雨
日々は平坦で、心情も平坦。
淡白な日常に慣れてしまう。
そんな風に思えたら楽だろう。
監視の対象にしていた石和詩には最近避けられている。悪さも特にしていないようだから、わざわざ私がこれ以上関わる必要はない。
平坦じゃなかった。彼は私の道を波立てていた。
波は途端に静まって、道は直線に戻った。
すべて済ませてしまった一年生用のワークを机の端に寄せ、コップに炭酸水を注ぐ。
一気に飲み干すと、口の中やのどの奥が焼けるようにチリチリと痛む。
この痛みだけは、好きだった。
「・・ぷぅはぁあ!」
外での見栄なぞ捨て去り、痛むのどに煽るように声を通す。
横開きの戸が、いい音を立てて開く。
「ぷはーって、おっさんじゃないんだから・・」
母が失笑する。
家の中なら、誰も気にしないだろうと言い返すと、母も「まあね」といった。
「何かあったんでしょう? 」
うん、まあ、と答える
「別に私じゃなくてもいいんだけどね、誰かに甘えなさい。今の泥みたいな姿で覆いかぶさるようにだらけて、甘えてやるの。誰でもいい。そこらのちゃらんぽらんなやつはどうかと思うけど、友達でも家族でもいいから、あなたの悩みを押し付けてやんなさい」
それなら、ちゃらんぽらんな詩では務まらないなと、そう思った。
ロクでもないあの男に相談・・・・
思考は止まる。
彼が悩みの元凶だった。あれを忘れることが、今の私の悩みを解決する最善策であると、どうして今まで気が付かなかったのだろうか。
私は彼のような人間が嫌いで、彼は私を避けている。
波の高い日々が、私の感覚を錯乱させていた。だからこれを『悩み』と捉えているのだ。
効果の異様に高い錯乱。
ここで忘れてしまわなければ、私は今まで作り上げてきたフラットな人生に耐えられなくなってしまうのではないだろうか。
忘れなければいけない。ここで。
涙など、今の私には容易にこぼすことができた。
母さん、私、一人なんだ。
私は母を頼った。
泣きじゃくるさくらを、母は強く抱擁した。優しさからではなく、自分自身の困難に直面して。
「違うよ・・わかるでしょう・・?」
母は言ったが、娘の泣きじゃくる声に、想いはかき消された。
椿紅さくらは、道に迷った。
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六月二十七日、雨。
季節は少し遅れて本格的な梅雨に入り、ある者は喜び、またある者は残念そうに薄暗い空を眺めた。
石和詩は微妙に煮え切らない気持ちと、彼にとって最悪の曇天の影響でひどい頭痛を起こしていた。
カビ臭い雨のにおいは最初には不快に感じられたが、鼻が慣れてしまって何も感じなくなったのが負けたようで悔しい。
気持ちが乗らないので、さくらに声をかけるのは雨の降っていない日にしようと決めていた。
「雨? 好きだよ。綺麗だろう、地に着いたことのない水って」
雨が好きかと功に聞くと、彼はそう答えた。
「椿紅は嫌いだって言ってたよ。汚いからって」
「潔癖なのかな、あの子は。それならイメージ通りだね。潔癖で、悪さが嫌いで、詩がそんなに嫌いじゃない」
また適当を言う。
「あいつはわざわざ言うくらいに俺が嫌いなんだって。知ってるだろ」
「女の子ってね、男性に対する評価は加点式なんだよ。それに対して男は減点式だ。そこが男と悪いとこ。詩は後から椿紅さんへの評価が上がってるから該当しないけど」
もしかして女の子? と付け加える。
「加点式だから可能性はあるって?」
「もしくはそう思わないとやっていけないだろうってことだ」
「負け戦が『戦』であるのって、勝てると自分をだまして自分で『戦』にするからだ」
負け戦で例えると俺が玉砕するのが前提じゃないのか・・・・
「詰めが甘いなお前は」
「舐めるか? 僕のツメ」
「負け戦に勝ったらお前が俺のツメを舐めろ。足のツメな」
冗談に対抗する。
「それは困ったな。別に僕は負けると思っていないから」
「ありがとな、玉砕したら俺の傷をなめてくれ」
「いやだよ気持ち悪い。僕は女の子の傷しか舐めないんだ」
そう笑って、思い出したように右手のツメを研ぎ始める。
「あ、そうだ」
「なんだ、僕はもうフェードアウトするものかと思ってツメ研いでるんだけど」
自分が相手のことを好きかどうかってどうやって見極めるんだ?
質問の途中、額に鋭い痛みが走る。
研ぎ途中の爪が刺さって痛い。
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日は改まる。
俺はやってやろうと思ってその日にやれるたいそうな男ではないので、変わらず雨の降らない日の言い訳を続けて、曇りもしくは晴れの日を待った。
曇りはすぐに訪れ、二十九日。
来てしまったものは仕方がない。
現に俺は、雨が降っていないことで気分が普段よりも良かったし、全くと言えば嘘になるが、ほとんど躊躇もしていなかった、と思う。
授業が普段の何倍もの速さで終わったように感じたのは、この瞬間を心待ちにしていたからだろうか、それとも内心では・・・・
どんよりとした空は心地よい気温を作り出し、高い湿度もさほど詩を不快にはさせなかった。
曇りの日の彼のコンディションは悪くないものだ。
下校チャイムと同時に教室からするりと抜け出し、彼女の教室を通りすぎて下駄箱へ向かう。
靴を取り出してから自分のクラスの下駄箱を何回か往復し、彼女を待つ。
ステッカーの貼ってある派手なロッカーや、大多数を占める何もデコレーションのなされていないロッカー。内履きにしているクロックスでゴムの擦れる音を出して歩く。
躊躇いはなくとも緊張はあった。じっとしていられなかった。
十分ほど待つが、これはすぐには終わらないと、靴を履き階段の一番上に座る。
曇りでよかった。晴れなら心が落ち着かなかっただろうし、雨なら気が乗らずに、帰ってしまっていたかもしれない。
重そうな雲がゆっくりと風の吹く方向に流れていく。
「俺もどっか行きてえよ・・・・」
困り顔で雨雲に語りかける。
「よう、どうだ調子は」
「ひっ」と声が出てしまう。
「なんだよ功か」
彼は『冗談だろう』と呆れた表情をして言った。
「ビビりすぎ」
俺はこいつのようなデキる男でもなければイケてる男でもないのだ。それらはみな兄に持ち去られてしまっている。
「僕が爪を研ぐ日はね、必ず雨が降るんだよ」
「は?」
突拍子もないことを話し始めた功に、思わず不機嫌な声を出してしまう。
「でも僕が爪を研ぐのは雨が降ったあとなんだ。詩、君には僕が雨の日に爪を研ぐように見えるかもしれない。でも違う。僕が爪を研ぐであろう日に、あらかじめ雨が降っているんだよ」
「どうしたんだ突然バカなこと言いだして」
「僕が言いたいのは」と彼は続ける。
「僕が言いたいのはね、女男に限らず、人間はどこかしら幻想的なものが好きだってこと。そして幻想的なものを身にまとったり、幻想的なものが大好きな人間は他の人間にモテるんだ。だから君はモテない」
ああそうかよ。不満を込めた視線を送る。
「伝えることの目的が、伝えることになってしまうと、会話はつまらなくなる」
・・・・・・
「伝えることの目的が、伝えることじゃダメ、か」
阿呆臭いセリフは、バカにしていても、こう刺さってしまうことがあるのはどうにかならないものだろうか。
「くっさい言葉もまあ悪くはないかもな。使わないけど」
「それではお達者で」
彼は手を挙げて去っていく。
彼女が現れたのはそれから十五分後だった。
椿紅は何気なくこちらを見たのち、慌てて気まずそうに目をそらした。
「椿紅さん」
「は、はいっ・・」
そらした目を丸くし、こちらに戻す。瞳から、何かが失われる。それが何かを考える暇は、俺にはない。情けなくも、二つのことを同時にするのが苦手で、それ以上に『優先順位を決める』ことが苦手だ。
「最近、避けるようなことしてすまん。事情があったんだ」
彼女は自分の天邪鬼を知らない。功からそう聞いた。
「許さない」
知ってはいても、謝ったときにこう帰されると辛辣だ。
「良かった。それと、ひとつお願いがある。言いたいことがある」
「なに」
彼女らしく、真顔で短く帰ってくる。
「俺が悪さしないように、また監視してくれないか?」
今までの人生で一番深い呼吸をして、言い切った。
椿紅の表情は変わらない。遠く、何もない遠くをただ何も考えずに見つめているようだった。人の顔にここまで恐怖したのは、これが初めてだった。
俺の見た、短い期間の中で、彼女は一度でもこのような表情は見せなかった。
彼女は俺から階段の下に目を向ける。
「あなたはまだ善いことをするでしょう。だから私が監視する必要があるの」
かすかに、わずかにとてつもなく小さな音がする。歯のこすれる音はそれでも耳の奥をついて、心をつついた。
「もともとあなたの善行は大したものではなくて、私が見る必要があった」
俺の悪さは大したものではないから監視するまでではなかった。
「じゃあ、さようなら」
「え、おいちょっと待って・・」
あまりにそっけない対応に、どういった反応をすれば良いかも、わからなかった。心が座っていない。
彼女は階段を下っていく。
俺は階段を上った。