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亡国の王子と動乱のサマルカンド ~異聞バーブル・ナーマ~  作者: はぶ川
亡国の王子と動乱のサマルカンド アンディジャーン防衛死守
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1-4



 イセン・ダウラト・ベギムは、このところ内城の一角で過ごすことが多かった。郊外に彼女の所有する庭園もありはしたのだが、そこに帰ることは、特に主であるウマル・シャイフがこの城を開けている間は、ほとんどなかった。彼に成り代わって決済しなければならないことが山積みで、毎日の移動の時間すら惜しまれるからだった。


 この晩も、彼女は城内にいた。風の強い晩だった。真夜中はとうに越していた。とっくに眠りに就いていなければならない時刻だったのに、彼女は暗闇の中一人佇んでいた。雨混じりの強い風が窓を揺らすたびに、そちらに顔を向ける以外は、膝の上で組んだ両手を見下ろしていた。

 普段の彼女の姿ときたら、髪は白くなり、経てきた年月が肌に深いしわを刻んではいたものの、いまだ若い頃の端正さを口元に漂わせ、すっと伸びた背筋はすがりつく人々の視線を切って捨てることに慣れきったかの如くだった。

 暗闇の中でうずくまっている彼女の姿は、齢通りの老婆そのものだ。弱々しく、実を縮こませ、何事もなくそれが頭上を通り過ぎてくれるのを、祈るだけの。


 彼女の脳裏には、夕方に見た空の様子が浮かんでいた。生ぬるく赤焼けた、不吉の色。こんな夜は、よくない知らせが飛び込んでくると相場が決まっている。彼女の夫、ユーヌス・ハンがまだ生きていた頃、草原で暮らしていた時代には、こんな夜には二人して焚火を囲み、まんじりともせずに朝を待ちわびていたものだった。彼女も、彼女の夫も敬虔なムスリムではあったけれど、それでもなお草原の流儀は二人の血潮に溶け込んで、身体の隅々にまで巡っていた。

 アンディジャーンのような街の暮らしには、草原の流儀など無縁なことと思われるだろう。しかし、ここの主のウマル・シャイフはその兄との骨肉の争いに勝利を得るために、草原の民の力を幾度も必要とした。その度に、この地に住まうモグールの数は増え、彼らが領有する土地も増す一方だった。


 モグール人を御するのは簡単ではない。ウマル・シャイフはモグール人にとっても人気のある主君ではあったが、それでも草原の流儀に通じているわけではない。ことあるごとに軋轢はうまれ、その度に彼女が間を取り持った。それが可能だったのは、なんと言っても彼女は前モグール王の妃であったし、それも夫の大ハン即位の際には白いフェルトの敷物の上に並んで座ったほど、特別な存在だった。今の若いモグール達の間でも昔の彼女の女傑ぶりは半ば伝説となって語り継がれていて、一目も二目も置かれる存在だったのだ。


 そのようにして、今や彼女はアンディジャーンに欠かせない存在となった。



 やがて意を決した彼女は、暗闇の中で立ち上がる。部屋の片隅で跪いていたモグール人の近侍が、上着を片手に音もなく進み出る。

 何も見えない場所で考えを巡らしているからいけないのだ。答えなど出やしないのに、不吉な考えばかりが無限に湧き出してしまうようだ。時分に出来ることと言えば、覚悟をするだけ。覚悟を決めておいて、いざという時に取り乱さないようにするだけ。このような時にはどうしても、若者たちは、浮足立つ。時には叱咤し、時には優しい言葉で、彼らを導く。それが、老人たちに課された最後の仕事だ。これができなくなった老人は、もはや人の中で生きる資格は持たない。静かに一人、死を待つだけだ。それまでの人生のほとんどを砂漠と草原で過ごしてきた彼女には、そのような厳しい死生観が身に備わっていた。


 彼女が城壁の上に出ると、分厚い風がごうと音を立てて襲ってきた。まるで城ごと揺さぶろうとしているかのようだった。羽織っていた上着が剥ぎ取られそうに感じられ、胸元を両手で抑える。かがり火に照らされた自分の影が、まるで小娘のように頼りなく感じられ、それが気に食わなかった。

 城壁の端に立つと、雲が飛ぶように流れているのが目に入る。それがあまりに早過ぎるため、ずっとは月を覆い隠していられない。時折り、銀色の光が草原を照らし出す。草原は一面沸き立つように右に左に揺れている。嵐の海というのはこのようなものだった、と亡き夫が語ってくれたことを思い出す。港で番大きな船を選んだところで、嵐の前では木の葉のようなものでしかなかった。くるくると好き勝手に揺すられるのを、神に祈って耐えるしかなかったと。彼女自身はその目で海を見たことはなかったが、そのことに不満はなかった。それについては夫が語ってくれる情景だけで満足できたし、その時の彼女に草原を出てどこかに行くつもりは毛ほどにもなかった。それが、今や夫に先立たれ、老いさらばえた我が身は立派な城に守られている。運命とは数奇なものだなと、彼女はしみじみため息をつく。

 少なくとも、神のお導きのもとに、自分はこの立場に立つことになった。彼女は切れ切れになりながらも草原を照らし続ける月を見上げながら、そう思った。ならば、この先けして長くはない自分の命は、一族の若者たちの繁栄のために燃やし尽くそう。この先に何が起こったとしても、自分は私を顧みることなく、彼らを教え導びこう。

 吹きすさぶ風雨の前に、老体はすっかり冷え切ってしまっていたのだが、新たにした決心は彼女の奥底をじんわりと温めてくれているように感じた。先ほどまでこわばり切っていた肩から力がすっと抜け、微笑みが口元に浮かぶ。

 いつものように背筋をぴんと張った彼女を待ちわびていたかのように、東の空がほんのり明るくなり始めてきた。

 

 今夜は凶報を受け取らずにすんだ。ほっとした彼女は室内に戻ることにし、踵を返す前、最後に草原を一瞥する。

 地平に、一本の松明が灯っていた。

 彼女は、裏切られた気分だった。それは、幽世からの使いだった。

 夫の身に起きた凶報を受け取った時と同じだった。約束された不吉の報せが、一直線にこちらへ向かってくる。




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