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夜中にふと目が覚めた時に、家の中の空気が普段と違っていることに気付いた。
戸口からちらちらと松明の炎が揺れているのが目に入ったし、例え声を押し殺そうとしていたとしても、誰かが囁き合ってるのがわずかに漏れ聞こえて来る。忍び足でぴたぴたと歩いていても、思いのほか地べたに揺れは伝わる。
これらのことは、そうしょっちゅうあるわけでないにしても、見慣れた光景だった。何しろ僕の父は王様であったわけで、彼がここに逗留なさっている時には、あまり穏やかでない事件というのも度々起こった。
普段だったらため息の一つもつきながら、改めて毛布を身体に巻き付けて、寝直すところだったのだけれども、この晩に限っては、そういうつもりにはなれなかった。何か、不吉なことが起こっているのに違いない、そのように僕は直感したのだけれども、だからといって立ち上がって様子を見に行くほど、振り絞れる勇気を持ち合わせていなかった。
僕は息を殺して毛布にくるまりながらも目を見開いていたはずなのだけれども、気が付いた時にはサンガクの白い顔が間近まで迫っていた。彼は、起こそうと思っていた相手が既に目覚めていたことに少し驚いたようだったけれど、それは瞬く間だけの出来事だった。
「バーブル様、今すぐに広間にお越しください。イセン・ダウラト・ベギム様がお待ちです」
身を起こした僕が何かを訪ねる間もなく、耳元で囁かれる。おばあ様が?いつの間にこちらにおいでになったのだろう。先ほど耳にした物音のうちのどれかが、それだったのかもしれない。
「わかった。すぐ行く。何が起こったんだって?」
薄暗い部屋の中で、手探りで身支度する。こういう時、ハージーだったら何も言わずに手伝ってくれるのだけれども、サンガクはよほど念を押しでもしない限り、手を出そうとしない。しばらく、黙々と自分の作業に集中する。
「ウマル・シャイフ様が身罷られました」
僕はぴたりと手を止めた。一瞬、自分が何を聞いたのかわからなくって、彼の顔をまじまじと見つめる。いつもの真面目くさった無表情はそのままだったけど、ほんの少し、普段よりも切羽つまった真剣みが見て取られ、それが、先ほどの内容が聞き間違いではなかったことを雄弁に語っていた。
「本当は、イセン・ダウラト・ベギム様の口から伝えられるはずでした。私は口止めをされていますが、今のうちにお伝えしなければならないことがあります。どうか、気を強く持ったままお聞きください」
先ほどまで真っ暗だったはずの部屋が、白んで明るく見える気がした。それがくるくると回り始めそうな予感。いくつもの思いが浮かび、いくつもの言葉を口にしようとしたけど、どれ一つとっても形にはなりそうにない。本当に、気を失って、その場に倒れ込まないことのほうが不自然なくらいだった。
僕は縋るような視線を彼の方へ向けたのだけれども、それを彼がどのように受け止めたのかは、わからない。ただ、いつものように淡々と、いや、むしろ、こいつがこんなたくさんの言葉をしゃべるのを見るのは産まれてこの方なかったことだな、などと思ったことだけは覚えている。とにかく、その時に彼から聞かされた内容はあまりに衝撃的だったので、その後かなり長いことかかっても、自分の中で消化しきれてなかったように思えたほどだ。
「ウマル・シャイフ様は昨日の夕方、アフスィの城に備え付けられた鳩小屋の崩落に巻き込まれて命を落とされました。イセン・ダウラト・ベギム様は、これが誰かの手によって仕組まれた事件だという可能性を捨て、事故としてことを進めるおつもりです。仮に小さな疑いが見つかったところで、真相を暴こうとした場合、ご家中が二つに割れる恐れがあるからあです。一方で我が叔父であるカースィム・ベグは、現場を自分の目で調査するためにアフスィに向かっております。イセン・ダウラト様の口止めを破るように申し付けたのは、我が叔父です。一辺に申し上げましたが、ここまでのところは大丈夫ですか?」
本当のことを言うと、あまり大丈夫ではなかった。彼が一言口にするたびに、衝撃が走って頭が割れそうになる。胸のあたりがムカムカしてきて、思わず顔を背けながら、手で話をやめさせようとしたのだけれども、すっと近寄ってきた彼にその手を握られてしまい、腰に回された反対側の手でクッションに座らされてしまった。
「バーブル様、私はカウチンの生まれです。カウチンとは、始祖チャガタイと共にこの地にやってきた四つの部族のうちの一つです。ティムール閣下と特別な誼を結び、ティムール閣下の王子たちに個人的に仕えることを是とする家訓があります。ここまでのところは、大丈夫ですか?」
何を言っているのか、何を言おうとしているのか、全くわからなかった。僕は絶望的な気分で、彼を見上げるばかりだった。恐らく、僕の顔にも表れていたことに違いない。彼は、僕の目の高さに跪くと、僕の肩にその大きな手を置いた。全ての仕草はしなやかで静かで、その柔らかな温もりが伝わってくるにつれて、僕の気分はだいぶ落ち着いてきた。
「私の叔父であるカースィム・ベグはあなたのお父上に対するカウチンであるように、私はあなたただ一人に忠誠を誓うカウチンです。今まで、このことを隠そうとしていたわけではありません。いずれ説明するつもりではありましたが、思いがけずにこのような日を迎えてしまいました。この場でそれらを証明することは難しいのですが、今は何も言わずに信じていただくことは、可能でしょうか?」
この時の彼の言い分は、後から振り返ってみても、奇妙なものだったと思う。本気で僕を説得するつもりがあったのか、疑わしく感じるくらいだ。まぁ、この時は僕も彼も若く、色々と経験が不足していた。彼なりに必死に取り組んだ結果が、あのように表れていたのだろうと思う。だからだろうか、なんとなく信じてみてもいいんじゃないだろうか、というような気分が、僕の中に生じつつはあった。生じてみたところで、今度はそれをそのまま鵜呑みにしてよいか考えなければならなくなったとはしても、それがかえって、僕が本当に直面しなければならない悲しみからは遠ざけてくれていた。
899年ラマザーン月5日(1494年6月9日)
アンディジャーンに僕の父、ウマル・シャイフ・ミールザーの死の報せが飛び込んできた。そしてこれをきっかけに、僕の周囲で数々の運命の歯車が動き出すことになった。
そして僕はその真っ只中に放り出され、至らぬ力を振り絞りながらもそれに翻弄されつづけた。
僕達が心からお父様の死を悼むことができたのは、これよりずっと後のことだった。