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甘い

高鳴る胸の鼓動。それが目の前の女性に聞えてしまうのではないかと不安になる。彼女が甘いものやしょっぱいものを右から左へと受け流す。

本命はそんな安いものではない。そんなものきっと百二十円や、高くとも三百円そこそこ程度だろう。

胸に手を当てそうになり、やめる。彼女にこの思いを読み取られてしまっては元も子もないから。

俺から手渡された『甘い』『しょっぱい』『苦い』は次々に彼女の手の中に収まり、しまわれる。

まだ・・・・本命は、まだ。


>>>>>>

電話が切られてすぐ、詩は家を飛び出していた。あまりに急いでいたせいで、誤って父の革靴を履いてきてしまったほどである。

財布がポケットに入っていたのがせめてもの救いであった。

行先は決めていなかったが、ぼんやりとした目的を描いて、モノとヒトが多い駅に走った。

駅まで五分だった。新記録だ。今まではいくら遅刻しそうでも八分が限界だったのだ。

目の前にあるのは、交番、スーパーマーケット、婦人服屋、ハンバーガー屋・・・・

・・・・・・・・

急いで店の前まで走り、足を緩めてゆっくりと入店する。

スーパーのお菓子コーナーで目に付いたお菓子を値段も見ずに放り込むと、早歩きでアイスコーナーを通過。

呼び込み用スピーカーの音がとてつもなく早いスピードで音量を上げ、ピークを迎えるとそれ以上のスピードで音量を下げる。

「おおっと、まずい、落ち着け詩・・・・そうだ、落ち着け。大丈夫だ」

どんどん加速していた脚に手を当てて、深呼吸。

母が好んでいるビールにそろりと手を伸ばす。周りをきょろきょろと観察するが、人はいないようだった。

冷たい缶を手に取ったとき、親指から自分の脈動を強く感じる。

思えば先ほどの深呼吸まで、自分がちゃんと呼吸していたか疑わしい。手足以外何一つ機能していなかったのではないかと思えた。汗も一滴として流していない。

もう一度深呼吸をすると、途端に体に重みを感じる。五臓六腑がずっしりと重たい。水がパンパンに入って膨れ上がった水風船が、いくつも腹の中に入っているような感覚だ。

頭が重い。顔を前にがくりと下げると、部屋着のスウェットが視界の二割ほどを占める。

スウェットはとても軽く、何の荷物も持ってきていなかったため、とても走りやすかった。

「何の荷物も・・・・? スウェットが軽い・・・・?」

・・・・・・・・

「財布・・・・・・持ってねえ・・・・」

スウェットのポケットに入っていたのは、コンビニに行った時のレシート、それとお釣りの十六円のみだった。

今じゃなければいけない理由はない。今日である理由もない。別に通った道をもう一度探してみればいい。が、

それでは絶対にダメだ。なぜか。

問いの答えなんてものは出せない。全て言い訳、こじつけ、でまかせだ。ただ今じゃなきゃいけないからと、そう思ったから。九十九パーセントはそうだ。一パーセントは、疲れからくるほんの少しの面倒くささ。

買い物カゴをアルコールコーナーにおいてスーパーを出る。

古臭い緑色の公衆電話は誰にも使われず、誰に気にかけられることもなく白い柱に寄りかかかっている。

扱いなれていない受話器を恐る恐る手に取り、耳に当てる。十円を縦長の穴に滑り込ませ、十一桁の番号を慎重に、ぽつぽつと、口に出しながら押していく。

〈二郎か?〉

聞きなれた声がする。

「俺だよ俺! てか二郎って誰だよ」

必死に自分の存在を姉に伝える。

〈ああ、詩か。どうした?〉

とてつもなく突っ込んでやりたいが、勢いよく鼻息を吹き出してこらえる。

「今、どこにいる・・・・?」

家族と友人を頭の中でふるいにかけ、一番ここにいる可能性のある姉に電話をかけた。

確実ではない。呼吸が安定しない。

〈あ?〉

「今!どこに!いる!」

「今か? 今は北野でパチンコ打ってるけど・・・・」

体の熱のようなものが湧き上がるような錯覚を覚える。彼女の周りのとんでもない騒音に負けないよう、大声で続けた。

「頼む、すぐ来てくれ。北野のスーパーだ。一個しかないからわかるだろ?」

〈え、分かるけど・・どうした? コーシューデンワなんかからかけてきて〉

「事情はあとで話す! すぐ来てくれ! 五百円持って!」

〈おい、ちょっと待て・・・・〉

どちらが切るでもなく、受話器からは聞き覚えのある電子音が繰り返し流れる。

「はぁ、はあっ・・・・お前な、なんだ急に・・・・!」


五分ほどして、姉は息を切らしてスーパー前に現れた。

「すまん急に呼び出して。また急で悪いんだけど、五百円貸してくれ!」

全力で頭を下げる。姉に頭を下げるのは不本意だったが、それ以上に、今はしなくてはならないことがあるのだ。自分の尊厳やこれ以降の事情なんてどうだってよかった。

姉は頭を掻いて、財布をのぞき込むため、首を下に曲げる。そして俺に目を合わせた。

「悪い、全部溶かしちまった! 五百円もない!」

「・・・・は・・?」

文章を理解することは容易く、それゆえ俺の思考は停止せざるを得なかった。

五秒、とても短い時間だ。その間、俺は放心状態だった。それもすぐにとける。姉ちゃんの金のように・・・・・・

何か他の策を考えなくてはいけない。

気づけば大分冷静になっていた。それを踏まえればプラスマイナスゼロあたりだろうか。

「なあ詩・・? それ、父さんの靴じゃね?」

思考の邪魔をされ、少しの苛立ちを覚えるが、言われたとおりに足元を見る。

父さんの革靴を間違えて履いてきてしまっていた。

「ああ、そうだな。急いでたから間違えちまったわ。ちょっと黙ってくれ」

目を合わせずに言う弟に、晴花は機嫌を損ねる。

「あーあ・・・・じゃあここにある二万円も、使うことはできないなあ・・・・」

眉を曲げ、わざとらしく顎を詩に寄せながら、大きな声でふわりと放った。

「・・・・何のことだよ」

俺は唇をぎゅっと閉めて、迷惑そうな顔をする。わざとではない。

すると今度は小さな声で、姉は耳元に口を近づけて言った。

「父さんのへそくり、その靴の中なんだよねー」

大慌てで靴を脱ごうとして転倒する。左の中敷きの下に一万円。右の中敷きの下に一万円。

コンクリートの歩道に、赤子のような姿勢で座り込み、学問の大先生をひらつかせる。

「姉ちゃん、助かった!」

跳ね起き、すぐにスーパーに駆け込む。

「おい! ごめんって言え! 姉ちゃんに失礼なこと言ってごめんって!」

戦いが始まる。

改めて深呼吸をしようとするが、緊張がバレてしまってはいけないと、呼吸を途中で飲み込む。

食道に押し込んだ多量の空気は、もう一度外へ出ようとするが、こわばった詩の喉によって願いは叶わない。

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