと感じた。
と、思考の海に沈みかけていた私の意識を、荒々しい物音が現実に引き戻した。
バタン!と店の扉が乱暴に開け放たれ、小さな影が息を切らして転がり込んできた。見れば、痩せこけた少女だ。年の頃は私と同じくらいだろうか。ボロボロの衣服をまとい、首には冷たい光を放つ鉄の首輪が嵌められている。怯えきった瞳が、助けを求めるように店内を彷徨っていた。
「ヒッ…! た、助け…て……」
か細い声は、しかし、すぐに野太い怒声によってかき消された。
「どこへ逃げやがった、このクソアマがァ!」
扉口にぬっと現れたのは、見るからに下劣な男だった。油ぎった中年の男で、不健康に太った体躯を揺らしながら、血走った目で少女を探している。その顔には卑しい笑みが浮かび、太い指にはこれ見よがしに金の指輪がいくつも光っていた。奴隷商のゲルトン=ファーヴ。この界隈では悪名高い男だ。彼の背後には、同じく粗野な雰囲気を漂わせる手下が二人、威圧するように立っている。
店内の空気が一瞬で凍り付いた。他の客たちは息を飲み、あるいは見て見ぬふりを決め込んでいる。関わり合いになりたくない、という無言の空気が場を支配する。それが、この世界の常識であり、処世術なのだろう。魔力の“偏差値”が社会階級を決定づけるこの世界において、弱者は常に強者の餌食だ。奴隷とは、その最たるもの。
ゲルトンは、床に蹲る少女を見つけると、下卑た笑みを一層深くした。
「おやおや、こんな隅っこに隠れていやがったか。手間かけさせやがって、この不良品が。さっさと戻るぞ!」
そう言って、少女の腕を掴もうと手を伸ばす。少女の顔が絶望に歪む。
カチャリ。
私がスプーンを皿の縁に置いた音は、静まり返った店内では存外大きく響いた。
ゆっくりと、しかし一切の淀みなく、私は席を立つ。そして、震える奴隷少女の前に、静かに歩みを進めた。私の白いポンチョが、まるで盾のように少女を覆う。
ゲルトンは、私の唐突な行動に眉をひそめた。値踏みするような、そして侮蔑を隠そうともしない視線が私に突き刺さる。
「ああん? なんだい、嬢ちゃん。英雄気取りか? そいつは俺様の商品だ。邪魔するってんなら、お前さんも痛い目見ることになるぜ?」
彼はそう言って、腰に下げた短鞭に手をかけた。命令魔法でも使うつもりなのだろうか。下劣な輩が好みそうな、相手の意思を捻じ曲げる類の魔術。
私は、その汚らわしい男から視線を逸らさず、ただ静かに見据える。表情を変える必要などない。感情を表に出すのは、無駄なエネルギーの消費だ。ただ、私の内側で、冷え切った何かが確かな形を取り始めていた。それは怒りというよりも、もっと純粋な「排除」の意思。私の平穏を、そしてこの世界の僅かな美しささえも汚そうとする存在への、絶対的な拒絶。
「ご気分が悪いようですわね。外で静かにしていただけますか?」
私の声は、鈴を転がすように、しかし氷のような冷たさを伴って響いた。
ゲルトンは一瞬呆気に取られたようだったが、すぐに顔を真っ赤にして怒鳴り返してきた。
「ふざけたこと言ってんじゃねえぞ、小娘が! どかねえってんなら、力ずくで…!」
彼が何かを喚き終える前に、私は右手を軽く、ほんの僅かに持ち上げた。
「跪きなさい」
瞬間、ゲルトンとその手下たちの足元が、まるで意思を持ったかのように、音もなく陥没した。
彼らの驚愕に歪んだ顔。遅れて発せられた悲鳴にも似た声。しかし、それもすぐに途絶える。彼らは、為す術もなく、その場にぽっかりと空いた穴の中へと吸い込まれていった。土煙が舞い上がり、後に残ったのは、不自然なほど静かな空間と、呆然と立ち尽くす店内の人々、そして、何事もなかったかのように佇む私だけだった。
「……ちょっとやりすぎましたわ」
床に開いた穴は、まるで深淵が口を開けたかのようだった。これが私の力、“純魔力”の一端。根源的な出力そのものであり、制御が困難な“圧”そのもの。それは空気や空間そのものを歪め、既存の魔法など意にも介さない。
奴隷だった少女は、目の前で起きた出来事が信じられないといった表情で、ただ私を見上げていた。私は彼女に一瞥もくれることなく、勘定場へ向かう。食事代を支払い、静かに店を出た。騒ぎの後始末は、この店の者か、あるいは街の衛兵でもすればいい。私の関知するところではない。
石畳の路地裏を抜け、夕陽がオレンジ色に街を染め始めた大通りに出ようとした、その時だった。
「あ、あのっ! お待ちくださいませぇえええ!」
背後から、やけに甲高い、しかし妙に耳に残る声が追いかけてきた。振り返る気はなかったが、その声には無視できないほどの必死さが滲んでいた。
仕方なく、私は足を止め、ゆっくりと振り返る。
そこには、黒いツインテールを肩のあたりで揺らしながら、こちらへ向かって全力で駆けてくる少女の姿があった。
息を切らし、頬を紅潮させながら、彼女は私の目の前でようやく立ち止まった。ぜえぜえと肩で息をしながらも、その瞳は好奇心と興奮で爛々と輝いている。
「はぁ…はぁ…! よ、ようやく追いつきました…! あの、私、リィナ=カレッタと申します! あの、その…あなた様は、一体…!?」
敬語を使おうとしているのか、途中で言葉遣いが乱れている。手をぶんぶんと振りながら、勢いよくまくし立てるその様子は、まるで嵐のようだ。その表情には、感謝と興奮、そして何故あのようなことができたのかという純粋な疑問と、ほんの少しの呆れにも似た感情が浮かんでいるように見えた。なかなか表情が豊かで、そして、少々騒がしいお嬢さんだ。
私は、ただ黙って彼女を見下ろす。夕陽が彼女の黒髪を縁取り、その熱心な瞳をキラキラと照らしていた。
さて、どうしたものか。この手の、ある種馴れ馴れしいまでの勢いは、あまり得意ではないのだが。
「…何か、御用でしょうか」
努めて平坦な、抑揚のない声で、私は問いかけた。私の言葉は、彼女の熱量とは対照的に、どこまでも冷静だ。
リィナと名乗った少女は、私のその態度にも怯むことなく、さらに一歩踏み込んできた。
「御用も何も! さっきの、すごかったです! あの悪徳奴隷商のゲルトンが、一瞬で…! 一体どんな魔法を使ったんですか!? あんなの見たことありません!」
その瞳は、純粋な探究心で輝いている。彼女もまた、このラグリオスの裏側を知る者なのだろう。奴隷商の名前を知っているくらいなのだから。
「魔法、と申しますか…わたくしにとっては、ごく自然な振る舞いに過ぎませんわ」
「ええー!? 普通じゃないですよ!? ていうか、あの人たち、どこ行っちゃったんですか!? まるで地面に飲み込まれたみたいでしたけど…!」
リィナは信じられないといったように、先ほどの食事処の方を振り返る。
「事実として、彼らは地面に跪いておりましたわ。わたくしの足元に、文字通り」
私はそう言って、小さく微笑んでみせた。もちろん、本心からの笑みではない。ただ、この状況を少しでも早く終わらせるための、一種のポーズだ。
リィナは私の言葉に、一瞬固まった後、さらに大きな声で叫んだ。
「いやいやいや! 跪くとかそういうレベルじゃなかったですよね!? あれはもう、地獄に落とされたって感じでしたよ! ルゥアさん、あなた一体何者なんですか!?」
いつの間にか、私の名前を呼んでいる。まあ、いいだろう。些細なことだ。
「わたくしはルゥア=フィロス。ただの旅の者ですわ」
「旅の者があんな無茶苦茶なことしますか!? あの、もしよかったら、少しだけお話聞かせてもらえませんか? 私、情報屋なんです! あなたみたいなすごい人のこと、もっと知りたくて!」
その瞳は、どこまでも真っ直ぐだった。私を恐れるでもなく、ただ純粋な好奇心と、そしてどこか、助けられたことへの恩義のようなものが感じられる。
私は、この騒がしい少女の申し出を、どうするべきか、ほんの少しだけ逡巡した。一人でいることの気楽さは捨てがたい。しかし、このラグリオスで情報を得るには、確かに現地に詳しい協力者がいた方が何かと便利かもしれない。そして何より、このリィナという少女の、曇りのない瞳が、ほんの少しだけ、私の凍てついた心に何かを訴えかけてくるような気がしたのだ。
「…よろしいでしょう。ただし、あまり騒がしくなさらないでいただけますか?」
私の言葉に、リィナの顔がぱあっと明るくなった。
「本当ですか!? やったー! ありがとうございます、ルゥアさん! 絶対に騒ぎませんから、お任せください!」
そう言って、彼女は私の隣にぴょこんと並んだ。その元気な様子は、先ほどの約束を早速破りそうだったが、まあ、今は良しとしよう。
こうして、私の旅は、図らずも二人旅となった。
このリィナという少女が、私の運命にどのような影響を与えるのか。それはまだ、誰にも分からない。ただ、夕焼け空の下、二人で歩き始めたこの道が、どこへ続いていくのか。ほんの少しだけ、胸が高鳴るのを感じていた。ほんの、僅かではあるが。
私、ルゥア=フィロスの物語は、このラグリオスの街で、こうして新たな一歩を踏み出したのだ。
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