独身陛下に求婚されました〜君に求めるのは正妃としての役割だけだ、と言われたのでがんばっていますが、これってまさか溺愛……のはずありませんわね!〜
「サーシャ・リトリフ! 貴様との縁もこれまでだ」
皆が美しく着飾り、談笑しているこの場所に不釣り合いな怒声。
それは、この場所で王太子の婚約者として一際豪華に着飾った私に向けられた。
怒声の主は、公爵家長男ロレッゾ・シュアリー様だ。
銀色のくすんだ髪に、青い瞳を持つ彼は、絶世の美青年と言っていいだろう。
だが、驚いて振り返った私に向けられた、蔑みを含んだ笑みは、どう見ても醜悪だ。
「どういうことですか?」
普段は感情を表に出さないように努めている私の声には、明らかな困惑が含まれている。
私、侯爵家令嬢サーシャ・リトリフと公爵家長男ロレッゾ・シュアリー様の婚約は、王命により決められたもの。
こんなふうに、こんな場所で覆されて良いものではない。
(よりによって、陛下の誕生日祝いにこんな発言をするなんて……)
チラリと、本日の主役に目を向ける。
相変わらず、無表情のままのお方は、無言のまま、ご自分のめでたい誕生日に引き起こされた出来事を見下ろしている。
その心中を想像できる人間など、この場にはいないに違いない。
(相変わらず、何を考えておられるのかわからないわ。どういった鍛練を積めば、あそこまで無表情でいられるのかしら)
淡いピンク色の髪に鮮やかな空色の瞳をした私は、ともすれば子どものように見えてしまう見た目のせいで侮られたりしないよう、王太子の婚約者に相応しい振る舞いを心がけてきた。
陛下を見本に、私情を挟まないように、公平であるよう心がけてきた日々は、他者の目には、ときに冷たく映りもしただろう。
それもこれも、壇上からこちらを眺める陛下のためだったというのに、まさか祝いの席でこんなことになるとは……。何度目かわからないため息を密かにつく。
ロレッゾ様は勉強嫌いで、王太子としての自覚が薄いけれど、こんな場所で、こんなことをする人ではない。
そのことに強い違和感を感じつつ、いつもと違って暗い瞳をしたロレッゾ様を見つめる。
「どういうことなのか、自分の胸に聞いてみろと言いたいところだが……」
(やっぱり、何かがおかしいわ)
優雅に扇を広げ、首をかしげ、表情を取り繕う。
この場所には国内外の要人が集まっている。どんな理由にせよ、こんな場所で婚約破棄を宣言すれば、もちろん撤回不可能だ。
王太子妃となるべく、ゆくゆくは王妃となるべく歩んできた道。
大好きな魔法の研究も諦めて、この国に忠誠を誓った私の生き方は、ここに来て完全に否定されてしまったようだ。
「ふん、相変わらず可愛くない女だ。そうやって、彼女に嫌がらせをし続けたのだろう」
「彼女、とは」
無表情のまま問いかけた私に、ロレッゾ様は、己の意のままにならない苛立ちを強めたのか、表情をさらに険しくした。
「決まっているだろう! 貴様が繰り返し嫌がらせした、男爵家令嬢リゼリアだ!!」
「嫌がらせなど、しておりませんわ」
「嘘を言うな!! 確かな情報が!!」
「確かな、情報……」
ロレッゾ様の後ろ、かなり離れた位置からこちらを眺めている亜麻色の髪の少女。
彼女は、王立学園で私と仲良く過ごしていた。
確かに、ロレッゾ様は彼女に興味を示していたけれど……。
青ざめたままリゼリアは、私に視線を向け、涙目のまま頭をぶんぶん振っている。
彼女は、聖なる力を持つとされ、次期聖女との呼び名高い。
魔法の研究をこよなく愛する私と彼女は、秘密裏に会合しては、聖魔法と闇魔法について語り合っていた仲だ。
(どう考えても今回のことをロレッゾ様に焚きつけた人間は、神殿派でも国王派でもないわ……。魔塔派の可能性が高いけれど、両方の権威の失墜を狙ったのかしら。聖女と次期王太子妃である私たちの仲が良いことは、どこから情報漏えいしたのかしら)
けれど、こうなってしまえば、リゼリアが聖女になるのも、私が王太子妃になることも叶わないだろう。
このとき、壇上から無言のままことの成り行きを眺めていた陛下が、小さくため息をついて立ち上がる。
「ふむ、なかなか楽しい余興であった」
慌てて深い礼をした私を目の前まで歩み寄った陛下が見下ろす。
その人の髪は、白銀。そしてその瞳は恐ろしさを感じるほど深く美しい紅をしている。
「…………」
深い礼をしながら、不意に泣きそうになる。
王国のためというのは、ただの言い訳で、ときに厳しく、ときに優しく接してくれた、この方のお役に立ちたかった。
その願いは、脆くも崩れ去ってしまったけれど、迷惑を少しでもかけずに退場できるように、目まぐるしく思考を巡らせる。
(でも、答えは一つしかない。この、陛下の瞳の色にそっくりなルビーのブローチには、毒針が仕込んであるから……)
どちらにしても、私はこの王国のことを知りすぎた。ただの侯爵令嬢に戻れば、他国や王国に対する反勢力に利用される可能性がある。私を生かしておくなんて、とてもできないだろう。
「これまでの数々のご恩、リトリフ侯爵家サーシャ、一臣下として決して忘れることはありません。私の力及ばず、こんな騒ぎを起こしてしまいましたが、どうか我が一族には寛大なご沙汰を」
「もちろんだ。リトリフ侯爵家の繁栄は、我が王国バルバランドとともにこれからも約束されるだろう」
「ありがとうございます」
恐らく、私はこのあと、しばらく自室に謹慎するように言い渡されることだろう。自室で、世を儚んだ一人の令嬢が自ら命を絶ち、今回の顛末は迷宮入りとなる、という筋書きが、一番良いに違いない。
いや、陛下のことだ。真犯人を捕らえて、私の無念を晴らしてくださるに違いない。結果として、哀れな令嬢は、ひととき王都の噂に上り、そしていつしか忘れ去られるのだろう。
(それにしても心配だわ。ロレッゾ様は、王太子に不適格と見做されるし、巻き込まれたリゼリアも聖女候補を降ろされるかもしれない。公爵、侯爵両家、神殿が巻き込まれてしまった今、陛下の立場は苦しいものに……)
けれど、これまで完璧な治世を築き上げてきた陛下が、こんな事件の予兆に気がつかないなんてこと、あるのだろうか。
陛下直轄の王家の影は優秀だ。国内外の情報を掌握している陛下が、気がつかないはずないのに……。
(でも、私は退場するのだから、もうお力になることは出来ない)
周囲が固唾を呑んで見守る中、ふと足下に影が差して、不思議に思う。
そうこうしているうちに、なぜか陛下の紅の瞳と視線が交差した。
「……」
「サーシャ」
私は恭しく頭を下げている。だから、私よりも低い位置に陛下がいなければ、目が合うなんてあり得ないはずなのに。
「……っ!? へ、陛下!?」
私は驚きのあまり目を見開いた。信じられないことに、まるで忠誠を誓う騎士のように、陛下が私の前にひざまずいている。
慌てて膝をつこうとしたのに、なぜかそれを笑顔で制止して、陛下が私の手を取った。
「サーシャ・リトリフ。正妃になってくれないか」
「……はい?」
いつもの私らしくない、間の抜けた声が口から漏れ出した。
耳を疑うけれど、陛下は口元に微笑みを浮かべ、目の前にひざまずいたまま、あろうことか私の手の甲に口づけを落とした。
「君こそ、正妃の器に相応しい」
「っ、あの、陛下。お言葉は嬉しいのですが、私は王太子殿下にたったいま婚約破棄を言い渡され……」
「王太子妃ではない」
「えっ……?」
「今すぐ、私の妻となり、正妃になってほしい。……サーシャ」
ざわめく会場、明らかに青ざめた魔塔派の貴族たち。そして、呆然としたロレッゾ様とリゼリア。
そんな中、余裕の表情で私に微笑みかける陛下と、プルプルと顔を赤らめて震えるばかりの私。
「……おや、そんな表情をここでしてはいけない」
バサリと音を立てた陛下のマント。
「さて、最高の誕生祝いを贈ってくれたリトリフ侯爵家とシュアリー公爵家に感謝するとしよう。ところで、聖女候補よ。祝いの言葉を述べてくれないか?」
ビクリ、と小さく震えたけれど、さすがに聖女候補として場数を踏んでいるリゼリアは、すぐに立場に見合った笑みを浮かべた。
金色の髪とエメラルドのような澄んだ瞳は、見る者を圧倒する存在感だ。
「お二人の治世に、精霊王は祝福を与えると仰いました」
「ふむ。我が国の未来は明るいようだ。そう思うだろう、皆の者?」
拍手喝采、あっという間に場の空気を変えてしまったその手腕に呆然としていると、陛下はあろうことか、いたずらが成功したような笑みを私に向けた。
そのまま、マントの中に隠されるように退場する。チラリと見上げた陛下は、やはり余裕の表情で、まだまだ自分が未熟だということを痛感して唇をかみしめる。
「さあ、おいで」
手を引かれて向かうのは、陛下と一部の許された人間しか入ることが出来ない陛下のプライベートエリアだ。
「……あの、陛下」
まだ、成り行きを受け入れきれずに戸惑う私。
私から手を離して、振り返った陛下が微笑んだ。
「……サーシャ。君に求めるのは、正妃としての役割だけだ」
「……かしこまりました」
それはそうだろう。
急ではあったけれど、今回の騒動を鎮めるにあたり、独身を貫いていた陛下が私を正妃に迎えるというのは、一つの解決方法だ。
他にも方法はあったにしても、他の王族にはすでに婚約者がいる。
私の命を救う方法は、これしかなかったに違いない。
(陛下は、私のことを見捨てることが出来ずに仕方がなく……)
眉を寄せた私に何を思ったのか、少しだけ逡巡したあと、陛下は私に向けていつになく柔らかく微笑む。
「だが、正妃である君だけは、私のことをレナルドと名で呼んでくれないか?」
「……え?」
「私から君への願いは、それだけだ。公務は付き合って貰う必要はあるが、あとは君の好きなように過ごせば良い」
ドレスにしわが寄ってしまうほど握りしめる。
それは、夢に見て、決して叶わなかった私の願い事でもある。
「……レナルド様」
その名を呼んだ瞬間から急速に魔力が抜き取られたように、クラリとめまいを感じる。なぜか慌てたように私の肩を支えた陛下の表情を見つめ、何とか体勢を立て直す。
長い長いため息が聞こえた。
「……サーシャ。やはり君は、私にとってたった一人の……」
陛下、いいえ、レナルド様は、その瞬間、初めてお会いしたときのように微笑んだ。
そう、初めて出会ったあの日から、私の心を捉えてしまった、その微笑みで……。
***
私と陛下は、十二歳年が離れている。
初めて出会ったとき、まだ王立学園初等部入学を間近に控えた子どもだった私と違い、すでに陛下は、国王としての責務を果たしていた。
私と陛下が出会ったのは、ロレッゾ様との婚約が決定した祝いの夜会だった。
初めての夜会に疲れた私は、主役でありながら会場を抜け出し、結果としてあまりに広い王宮で迷子になってしまっていた。
月明かりに輝く白い薔薇。
それはとても美しかったけれど、神秘的でどこか恐ろしかった。
そこに、まるで白い薔薇のような髪と、赤い薔薇のような瞳をしたその人はいた。
「……あの」
その人は、振り返り、私の姿を見つけたとたん、困惑したように眉をひそめた。
「はあ、迷子か。……頼むから、泣かないでくれ」
まっすぐ視線を向ける。すると、赤薔薇のような瞳を目を見開いて、すぐに、困ったようにその人は微笑んだ。
その表情はとても優しそう、私は泣くどころかホッとしてその人に笑顔を向けた。
なぜかその人は、もう一度口をつぐみ、驚きを隠すこともなく言葉を紡ぐ。
「っ、私が怖くないのか?」
「えっ? 怖くなんて、ないですよ?」
怖いはずなんてない。初めて会ったはずなのに、私は無条件でその人を信じたいと思った。
「……見たところ、高位貴族のご令嬢のようだな。君の名は」
「サーシャ。サーシャ・リトリフと申します」
「サーシャ・リトリフ侯爵令嬢……。ロレッゾの婚約者か」
少しだけ眉を寄せたあの日の表情は、なぜか忘れることが出来ない。
まるで、一人でどこか遠い場所に取り残されたように見えて、泣きそうに見えて、その人を抱きしめたくなった。
「あの……」
「それにしても、私と目を合わせて泣きもしないとは、本当に正妃に相応しい。ロレッゾは、果報者だな。……とりあえず、ホールまで送ってあげよう」
「……わっ!」
次の瞬間、私はその人に抱き上げられていた。
お父様とお母様は、私のことを大切にしてくれたけれど、普段の世話は乳母に任せ、こんなふうに抱き上げてくれることはなかった。
だから、私にとって、その瞬間は忘れられない思い出になった。
「ははっ。こんなに近くても平気とは、君は本当に豪胆だな。それとも、魔力量が格段に高いのか? もしも、もう少しだけ年が近かったならな……」
「ごうたん? 魔力量は、高いと言われましたが……」
「……すまない。忘れてくれないか」
さらりと美しい瞳を隠してしまった白銀の髪。
それが妙に惜しいと思ったその日から、私の一番好きな宝石がルビーになったのは、偶然などではないに違いない。
***
「……レナルド様は、始めから優しかった」
求婚されたとはいっても、あくまで形だけの結婚だと知らしめるような、急ごしらえの私室。
背の高い本棚には、各国の情報や、政治、社交、君主論まで王として一度は目を通すべき書物であふれている。
私は、そのほとんどの書物をすでに読んでいる。
それもそのはずだ。私に必要な知識をいつも助言してくださったのは、レナルド様なのだから。
その中の1冊は、子どもに向けた分かりやすい政治の本だ。
「そうね。何も変わらないわ」
子ども向けの懐かしい本。これは、7歳の誕生日にレナルド様にいただいたものだ。
リトリフ侯爵家の自室に置いてあるその本は、すり切れるほど読んでボロボロだ。
周りの人たちが宝石やドレスを贈る中、生真面目な表情でレナルド様にいただいたこの本は、私の宝物の一つ、そして生き方を決めた1冊だ。
完璧に掃除が行き届いたこの部屋には、埃の一つもなく、装飾は少ないけれど、上等な寝具も揃えられている。
「いつも使っている化粧品……。同じものが揃えてある」
そっと取り出した化粧落としは、ホッとするいつもの自分時間の香りだ。
周囲に侮られたりしないようにハッキリと鮮やかな印象にした、濃いめの化粧を落としていく。
用意されていたサラサラ着心地の良い部屋着に着替えて、ようやくベッドに体を横たえる。
先ほどまでの出来事が夢のように思えるけれど、現実なのだ。本来であれば、今頃私は……。
そっと、いつも肌身離さずに持っていたブローチを手のひらにのせた。
(そう、今頃私は、このブローチに仕込んでいた毒針で)
そのとき、扉が性急に叩かれて、勢いよく開かれた。振り返ると、暗がりでもハッキリと輝くルビーのような瞳のレナルド様が、足早に私との距離をつめてくる。
「嫌な予感がして駆けつけてみれば……。そのブローチをこちらに寄越しなさい」
「あっ」
まるで奪うように私の手からブローチを取り上げた陛下は、宝石を取り外す。
「危ないですっ!」
「……やはり、そうか」
パチンッと音がして、思わず青ざめる。
針に塗られた毒は、眠るように命を奪うけれど、解毒薬が存在しない。
「……そんな顔をするな。もう使えないようにしただけだ」
「……えっと」
中に隠されていた毒針が取り外された大切なブローチをレナルド様は、私の手に戻す。
「私たちが夫婦になった以上、君には必要ないものだ」
「……でも、有事の際には」
「残念だが、それは許されない。我が王国では、国王夫妻は時を同じく死を迎える。それを知らない君ではあるまい」
「……それは、偶然」
それは、この国の歴史をひもとけばわかる事実だ。歴代の国王と正妃の内、半数が時を同じく精霊界へと旅立っている。
「偶然では、ないのですね」
細められた赤い瞳に、背筋が粟立つのを感じる。
おそらく、王太子妃教育でも語られていない隠された理由があるのだろう。
「そうだ。十二も年が離れているから、君を正妃に迎えるつもりはなかったが……。まさか、若い君の方が先に運命の終わりを」
歪められた口元、寄せられた眉。
気がつけば、口づけされて、ベッドに二人倒れ込んでいた。
「どちらにせよ、自ら死ぬのはやめてくれ。まだ、私にもすべきことがある」
「……レナルド様」
あとから知ったことだけれど、このときには、まだ私たちの寿命は、共有されていなかった。
本当の儀式は、このあと交わされたのだから。
「私の持つものをすべて半分、正妃になる君に捧げよう。まあ、私もすでにこの年だ。残された月日は、それほど多くないかもしれないが」
そっと交わされた口づけに、燃えるように熱くなった体。
「……すまない、もう逃がすことはできない」
強く抱きしめられ、聞こえてきた声は、懺悔のようだ。その夜は、何度も名前を呼ばれた。
そして、気がつけばベッドに一人寝かされ、窓から美しい朝焼けの光が差し込んでいた。
***
ガバリと起き上がる。
いつもの起床時間だけれど、よく眠ったおかげか身体に疲れは残っていないようだ。
「私は、レナルド様のお役に立つの。どんな立ち位置かは、関係ないわ」
そして、日の出とともにがばっと起き上がった私は、顔を洗って鏡の前に座る。けれど、すべて揃えられている基礎化粧品と対照的に、口紅や頬紅は薄い色のものしか置いていない。
「えっと、困ったわね……」
けれど、見渡してみてもやはり他にはないようで、仕方がないので申し訳程度の薄い化粧をする。
化粧まで準備しきれなかったのだろう。
そんなことを思いながら、そっとベルを鳴らす。
「……」
ゾロゾロと集まった使用人たち。
こんな早朝に、夜間担当のメイドが一人、申し訳程度に来てくれたらと思ったのに、あまりの人数に呆然とする。
「合計23人」
さらに、近衛騎士まで何人も集まってきたものだから、部屋の中が一時騒然となってしまった。
「11人追加で、合計34人」
ダースに近い近衛騎士が集まるなんて、危険人物と認定されているようで嫌だ。
(いいえ。急に陛下のプライベートゾーンに住み始めたのだもの。仕方がないわよね)
「サーシャ・リトリフといいます。陛下の御心によりこちらで過ごすことになりました。どうぞよろしく」
完璧な立礼を披露すれば、部屋の中が静まり返る。
「ところで、皆さんの名前を教えてください」
「えっ」
驚いたような声を出したのは、執事見習いだろうか。まだ、年が若くこれからの努力は必要にしても、正直なところに好感が持てる。
「そうね。まずあなたの名前をうかがうわ?」
「はっはい。ダルシマーと申します」
「あら、南方の生まれなの?」
「えっ、は、はい! 南方の島、リグラスの生まれです」
名前の響きに南方の特徴があったけれど、やはり当たっていたようだ。
「よろしくね。ダルシマー」
それから次々と自己紹介が続いた。
レナルド様は、バルバランド王国が支配している地域すべてからプライベートエリアの使用人を選んでいた。
元々は小さかったこの国は、永きにわたり貴族として生きてきた中央貴族派と、新たに併合された周辺地域派で分かれ、一枚岩とは言えない。
「でも、レナルド様の考えは、そういうことなのね。ところで、執事長のフェイズと侍女長のシュリーは残って、あとは職務に戻っていいわ。ああ、ガーラ卿にはここの警備体制について聞きたいから、午後に来てちょうだい」
「……発言をお許しいただけるでしょうか」
「ええ、構わないわ」
「名前をすでに相当覚えておられるようですが」
「……だって、陛下がこの場所にいることを許した人たちだもの。私自身、陛下の臣下の一人として、すぐに皆の名を覚えるのは当然よ」
この際なので、今聞いた名前をすべて諳んじてみせると、フェイズとシュリーは唖然とした表情をした。
「さて、働きましょう!」
「あの、働くとは……」
「公務です。正妃として求められるのは、公務だけなのですから」
「えっ、陛下はそのようなことを!?」
フェイズは呆然と、シュリーは憮然とした、ような気がした。
けれど、陛下のお役に立つためには、もちろんそれくらいしかできようもない。
「さあ、執務室に案内してください」
「は、仰せのままに」
そのまま早朝の執務室に突撃し、私は執務を開始するのだった。
***
少々日当たりが悪い執務室、空気を入れ換えて、分厚すぎるカーテンをつまむ。
そして、正妃としての権限を決して越えることがないよう、けれど出来るだけたくさん仕事を終えて陛下のお役に立てるよう、細心の注意を払いながら書類を片付けていく。
それにしても、こんなに日が当たらない場所で過ごしていて、お身体を壊してしまわないか心配だ。
「……とりあえず、カーテンだけは替えさせていただけるよう、お許しをいただかなくては」
「それが、サーシャの願い事か? 装飾品については、他人任せだったからな。君の好きにしたら良い」
「へ、陛下!!」
独り言を聞かれてしまったことに、顔を赤らめつつ振り返る。
振り返った先、陛下はなぜか困ったような表情をしていた。
「陛下?」
「今日は隣国の王太子夫妻と会談もあるし、書類を捌くのに真夜中までかかりそうだと思っていたのだが、この調子なら夕刻には終わりそうだな……」
「お役に立てましたか?」
「もちろんだ。しかしあまり無理はしないでくれ」
無理はしていない。
王太子の婚約者として過ごしていた日々、私がほとんどの書類を処理していた。
ロレッゾ様は、サインをするくらいだったから……。
「はあ。この筆跡……。ロレッゾの秘書官は優秀だと常々思っていたが、サーシャ、君だったのか」
「……出過ぎたまねでしたか?」
そうならないように、細心の注意を払ったつもりだけれど、やはり可愛げないと言われてしまうだろうか。
けれど、レナルド様にそんなことを言われたら、流石に傷つく自信がある。
「いや、とても助かった。ありがとう。だが、君にはもっと……」
「あの」
「この国の王族に時々現れる深紅の瞳には、強い魔力が宿っていて人を恐れさせる」
ようやく納得がいく。
初めて出会ったときのお言葉は、そういう意味だったのだ。
「私は、魔力が強いですから……」
危ない、愛されていると勘違いしそうになった。
私が正妃に選ばれたのは、そばにいられる女性が数少ないことによる消去法の結果だったのだ。
そんなことを思いながら、残念に思っていることに気がついて自嘲する。
「こうして見つめ合っても、俺を恐れない君を生涯幸せにすると誓おう」
「ええ、公務を頑張って、一生お役に立ちますわ」
深い深紅の瞳が大きく見開く。
まるで、予想外のことを言われたとでもいうように見えるのは、私の見間違いだろうか。
「……君には、何もかもすべて捧げるつもりだ。しかし、公務だけはこなしてもらわねばならない。まあ、これだけを見ても想定以上にがんばってくれそうだが」
「……え?」
「ようやく手に入れたんだ。この瞳を恐れぬ、唯一の女性を……。勘違いされていたとは、心外だな?」
私を見下ろす深紅の瞳が弧を描いた。
それは、ゾッとするほど美しくて、目を離すことなんて出来そうもない。
「ここまで待ったんだ。残りの人生をかけて、君がダメになるほど甘やかすから、覚悟しておくと良い」
陛下から賜ったのは、掠めるような遠慮がちな口づけだ。
私たちの距離が、本当の夫婦として近づくまでは、もう少し時間がかかりそうではある。
「あれ? 公務だけしていれば良いって、まさかそういう意味……」
「愛しい君に告げるのに、他にどんな意味がある? あんなに昨夜、君の名を呼び、気持ちを伝えたつもりなのに、心外だ」
「ひゃああ……」
そして、私は独身主義の陛下に愛される唯一無二の妃となる。
もちろん、公務は歴代正妃の中でも一番と言われるくらい頑張ったけれど。
独身陛下と天然才媛令嬢の物語。
楽しんでいただけましたでしょうか?
ブクマや☆を押しての応援とても励みになります。
どうぞよろしくお願いします(*´▽`*)