桜の咲かない季節
「す、すげえ・・・・」
丘一面に広がる芝桜を前に、立ち尽くす。
自動車? ナニソレ歩くのとどっちが早いの?
時速百キロなんてカタツムリの速度だと感じたのは、飛行機に乗ったからだ。
『乗れ』とか息巻いてどこに向かうかと思えば、兄は日本の玄関、羽田空港まで車を走らせた。それからそいつを乗り捨てて、国内線で北へ飛んだ。
「でもちょっと肌寒いな、北海道まで来るなら先にそう言ってくれよ。上着もなんも持ってきてないわ」
丘を沿うようにして吹き抜けた風に身を震わせる。
「寒いか? 俺この辺が実家だからあまり寒さは感じないぞ?」
「へえ! そうなんだ・・・・ってあんたの実家は東京だ」
俺は軽快に突っ込みを入れる。
「あははっ、ひっかかってる」
兄は愉快そうに笑う。
「う、うるせえよ」
・・・・
不気味だ。何かがいつもと違う。今朝から感じていた違和感、それに今気がついた。
兄が変わっている。会話が一般人に近くなっている。車や飛行機で、違和感がない故感じていた違和感。
「兄ちゃんさ、本、何冊読んだ?」
不自然に場が静まり返った。こんな何でもないことに、なぜか緊張してしまう。
「えー・・っと、お前らがうるさく言い始めてもう二週間だろ? 一日二冊読んでたから十四、五冊くらいかな」
「おもしろかったか?」
「全部まったく面白くなかったよ」
わかっていたことを、再確認することができた。
兄はとんでもない努力家だ。面白くない本を二週間で十五冊も読む。俺ならおそらく気がふれてしまう。
兄は読書に向いていないのだった。
「あんたほんとに読書向いてねえのな・・・・」
少し猫背になってそう吐いた。
「俺だってそう思うさ。でもな・・」
兄は花畑からこちらへ振り向く。
「最近お前らとしゃべっててすごい楽しいんだよ」
『ああ、こいつはいけない』と、そう思った。
俺は、勉強ができて、運動ができて、顔がよくて、会話のうまい、モンスターを生み出してしまった。
これじゃ、『最強の生物兵器の完成だ!』と言って、直後自分の生み出した兵器に殺される科学者みたいだ。
言葉って、後からどうにでもなるのかもしれない。
もし、仮に俺が椿紅の逆の言葉を完全に理解できて、彼女と普通に会話することができたら、彼女は俺を受け入れてくれるだろうか。
「てか逆のこと言うだけって結構簡単じゃないか? 何を難しく考えて・・・・」
そこまでつぶやいて、ようやく問題点がここではなかったことを思い出す。
あいつは俺が大嫌いで、俺はとてつもなく情けない、格好の悪いことをしていたのだ。
「人間って、三人に一人くらいはどっかぶっ壊れてるんだよ」
兄が突然そう言い出す。
「は・・?」
「俺はさ、月に一回ガールフレンドが変わるんだ。好きだと言われたから付き合って、嫌いだと言われて別れるんだ。結構心にくる」
それは知っていた。
「でもな、去年だったかな、その時付き合ってた女の子に言われたんだよ。『私はすっげえブスでダサいやつが好き』って。なんでだってそりゃ聞くさ。そしたら『おもしれえし、成長するし、ブスだしダサいからどこにもいかないだろ?』って言ってた。ちなみに俺は脳みそが外見を凌駕してダサかったそうだ。だから悔しくてな、お前の写真を見せては『俺より頭のおかしい狂人だ』と説き続けたもんだ」
「おい・・」
「で、言いたいことは二つある」
兄は両手の人差し指をまっすぐに立てて微笑む。
「一つは、変な女ってのは世の中に結構いるってこと。もう一つは・・・・」
何かおかしいところがあったが、俺は黙って聞く。
「意中の女はそう簡単に手放しちゃいけないってことだ。そいつがどれだけぶっ飛んでてもだ。好きな子がふわっと消えた時って、ほんとに死にたくなるんだぜ?」
微妙に荒いまとめ方に兄らしさを感じた。
「よくわかった」
「ならよかったよ」
兄は、丘一面の桜を眺め、胸元のネックレスを何気なく触る。
「そのネックレスは?」
「元カノからもらった」
自虐をはらんだ満面の笑みだ。
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兄の金で、ホタテたっぷりの海鮮丼を食った。
ところで俺の兄は、どこからこの金が出てきているのだろうか。まあいいか。
思考が停止し、二千五百円と、学生にはやや高価な海鮮丼をやけ食いにしか見えない早さでかきこんでいるが、俺だって箸が止まらなくて困っているのだ。
「なんだこれ! 味で何の魚を食っているのかわかるぞ!」
俺が貧乏くさいセリフを大きな声で言っても、兄は反応しない。
五秒ほど前に届いた、どんぶりに広がる真っ白な極楽浄土に息を荒げ、視界はイノシシの半分ほどに狭まっていた。
荒れる息を一瞬抑え、たまった唾液を飲み込む。
店中に、ごくりという音が鳴り響く。
割り箸を不格好に割り、どんぶりに醤油をかけて、ホタテ丼に食らいつく。
「なんてうまそうに食うんだ・・・・」
この表情を見ると、俺までホタテ丼を注文すればよかったと思ってしまうではないか。
「椿紅も、アイスめっちゃうまそうにくってたな・・・・」
「つばいさんっていうのか、お前の好きな子は」
向かいに座る兄は、すでに真っ白な丼を空にしていた。
「な・・! 好きな子じゃない!友達だ!」
「じゃあ、男なのか?」
「女だ」
「じゃあ好きな子だ」
「んな・・!」
どういう理屈だよ・・・・
「まあ嫌いではないけどさ」
「じゃあその子がふわっといなくなっちゃう前に、捕まえとくんだな」
・・・・
「わかってるっつの」
最後に三枚ほど残しておいたサーモンを一気に口に放り込む。
「うっっま・・!!」
とろりと溶ける。
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「そういえば読んだ本の一つなんだけど、隠し事のない関係なんてこの世には存在しないと思うんだよ」
聞き覚えのある展開に、俺も思わず口を出す。
「いやいやあるさ、だってうちの親なんてまずそうだろ?」
「あるよ?」
「え・・まじ・・? 何?」
驚いて尋ねると兄は声を潜めて言う。
「へそくりの在処」と。
俺は真実に驚愕する。まさかあの両親が? そんなまさか。へそくりなんてして使い道なんてあるのだろうかと思うほどだ。
「うそだろ・・・・どこにあんの」
「さすがにそれは教えられん。可哀そうだし」
「うんまあ、確かに・・・・」
めちゃくちゃ気になる。毎日身もだえるほど気になる。
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「僕は一人、おしゃれに一人昼休みに空を眺めてポエムなんか思いついちゃうオシャンティなボーイだ。そう。これが好きなんだよ。一人がだーいすき・・」
「あの・・さっきから一人で何言ってんだ?」
『あの一件』以来、俺は初めて功に話しかけた。
十一日ぶりだ。俺にしてはこじらせすぎていた。
そもそも功と喧嘩はしたことがないし、こじらせる以前に学校のある日で彼と話さなかった日はなかった。
それが十一日ぶりということになると、なんだか気まずさがあった。
「う、う詩じゃないか! 今のは違くて、洋楽を和訳していたんだよ! 僕最近ハマっててさ・・・・」
慌てて言い訳をした。焦っていたにしては的確過ぎる言葉に、少しばかり本当なのではないかと思ってしまう。
「すまん、悪かった。八つ当たりってよりは自尊心の保全だな。お前はもうわかってるだろうと思って」
恥ずかしさを隠しきれず、強く締まった口元を、功は見ていた。
「いいよ別に、というか助かったよ。僕だってお前を貶めることの犠牲がお前との絶交ならさすがにやらないさ。パーティーは嫌いでもボッチも嫌いなんだよ」
功はやはり俺の新しい黒歴史に気づいていた。
彼は大きく息を吸い込んで吐き、また吸い込んだ。
「僕はさ、言葉っていうのはまだ進化段階だと思うんだよ。例えば『宿題やらないの?』だとか『なぜできないの?』とか、今でもそれに理由で答える人は中々いないけれど、これに『はい』と答える日は百年、二百年もたてば来るんだ。でもそれって、とてもつまらないだろうな。掛け合いがあって、不都合な点がいくつもあって、微妙に通じなくて時間をかけて、それでもって思いを共有する。それが言葉だから」
抑揚を込めて、気持ちを込めて音が作られている。単語ごとに切られている? 文節ごとか・・そうじゃなかった。そんな区切りはない。心理と音がつながって語られている。
少し開けて功は言った。
「お前だってそうだろう? じゃなきゃこんな野郎二人で、つまらない話して時間をつぶしたりしないだろうさ」
奴の二段下の段に腰を下ろした。
「・・・・俺も同じこと言おうとしてた」
「嘘つけよ。あと北海道土産だせよな」
「なんでそれを・・」
「イケ兄ちゃんから聞いた」
兄のことだ。イケてるからイケ兄ちゃん。それならお前はイケ弟か、ってのが鉄板だ。
「俺が女に振られて傷心だ、なんて教えたのはお前か」