言葉ー詞ーコトバ
学校のすぐそばにある公園をそぞろ歩く。落ち着いてしまったのは間違いだったのかもしれない。もちろんあのまま落ち着かなかったとして、そ状況の整理が追いついてきて、言いたくなかったことを言えてしまうように俺はなった。
『悪いのは俺ではなかった』と。冷静になってみればそれが事実なのだ。逆のことがなんたらとか、俺は知るはずもなかった。
それでも変な勘違いをしてダサい、情けない、何とも言えない虚無感だけが俺の中に残った。俺は悪くないのに。悪いのは・・・・
自分が巻き込まれた立場とは言え、悪いのはだれかといった問いに答えることはできなかった。
それをしてしまうと、抜け落ちてしまったものが絶対に戻ることはないと思ったから。
戻ればいいとどこかで思っていたから。
丘陵公園というだけあって坂が多い。坂というよりは丘だろうか。
大きめの丘を登り切って見えた景色は、大きな岩の壁だった。その壁を避けるとまた長い坂が伸びている。
全て見通したように嘲笑ってくる大岩を右足で強く蹴る。悔しいので痛みを我慢して坂を上った。
登りきるとまたそこには岩壁が現れる、何度も、何度も何度も俺は坂を上っては壁を蹴った。つま先が痛む。痛むが何度も何度も蹴って、そのたび岩に嘲笑われる。
--いわーーいわーーいわ・・・・
どこまで行っても岩、岩、いわ・・・・
「うるさいわ!!」
大きな声がして跳び起きる、深夜十二時、俺は家に帰ってすぐに寝てしまったようだった。つま先が強く痛む。親指の爪が内側まで白くなっていた。痛い。
「さっきから何なの? 何回も壁蹴って。うるさいっつーの!」
「ごめん姉ちゃん、石蹴る夢見てた。いてて・・」
「あっそう、私明日早いから、もう蹴んないでよ。おやすみ」
姉は不機嫌そうにドアを閉める。
夢まで悪夢って・・・・悩みすぎだろ、俺。
大きなため息とともに苦笑する。
頬を両手で二度、軽く叩くが、大きなあくびが出る。
忘却と切り替えに失敗した俺は、布団を蹴飛ばし、彼女を未練がましく思い出し、二度、 ゴロゴロとベッドを往復した。
未練以前に、俺はいつから彼女に惹かれていたのだろうか。
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夕方に寝てしまったせいか、悩みが予想外に大きかったせいか、昨晩はよく眠れなかった。
学校に行くのも気が進まなかったが、登校は習慣になっていたし、習慣を壊すことが俺は怖かったため、特に障害もなく玄関を出るに至った。
「乗れ、でなければ帰れ」
家のカーポートの下で、図太く振動するバンのエンジン音とともに聞こえた。
そうまで言われるのなら仕方がないと、俺は踵を返して玄関に戻る。
「まって! ごめん私が悪かった! 送るから乗ってよ。私のせいでさぼったってばれたら母さんに怒られる!」
姉は運転席から身を乗り出して少し声を裏返しながらそう叫んだ。
「で、なんでそこなの?」
運転席の後ろに乗った俺に姉が今度は、半眼で、口を不満そうにゆがめて言う。
「姉ちゃんの運転は信用してないんだよ。で、どうだった? 初めての文学作品は」
詩には姉と兄が一人ずついた。姉は十八で、頭も悪いし運動もできない・・・・ある特技を除いては。
そして免許は取りたて。要領が悪いので運転はあまり信用していない。
これには兄も当てはまるが、「お話」という物自体にまったく縁がなく、絵本すら読んだことがない。
昔、母が絵本を読み聞かせると、兄と姉は二人そろって鼻をほじりながら蛍光灯を眺めていたそうだ。
兄は勉強も運動もできて顔もなかなかいいが、やはり語彙力が欠片もないのが欠点だ。
現代文は常に赤点であった。
そこで俺は今、彼らにストーリーというものを教えていた。
起承転結を、彼らは知らない。
「まあなかなか面白かったよ。ところどころよく分からなかったけど」
「あんたが見たものがあのアニメなら分からなくてもそんなに不気味なことじゃないな」
昔見た日を思い出す。分からない言葉はあっても話が大体わかれば気にしない。詩はそういう人間だった。
車内には中島みゆきの『ファイト』が流れている。姉は中島みゆきの楽曲をを好んで聞いていた。俺もあの声は好きだし。好きとかどうとかではなく、まずとても上手だと感じた。
しかし、姉はもちろんそうだろうが、俺は音楽に物語性を感じない。そして、物語性を感じないものには、滅多に影響されなかった。
ファイトと言われてもそれはただの歌詞としか感じない。音楽は、音として鑑賞した。
故に、この選曲に姉の気遣いが入っていることには、気づかなかった。
「あのさ、何か悩みがあるならさ・・・・」
曲がり角でせかせかとハンドルを回しはじめ、言葉が止まる。
「あるならさ・・・・」
右左折が続く。
「あるなら・・・・」
「あるなら飯でもヤケ食いしろ。ヤケ食いはしろ、ただ、食っても忘れるな。食って解決するんだ。金はたいて忘れたら損しかしないだろ? 私から言えることはそれくらいだな」
「曲がりながら話せた! すごいよ?」
はしゃぐ姉を無視して、今日の夕飯はどこで食おうかと考えた。
「焼肉行こうよ。割り勘で」
「おう、いいね。私いっぱい食べるから食べ放題にしよう」
ヤケ食いはしても忘れるな。とはなかなか酷なことを言われてしまった。最悪そこまで言われたとおりにしなくてもいいだろう。
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「姉ちゃんさあ、頼むから当たり前のようにアルコール頼むのやめてくれよ、見つかったら俺まで怒られるんだぜ?」
十八と十ヵ月の姉は、ジンジャーハイとレモンサワーを両手に飲んでいた。というか飲みほって二つも一気に頼めるんだっけ?
「いや個々の店知り合いのとこだし、こないだだって母さんときたよ? 一緒に飲んだ。奥さーん、これもう一セット欲しー!」
母さんもしっかりしてくれよ・・・・
「未成年には五杯までしか出してないからね! ペース考えなよー!」
「いや未成年には出すなよ!」
あまりの無法地帯さに思わず声を上げる。
「姉ちゃんももうやめろよ、今日は俺のヤケ食いに付き合うんだろ」
カルピスソーダを一気飲みして息をつき、呆れていう。
「あ、そうだった。すまんタン食べる?」
カルビも一緒に持っていく。
「ああ! 私のカルビ!」
「アル中は一生カクテキ食ってな」
俺が割りばしでカクテキをつまみ姉の前に持っていくと、彼女はいやな顔一つせずに口に入れた。この店のキムチはうまいのだ。
「忘れるなって、いったじゃんか・・・・」
「うんいったよ?」
『そんなこと言ったっけ』と言われる可能性も考えていたが、覚えていたようだ。
「あれって、結構適当に言った? 名言言いたかっただけだろ」
「あんた、ヤケ食いして忘れようとしてるのか?」
「まあ、そう思っている部分も無きにしもあらず・・かな」
本当は完全に忘れようとしていたが、少し角を削った言い方をする。
「あれはマジだ。やって後悔するほうがやらないで後悔するよりいいって言葉をみんなよく使うが、あれだけはいいこと言ってるって思うんだよな。あれだけ響いたんだよ、だから・・・・」
姉はテーブルに身を乗り出す。
「そこだけは他人事でも譲れない」
一音一音、顔の形を変えながら狂気じみた目つきで言い切った。
「カルビもな!」にあるカルビを奪い取った。
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『女に愛されていることが確かであると、男は彼女がほかの女より美しいか、美しくないかを検討する。女心がわからないと、顔のことなぞ考える暇がない。』
スタンダールという小説家は、作中そう語った。
まずほかの女より美しい女にしか近づかない僕は、彼の言うことを笑った。
それをきっかけに彼の言葉をネットで探すようになり、いつしか彼の言葉に影響されるようになっていた。
何が言いたいかというと、よくわからないことがきっかけで人が他人に惹かれることはごく普通のことなのだと言いたいのだ。
ちなみに僕は彼女が美しいから好きで、彼女は僕がイケているから好きだ。それでいいとは思うが、美談を聞くと惹かれてしまうのが人であり、僕という人間だ。
「美談も転がってるし、きっかけもインパクトが強くて最高。これ以上に何を求めるんだ・・あの大馬鹿は」
功は暇な昼休みを過ごしていた。
友達は多いが、昼を一緒に食いたい友達はいない。今日も何人かの誘いを断ってきた。
暇だ。実際、自分は暇が好きなのだと思っていたのだ。しかしそんな自分はもう数か月前に死んでしまっていたらしい。
僕が好きなのは暇ではない。『暇の共有』だった。
理解した。彼は椿紅さくらの天邪鬼的特徴を知らなかったのだろう。知らずに彼女と過ごしていた。
持たれていたと思っていた好意は嫌悪で、それ以上に自分がそれを勘違いしていたことが問題だったのだ。
単なるしょうもない羞恥心だけれど、僕が同じ状況に陥っていたとしても同じ感情を抱くだろう。解決策を考えずにもだえるようなことはまずないが。
「なにしてんの?」
裏口階段の一番上に腰を掛け、仰向けに寝転がる僕は、ガールフレンドにしてみれば頭がおかしくなったように見えたのだろう。
「男に振られたのさ」
「浮気? 別れようか。私の周りにはあなたよりレベルが二、三程低い男がいるの」
「ちがうよ、浮気なんてするはずないだろう。第一キスをするまでは浮気ではない」
彼女の打撃に肩のあたりがじんと痛む。
「詩だよ。あいつが相手してくれなくてな・・・・」
ふうんと顔のこわばりを緩める。機嫌が治ったどころか、どこかよくなったように思えた。詩のことを下に見ているからである。
「なんかあったの?」
「それがあいつな・・・・」
言いかけるが、彼に人権があることを思い出して口を閉じた。
「だめだ、これを言うとあいつが生きていけなくなる。すまん」
「あっそ」
興味なかったなこいつ。
「まあさ、あいつがへたれて功に当たってきたら殴り飛ばしなよ」
「もうやった」
「私も殴ってくる」
「落ち着いてくれ、今は僕が困っているんだよ。暇すぎて困ってるから、あいつを慰めないといけないんだ」
汚れた雑巾のような顔をしたのち、彼女は校舎に戻っていった。
「頼むよ詩・・早くしないと振られてしまう。生まれて初めて・・・・」
独り言であるにもかかわらず『生まれて初めて』の部分が強調されていたのは、無意識ながら彼のナルシストな面が出たからだろう。
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あれからも何度か俺は無意識間に壁を蹴った。サッカーの夢、缶蹴りの夢、靴飛ばしの夢、たくさんの夢を見たが、どの毬も固く手応えはない。
つまりは壁紙を削り、足の指に内出血を作っていた。
そういえば、内出血にはアザ、青タンなどいろいろな呼び方がある。
『一つの事象に様々な呼び方があるのは、その単語が好きで、それとともにありたいと思ったときに手数が多いと有意義だから』だと鎌田は気取って俺に教えた。
ある言葉が好きな奴が、おきにいりの単語をいろいろな呼び方で何度も話してきては、それは頭がおかしくなったか、人格が複数あるかと思われてしまうではないかと俺はすぐに指摘できた。
学力を見なければ、彼も大概頭が弱いのだと出会って一週間ほどで気づいた。
なんてくだらない話は置いておくとして、言葉というのは興味深いものであると、俺は思う。
そして読書は、自分を言葉の深みへといざなってくれるから好きだ。
ここからは俺の最も身近な人間のうち一人の、言葉にまつわる話である。
今年で二十一になる兄は語彙力の致命的欠陥に直面し、就活に支障が出るであろうと思われた。
ただいま家族総力戦で語彙、会話力向上作戦を決行している。姉はついでだ。
作戦中はまるで地獄だった。彼の会話脳はまるで子供で、小説に出てきた下ネタを含むちょっとしたジョークを延々日常生活で連呼していた。
これが複数のパターンを持ち合わせているのであれば、それは少々行き過ぎたアメリカンな成人男性で済むのだが、彼の持つギャグバリエーションは今のところ『だいたいのところはつかんであります。おちんちんのことでありますね。』のみだ。
あれは座学授業ばかりある木曜日のことだった。家に帰り、兄に米を炊いておいてくれと頼んだ際『だいたいのところはつかんであります。おちんーー』と言われた時には彼の部屋のドアを俺の持つ全力でピシャリと閉めた。
おそらくあの時出した馬力は、砲丸投げ選手の比ではなかっただろうと自負している。
そのとき彼の部屋で、はち切れそうに膨れた古本屋の袋を見かけ、少しばかり見直したのであったが。
兄は基本的に努力家で、尊敬する面は多くあるが、国語脳がそれをマイナスに越しているのだ。
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「桜を見に行こうぜ」
そう兄が言い出したのは、あれから一週間ほどたったころだったろうか。
六月二十五日だ。
「なんかの小説の受け売りか?」
俺は思ったことを正直に言葉にする。
兄は一瞬スマホに目を落とし、すぐにこちらに目線を戻す。
「 違うよ。お前が女の子に振られて落ち込んでるって聞いたからな。花見にでも行こうと思って」
あのバカ姉はよくもまあ、ロクでもないやつにロクでもないことを吹き込んでくれたものだ。
「で? 花見って、もう六月だぞ。ロシアや中国にでも行くつもりか?」
「まあまあいいから乗れって! でなければ帰れ!」
兄はリビングの中から車の方を指さして言った。
「なにそれ」
「妹が言ってた」
「あっそう・・・・」
俺は財布とスマホだけ小さなバッグに詰め、それらを後部座席に投げ込んで助手席に座った。
「女の子に振られた・・か」
あながち間違いではないのかもしれない。
一、二分ほどして兄は家から出てきて運転席に乗り、手慣れた手つきでギヤをドライブに入れ、サイドブレーキを緩める。
ギリギリといい音がする。