病は気から
放課後の保健室に微かに響く、少女のすすり泣く声。
「わたし、ずっと待ってたんです……彼なら、来てくれるって。や、約束、してたのに! でも、いつまで待っても来なくて……あとで知ったんですけど、彼、その時他の娘とデートしてたって……!」
丸椅子に座って、ハンカチで目元を押さえながらしゃくりあげる女生徒。それを、保険医の怜美は静かに見守っていた。
「わ、渉君は、わたしの彼氏なのに……いつも、他の娘に浮気して……きょ、今日も、わたしの目の前でクラスの女の子と仲良くしてて……」
「そう、つらかったのね……でも、落ち着いて聞いて? 仲良くしてただけで、浮気とは限らないでしょう? あなたの勘違いってことも──」
「わたし! 見ちゃったんです! 渉君が、あの女と校舎裏でキスしてるとこ! それでもまだ浮気じゃないって言うんですか!?」
「そ、そう……う~ん、それは言い訳できないわね……」
女生徒の剣幕に若干引きながらも、怜美は迷いながら頷く。すると、女生徒は再び顔をくしゃりとゆがめると、ハンカチを強く握り締めながら言った。
「わたし……っ、つらいんです……! 渉君のこと、最低だって思うのに……それでもまだ好きで……こんな気持ち、もう消してしまいたい……!!」
痛切な叫びと共に涙をこぼし始める女生徒を前に、怜美は静かに瞑目すると、諭すように語り掛けた。
「本当に、その気持ちを消したい?」
怜美の問い掛けに、女生徒は一瞬息を呑んでから、覚悟を決めた表情で答えた。
「はい……これ以上、苦しむくらいなら」
「そう……」
その覚悟を受け、怜美は椅子に深く腰掛け直した。そこに、女生徒が半ば食って掛かるように問う。
「先生、教えてください。どうすればこの気持ちを消せるんですか!?」
「落ち着いて。あのね、“病は気から”って言葉があるでしょう?」
「え、ああ……ありますね?」
「私はね、恋の病も同じだと思うの。恋もまた、所詮は気のせいなのよ」
「気のせい、ですか?」
納得いっていない様子で首を傾げる女生徒に、しかし怜美は力強く頷く。
「ええ、そうよ。気のせいなの。じゃあまず、その渉君? のことを考えてみましょうか。あなたは、彼のどんなところを好きになったの?」
「どんなところって……気遣いが出来て、優しいところ、でしょうか? わたしがクラスの分のノートを運んでいる時に、彼が手伝ってくれたのがきっかけで……」
「……そう」
怜美は内心「なんつーベッタベタな出会い方」と思ったが、口には出さなかった。
「優しい男の子なのね。でも、それって誰にでも同じなんじゃないかしら?」
「そんなことないです! 渉君は──」
「落ち着いて考えて? 彼は、本当にあなたにだけ優しいの?」
怜美の穏やかな声に、ヒートアップしかかった女生徒も腰を落ち着け直し、視線を巡らせ始めた。
「……言われてみれば、たしかにそうです。渉君は、誰にも優しい、です」
「そうよね。誰にでも優しいっていうのは素晴らしいことだけど、恋愛に関しては決していいことではないわ。他の女性にも優しくするなら、少なくともあなたを不安にさせないよう気遣うべきだもの」
「そうなんですよ! 他の人に優しいのはいいんですけど、それでもわたしには特別優しくして欲しいんです!」
「そうよね。他には? 他にはどんなところを好きになったの?」
「他……やっぱり、明るいところです。わたし、見ての通り根暗な方なので、ああいう周りの人達も明るく出来る人って憧れるんです」
「そうなの。それはたしかに素敵ね。でも、それはそれであなたにとってはつらいところでもあるんじゃないかしら? 彼のノリに付いていけなかったりすることはない?」
「それは……」
「あるみたいね。彼のノリに付いていけない自分が、何か悪者になったような気がして落ち込んでしまうこともあるんじゃないかしら?」
「……はい」
「いいのよ、責めてるわけじゃないの。でも、人には向き不向きっていうものがあって、恋人っていうのは一方がもう一方に合わせるんじゃなく、お互いに歩み寄るのが健全な形よ。それが出来ないカップルは、いずれ破綻するわ」
「……」
怜美の言葉を受け、自分と彼氏の関係について改めて考え始めた様子の女生徒。感情に振り回されることなく、理性的に考えることが出来ていることをその表情から読み取り、怜美はさらに畳み掛けた。
「それじゃあ、他には? まだ好きになったところがあるでしょう?」
「他には……サッカーが上手なところ、でしょうか? 体育の授業でシュートを決めてるところが、かっこよくて……」
「そうなの。でも、他にサッカーが上手い人なんてたくさんいるんじゃないかしら? それに、分かりやすく活躍してる人が上手いとは限らないわよ? サッカーはチームワークが大事だもの。点を取っている人が上手いと思うのは早計だわ」
「……言われてみると、渉君そんなに上手くなかったかもしれないです。あれ? と言うか、ゴールしてるところって1回しか見たことないような……」
心底不思議そうな顔をする女生徒に、怜美は優しく語り掛ける。
「恋は盲目っていうことね。好きになった人を美化してしまうのはよくあることだわ。“痘痕も靨”なんて言葉もあるくらいだもの。どう? こうして考えていくと、恋の病もまた気のせいだってことが、だんだん分かってきたんじゃないかしら?」
「そう、ですね……」
思わずといった感じで頷く女生徒だったが、直後ハッと我に返った様子で顔を上げた。
「で、でも! 渉君は本当に素敵な人なんです! それは……少し冷たいところも、ありますし……待ち合わせとか、いつもすっぽかしますけど……」
勢い込んで言いながらも、自信がなくなってきた様子でトーンダウンする女生徒。その姿に、女生徒の目が覚めかかっていることを確信し、怜美は最後の詰めに入る。
「ねぇ、冷静に考えてみて? あなたの彼氏は、本当にいい恋人? あなたのことを、本当に幸せにしてくれるのかしら?」
「わたしは……! でも、だって……約束、してくれたのに……」
「約束?」
「はい……渉君が告白してくれた時、約束してくれたんです。絶対、わたしのことを幸せにするって」
「あら? 彼の方から告白してきたの?」
多少の意外感と共に怜美が問い掛けると、女生徒はパッと明るい笑みを浮かべて「はい!」と答えた。
「雨の日に傘を忘れて立ち尽くしてたわたしに、傘をくれたんです! 『傘いる?』って! わたし、すごく驚いたんですけど、『はい!』って答えて……そしたら渉君が、『返さなくていいから』って! わたし、もう嬉しくって、キャーー!!」
「……ん?」
当時のことを思い出して黄色い悲鳴を上げる女生徒に、怜美は「あれ? なんか流れ変わったぞ?」と眉をひくつかせる。
「ん? え? えっと、それだけ?」
「え?」
「……約束は? 絶対に幸せにするっていう……」
「え?」
「え?」
口元を引き攣らせる怜美を、不思議そうな顔で見返して……女生徒は、ゆっくりと視線を巡らせた。
そして、数分後。急に「あっ」と小さく声を上げると、女生徒は両手をパンと打ち合わせて怜美の方を見た。
「先生!」
「う、うん?」
「わたしと渉君が付き合ってるっていうの、気のせいだったみたいです!」
「……へぇ~」
「あぁ~スッキリした。先生が言ってたことは、こういうことだったんですね!」
「…………うん」
「ありがとうございました! おかげで気持ちが軽くなりました!」
「……よかったね」
そして、女生徒は来た時とは打って変わって晴れやかな表情で、保健室を出て行った。
「そっかぁ、気のせいだったのかぁ……じゃあ、盗聴器も外さないと。恋人じゃないのにそんなことしてたら、犯罪になっちゃうもんね」
……そんな不穏なことを、ぶつぶつと呟きながら。
ピシャリと引き戸が閉まり、一人になった保健室で、怜美は煙草に火を点けた。当然校舎内は禁煙だし、保健室も言うに及ばずだが、怜美はそれに目をつぶって一服した。
ふーっと煙を吐き出し、その行方を見るでもなく見る。そして、ボソッと一言呟いた。
「怖っわ」