一匹ありんこ
「ーーなのよあなたは」
頭に酷い痛みが走る。
何を言われたかは分からないが、先程から繰り返し起こっている。殴られてもいるが、そちらはこの頭痛に比べればだいぶマシなものだった。
今年の一年、私の同級生に要注意人物がいることは、教師から聞かされていた。中学では問題ばかり起こして、いじめで生徒を三人転校へ追いやった、いわゆる社会のクズが二人。
私は我ながら優秀な生徒で人や物事に対して誠実であり、人のことをクズ呼ばわりするのはあまり気の進まないことであった。けれどこの二名は紛れもなくクズだ。外道だ。
先ほどから打撃を与えられている部分も、跡に残らない箇所や人目につかない箇所ばかりだ。
そんな部位に限って激しく痛むことまで、彼女らは考えているだろうか。
頭がまた痛む。右脳か左脳、どちらが痛んだのかもわからない、この謎の痛みは私の精神を削っていった。
この二人の生活態度を改善させるために声をかけたのだが、私にこの仕事は務まらない。限界だった。
歯を食いしばって勢い良く立ち上がる。涙を懸命に瞼で塞ぎ、教室の外へと走り出す。
「おいーー」
頭蓋の内なのか外なのか、頭部が痛む。いっそう強く歯を食いしばり、律儀にカーテンまで閉められたドアを開けて駆け出す。耳をふさいでいるが、かすかに聞こえるからだろう、貫くような痛みに何度も絶えて、私は廊下を走った。
校舎の四階から二階の踊り場まで、疲れも痛みも悲しみも、ほんの少しの口惜しさと覆い被さるような恐怖感以外、すべて忘れて駆け下りた。
「・・・・ねえ君! ・・」
「ぃやっ」
突然声をかけられたため体をびくりと跳ねさせてしまう。目についた涙の量も先ほどより増えてしまったかもしれない。
声の主が私の存在をおびやかす存在でないことに気が付き、安堵する。安心感によってまた量の増えた涙がこぼれてしまわぬよう、慌てて目元をこすった。
先ほどの安堵からだろうか。この期に及んで、私は恥じらいを持っていた。
「い・・・・石和詩・・・・テストは無事壊滅的だったのかしらっ!」
彼は苦笑する。
「おかげさまで・・・・」
「そういえばさっき、あなたにタバコ屋から苦情が入ったわ」
彼は顔を青くする。なんてわかりやすい人なのだろう。自分とは大違いで、少しだけうらやましい。
「おれ・・俺、法に触れるようなことはしていないはずなんだが・・・・」
「正面の自販機で小銭を探していたでしょう。みっともない」
「あ・・ああ、それか。もうやらないよ、絶対!」
明らかにその場しのぎである。
クスリと笑ってしまいそうになって、はっとする。
気が抜けて、先ほどからだらしないような気がする。
情けない。唇を少しだけ噛んで、切れかけていた「私」のスイッチを再起動した。
彼を監視し、裁き、導こう。この使命だけが、今の私を救ってくれるようだった。
話が予想より長くなり、階段の上に目を向け、耳を澄ます。
二人は追ってきていないようだった。いじめていた小さな虫をわざわざ追いかけたりはしないのだ。
「そういえば君、名前は?」
ふいに彼が言う。
「・・・・えっ、私?」
「そうそう。君以外いないでしょ」
「あぁ、それもそうね。椿紅さくら。『つばき』に『くれない』で『つばい』。ひらがなで『さくら』。ちなみに、この説明は入学式の挨拶でしたはずなんですけど」
自分だって今思い出したけれど、なんだか腹が立つ。
「あ~、それは申し訳ない。そういった話は生まれてこのかた、ちゃんと聞いたことがない」
でしょうね。言葉にするのも馬鹿らしいと、大きくため息を代わりとする。
「それじゃ、私は帰るから。これ以上悪さはしないように」
どうせまたやるのだろうが、その時は私の出番だ。
昇降口に向けて走る。
「あれっ・・・・なんで・・・・」
足の震えが戻ってくる。涙だって、濁流のように流れ出てしまう。
「本当に虫じゃん・・・・・・弱虫だ・・・・私・・・・」
私は自分が思っている何倍も弱い。社会においては弱者に部類されるのかもしれない。正しくは、群れていない人間が基本的に弱者で、私が例に漏れず弱者なのだ。
平凡な独りぼっち。故に弱い。
気に入らないけれど、一人と複数を器用に使い分け、くだらないことばかりしているあの男が強者に思えた。
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椿紅さくら。要注視。心理的な病なのかオカルト関連のなんやかんやなのかは不明だが、致命的欠陥だ。彼女の家族さえも原因は掴めていない。
『天邪鬼』と教師たちはわかりやすく表現している。
ツンデレだとか何デレだとかは守備範囲外なのでよくわからないが、そういった代物ではない、本心を言葉で表現することができないのだ。環境によってはうまく伝えられることがあるようだが、優秀なだけにあまりに不憫だ。
家族がその事実を伝えようとしても彼女には伝わらないだけでなく、ひどい頭痛が彼女を襲う。
よって控えるようにと言われている。
事情を知っているのは教師と、その他一部の生徒だ。一部といえども、中学が同じだった者は五、六名全員が知っているし、学生の噂話は止まるところを知らない。
そんな中詩は真実を知らぬまま、知らぬことによって大きな勘違いをしていた。
「思ったことの逆を喋っちゃうなんて、聞いたことないですよね」
クーラーのついていない浴場みたいな湿度の職員室で、ヘソ丸出しの女教師は言った。
「かわいそうなもんだ。精神科に行ってもわからずじまい。こうなったら霊媒師や宗教団体の出番だぜ。嫌だ嫌だ」
養護教諭が続ける。
「ま、精神面なんてわからないことの方が多いってもんだ。本来わかっちゃいけない部分なんだからさ」
「でも私、耐えられない・・・・男の人に口説かれたらうまく答えられないじゃないですか。絶対無理です~」
「あんたはまず化粧してから職場に来なさいよ。元がいいとか・・・・めちゃくちゃ癪だけど、関係ないの! マナーなのよマナー!」
「はぁい・・」
女教師はつまらなそうに髪の毛を指で巻く。
「それより問題はあの二人だーー」
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六月十日の放課後。彼女の名を知ってから二日後の放課後だ。
椿紅っていうのか、やつは。
学校に残って友人と雑談していると、あっという間に六時を回ってしまった。
少しずつ日が傾いて来ていた。
「帰るか」
帰っても、特別やることもない。
足取りはそこらの小学生よりもはるかに遅く、さながら道に迷ってしまった人のようだった。
・・・・
・・・・・・
歩く速度を上げたのは、どこからか視線を感じた気がしたからだ。
・・・・・・・・
ついてくる。
・・・・・・・・
視線はより分かりやすいものになり、小さかった足音は、いまやローファーをはいていることがわかる程度に耳に入ってきていた。
・・・・
コツリ、コツリーー
「なあ椿紅、俺に何の用だ。この間のことは申し訳ないと思ってるし、テストの点も三つ四つは赤点があった。だがそれがどうした? お前に関係あるのか?」
「ないわ」
さくらの威圧的な返事に、詩は若干気圧される。
「ま、まあ確かに赤点が多かったとは思ってるし? そこはまあ良くないよな、そうだよな」
「それは別にいいのよ。精進しなくて」
突飛な発言に拍子が抜ける。
「これはね、私がしたくてやっているの。あなたの善行を見届けるのよ」
「ついてくるのか?」
「いいえ?」
そうか、というと詩は歩き出した。
・・・・
ローファーの音は相変わらず聞こえる。
そんなことだろうとは思っていた。
歩きながら振り返ると、二歩ほど後ろを俺と同じくらいの歩幅で少しだけリズムをずらしてついてくる。
「今日はもう遅いし、まっすぐ帰るからな」
一応とそう告げて、曲がりくねった下り坂を降りていく。スニーカーのソウルを上手く使い、急な坂でバランスをとる。さくらはローファーで、何の不都合も感じさせない歩きで、変わらず二歩後ろを歩く。そして頷く。
駅前の交差点を曲がると、彼女はもうついてきてはいなかった。
翌日の放課後も彼女はついて来た。これが一度や二度限りでないのだと、俺は悟った。