【完結】旅路は遠く、蛍火に溺れて
旧館二階、最奥の客室を「椿の間」という。五月の盛りには二間(約3.6m)の大窓が山椿の赤で埋め尽くされ、さながら一枚の絵となった。とりたてて観光名所でもない山奥の湯治宿としては自慢の景観だった。椿の時期は例年予約が込み合い、訳知りの常連は必ず来年の再訪を約束していった。
若先生は椿の固定客の一人だった。駆け出しの物書きだと聞いたこともあり、宿の者は敬愛を込めて若先生と呼んでいた。若先生はここ五年ほど椿の時期にきっかり一週間逗留する。若先生は手間のかからない上客だった。ところが今年は一週間ほど前になって「体調を崩してしまったので」と電話が入った。
「若先生、変更で7月に予約されたぞ」
「あら、珍しいわね?」
「蛍を見たいのだそうだ」
仲居の多恵は社長と女将の会話をこっそり聞いていた。多恵の記憶にある若先生は、トレードマークの華奢な銀縁眼鏡と同様にあまり丈夫そうなタイプには見えなかった。噂では以前結核療養所に居たという。
多恵は若先生のことがずっと気になっていた。若先生は渡り鳥だ。自分とは縁がない。この地で生きる自分とは違う。多恵は自分に言い聞かせ、考えないようにしていた。それなのに仲居としてあれこれ世話を焼くうち、若先生に惹かれていく。自分ではどうしても抑えようがなかった。冬の終わりのない雪掻きに厭いて春を乞うように、毎年、若先生が逗留するのを日がな数えて待っていた。
若先生が見ることが出来なかった椿は満開を迎えた。今年は殊更に美しいと常連客からも好評だった。多恵はそれが残念で仕方なかった。やがて花散らしの雨が降り、椿が潔く赤い絨毯となった頃には、多恵も気持ちに折り合いがついた。
露草の青が目に冴えて、季節は梅雨に入った。紫陽花が日増しに色濃くなっていく。
しとしとと細い雨の降る日、多恵が待ちわびた若先生の乗ったタクシーが宿へ到着した。
「先生、ようこそいらっしゃいまして……本当にお身体は大丈夫ですの?」
「はは。これでも随分とよくなったんですよ」
女将が途中で言葉を変えるほど、若先生の顔色は悪かった。移動疲れもあってか、若先生はさっそく体調を崩した。一日目の夜だった。若先生は多恵の騒ぎ様を大袈裟だと緩く笑った。二日目も若先生は布団から起き出すことが出来なかった。板長は食事をほとんど食べられない若先生のため、特別に柔らかく煮たうどんを作った。多恵は麺つゆの香りを廊下中にまき散らしながら喜び勇んで椿の間へと運んだ。
多恵が客室へと入ると、若先生は布団で寝ていた。多恵は起こすべきか迷った。若先生はよく眠っている。青白くピクリともしない。目の下には濃い隈があった。去年よりも艶がなくなった黒髪には白髪が混じっている。こけた頬はかさついていた。顎には無精ひげがまばらに生えている。若先生は明らかに病人だ。多恵は湯治宿の仲居ゆえ、大怪我をした者や大病を患っている客をよく見ている。死期が近い彼らのまとう独特の気配が若先生からも漂っていた。多恵の心はざわついた。多恵は盆ごとテーブルに置くと音をたてないようそっと客室を出た。
三日目の夜、多恵が夕食のお膳を運んでいくと、若先生は廊下にある藤編みの一人掛け椅子に座っていた。脇机のランプが若先生の横顔を照らす。窓の外はさらさらと雨が降っている。若先生は中庭越しに新館大広間の宴会場をぼんやりと眺めていた。宴会場の障子に人影が揺れ、陽気に騒ぐ声が風に運ばれて聞こえてくる。多恵は若先生が柔らかい闇に溶けてしまいそうに見えた。
「煩くて休めないですよね。ごめんなさい。もうそろそろお開きだと思いますけれど」
多恵は若先生をどこにもやりたくなかった。自分に注意を向けたかった。そのために言い訳と労いをかけた。
「良いんだ。生きている感じがする」
「ええ? ……まあ、たまの宴会は良い息抜きでしょうけどね。呑み助共は早苗饗やら消防団やら何でも理由にしますけれど」
若先生は多恵の軽口に薄く笑ってくれた。多恵はほんのりと心が軽くなった。「お願いです、どこにも行かないでください」と多恵は心の中で祈った。
四日目は煙るような霧雨だった。 今日は調子が良いのか若先生は一日中、鬼気迫るような勢いで原稿を書いていた。多恵が昼食を下げに行くと若先生から窓を開けてくれるように頼まれた。湿気を含んだ木枠は建付けが悪く、確かに重い。それでも多恵ですら動かせるというのに、若先生は難儀するようだった。
翌日、昨日の無理が祟ったのか、若先生はまた体調を崩して寝込んだ。多恵が御用伺いに入ったとき若先生は文机に頬杖をついてぼんやりとしていた。多恵は屑入れにびっしりと書き込まれた原稿用紙が入っているのを見つけて慌てて拾い上げた。
「棄ててしまうんですか?」
「……ああ。やはりいらなかったんだ」
少し間を置き、若先生は答えた。「これは昨日先生が命を削るように書いていたものではなかったのですか」と、多恵は喉まで出かかった。しかしただの仲居が口を出すべきではないと思い直して止めた。五日目の昼過ぎのことだった。
その夜、梅雨明け直前の大嵐で、がたがたと家鳴りがした。
六日目は、村雨の一日だった。若先生はのんびりと湯に浸かり、無精ひげを剃った。若先生は藤椅子に座るとただ外を眺めていた。若先生の目的だった蛍を見る機会は、残すところ今日の夜しかない。多恵は女将から道案内を仰せつかっていたから、若先生と二人きりで出かけられることを秘かに楽しみにしていた。19時を回った頃、若先生と多恵は蝙蝠傘とランプを手に、連れだって宿を出た。蛍の居る沢へは山道とはいえ大人の足ならば15分程度だった。
「やっぱり帰りませんか? また来年がありますから」
若先生はふらつき、何度も立ち止まった。多恵には何でもない道のりも病み上がりの若先生には容易い行程ではなかった。浅く息を吐き、脂汗を浮かべている。蝙蝠傘を杖代わりにして、浴衣の袖で額の汗をぬぐう。多恵は若先生が今にも倒れてしまうのではないかと心配だった。
「ないよ。僕に来年はない」
若先生は穏やかに笑ったが、前髪から覗いた目はひどく暗かった。
「会いたい人がいるんだ。蛍は死人の魂だというから」
どうにか沢へと辿り着く直前、雨交じりの濃い曇天はそのまま夜へと繋がった。黄昏はあっという間に若先生と多恵の輪郭を曖昧していく。水の底に居るような息の詰まる湿気が二人にまとわりついた。多恵は若先生を肩を貸すことも、支えることも、手をつなぐことさえ出来なかった。体調の悪さを紛らわすかのごとく、珍しく若先生の口数が多い。
「椿を好きな人だった。僕なんかと知り合わなければ、もっと長生き出来ただろうに」
多恵は背中にちりちりとする居心地の悪さを感じて身をよじった。雨脚は少しずつ強さを増す。多恵は口を引き結んで傘の柄を握りしめた。多恵は傘を開く無粋な音で若先生の独白を遮りたくはなかったが、それ以上に聞きたくもなかった。
「僕は地獄に落ちるから、あの世ではきっと彼女に会えない」
多恵は黙々と並んで歩いた。
目的地に着いたとき、多恵に浮かんだのは大きな安堵と小さな達成感だった。雨はつかの間止んでいた。「どうか、このまま天気が持って欲しい」と多恵は願った。
沢はぽっかりと暗く、奥から冷たい風が吹いてくる。多恵は濡れ鼠の身体に寒気を覚え、人を飲み込む異界に紛れこんだような怖さに震えた。多恵は蛍が飛ぶのは存外短いのを知っていた。晴れた日でも日没直後から一時間程度だ。ここ一週間ずっと雨が降っていたし、今日も雨だ。あまり条件は良くなかった。
それでも一つ、沢の奥で薄青い光が舞った。多恵はほっと胸をなでおろす。二つ、朴の木の上で瞬いた。次々と光が宵闇に産まれては増えていく。無数の青く細い軌跡が若先生と多恵を包む。蛍の淡い光では互いの表情すら分からない。人の思いとは関係なく、蛍は視界を泳いでいく。この夜の蛍は多恵ですら初めて見るほどだった。無数の光が明滅して乱舞する。多恵は蛍が死人の魂だという与太話は信じてはいなかった。ただ若先生の心が安らかになるならそれで十分だった。そのはずだった。多恵は蛍の作る天の川に沈み、溺れそうだと思った。
再び降り出した雨が徐々に強くなり、頭皮に張り付いた髪から水滴がとめどなく落ちだした。羽が濡れることを厭う蛍は次々と姿を消していく。多恵は夢から覚めるようにその光景を見送った。
「文乃。君はここに居たんだね?」
若先生はいまだ蛍火に心を囚われていた。最後にたった一匹残った蛍が若先生の肩に止まっては離れる。若先生がためらいがちに指を伸ばした。蛍はやっと逃げて夜へと吸い込まれていく。若先生は蛍の軌跡を目で追い、蛍の消えた闇を名残惜しげに見つめていた。多恵は先生の心の一部が蛍と一緒にどこかへ飛び去ってしまったように思えてならなかった。
翌日、若先生の出発する日だった。若先生は雨に濡れ、しっかりと熱を出していた。それでも若先生は「帰ります」と言って聞かなかった。宿としては無理に引き留めることは出来なかった。
「もういとまごいをしなくては」
「先生、どうぞお元気で、お体には十分にお気をつけて」
若先生を乗せるタクシーが宿の玄関に着いていた。来年の再訪を告げない若先生に、女将が身を案じる言葉を繰り返した。若先生は疲れた顔に苦笑いを浮かべた。
「今回は本当にお世話になりました。あの、案内してくれた仲居さんにもよろしくお伝えください」
若先生は女将に話しかけながら、一瞬だけ多恵に視線を送った。多恵は女将と並んで若先生の見送りに立つ。精一杯のにこやかな笑顔を浮かべる。
タクシーに乗り込んだ若先生がグレーの窓越しに女将と多恵に軽く黙礼をした。女将と多恵は深々と頭を下げる。短くクラクションを鳴らし、タクシーは滑らかに坂を下りだす。多恵は目頭に熱いものを感じ、いつまでも頭をあげることが出来なかった。一度たりとも、言葉にすら出せなかった初恋だった。
梅雨明けの雲一つない青空に、たまった客室のシーツや肌掛けを仲居衆総出で洗っているうち多恵の涙もいつの間にか乾いていった。
人も季節も巡ってゆく。 沢を抜ける風に森の葉がそよぎ、野鳥がさえずる。
夏はいよいよ青く萌えて生き急ぎ、釣瓶落としに冬が来る。根雪の下で耐え忍んで待てば春が来る。
水仙が畔を彩り、山は椿の赤に染まる。紫陽花の色付く梅雨が来て、蛍の舞う夏がまた、来る。
若先生が居ない季節が過ぎてゆく。