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亡国の王子と動乱のサマルカンド ~異聞バーブル・ナーマ~  作者: はぶ川
亡国の王子と動乱のサマルカンド アンディジャーン防衛死守
3/42

1-3



 お母様が遠くから嫁いできた時に、お父様はこの庭園をお譲りした。

 春と夏と、お父様は兵を率いて地方のあちこちに出かける。戦があってもなくてもだ。秋と冬はここに戻ってくる。お母様はそれを一人で待ちわびる暮らしをしていた。

 多分、なんとなく褒めて欲しい気分だった僕が、それじゃあ姉さんと僕が産まれたおかげで少し寂しくなくなったね、なんて少し恩に着せるようなことを言ったことがあったのだけど

「あら、この土地に越して来てから、寂しいと感じたことなんて一度もないわよ」

 と、おっとりとした口調ながらも否定されてしまった。

 聞けば、姉さんを産む前のお母様ときたら、夏の間中ほとんど供も連れずに草原中馬を乗り回す有様だったらしい。お父様のユルトの見物に行ったことすらあると聞いた。

「モグールの気風が抜けなかったのよね。あなた達が産まれてからは、忙しくてなかなか脱げ出せなくなっちゃったけど」

 頬に手を当て、ため息混じりにそんなことまで言う。僕を見る視線に非難すら込められているように思えて、落ち着かない気分になってしまったのを覚えている。


 だから、お母様が僕の脱走をたしなめるとしても、通り一遍なものにしかならないということを僕は知っていた。なので割りに気安かった僕は、ろくに言い訳も用意せずに、勢いよく彼女の部屋に飛び込んだ。


「まぁ、バーブル!また勝手にお家を抜け出して。出かける時は誰かに行き先を伝えておかないとだめと言ったでしょう?」


 何も言わずに胸に飛び込んできた僕をがっしりと受け止める。言葉では驚いたようなことを言っておきながら、声の調子はあくまでおっとりとしたままだ。二人も子供を産んだ割には未だに体つきもほっそりとしていて、姉さんなんかよりはよっぽどお姫様っぽい。それなのに、しっかりと僕を抱きしめてくれている腕からは力強さも感じられて、そのことが僕を安心させる。


「でもさ、僕は一人になりたかったんだよ。ここで暮らしているとさ、一人きりになるのって難しいでしょう?」


「そうかしら?あの子は、ハンザーダは割りとよく一人でいるところを見かけるけれども」


 小首をかしげながら言う。姉さんは不機嫌な時にはそれを隠そうとしない人だから、周りに人が近寄ろうとしないだけなんだ、ということを伝えたかったけど、これは陰口にあたるだろうか。


「違うんだよ、そうじゃなくってさ。自分の住んでいる街を外から眺めたい気分だったんだよ。そういうのって、誰かと一緒にするものじゃないでしょう?」


 仕方がないので僕は少し攻める方角に変化をつけた。少しばかり粗が見えなくもないが、おおらかなお母様は気にしないだろう。


「まぁ、そうねえ。一人で草原を駆けると気持ちがいいものねえ。そうしたくなる気持ちはわかるわ。でもね」


 お母様はそこで一度言葉を区切ると、かがみこんだ。僕の目の前に顔がきて、いつになく鋭いまなざしで僕を見つめる。僕は少し息が詰まってしまい、顔を逸らすようにして背筋を伸ばす。


「草原に一人で出るのはいけません。草原はね、一見なだらかなように見えても、何が隠されているのかわからないの。特に草が生い茂る季節はね。だから絶対に少なくとも二人で、お互いが見える距離でね。声を掛け合いながら進むの。そうしないとね、いつだったかしら、まだ小さかったマフムードが枯れ井戸に落ちてね……」


 マフムード・ハンはお母様の弟で、僕の叔父様のうちの一人だ。そして、その後のモグーリスタン国の大ハンでもあった。その広大な支配地域はチュー川のほとりからタシケントまで含んでいて、世界でも有数の実力者の一人のはずなのだけれども、その姉にかかっては形無しだったみたいだ。 


「あの時は焦ったわねー。突然目の前から姿が消えたのよね。アフマドと二人で慌てて辺りを見渡しても、どこにも見つからないの」


 何か、どうということもない、懐かしい思い出話でもしているかの調子だった。しかし、このアフマド・ハンというのもモグーリスタン国の小ハンの一人で、はるか東の中国にほど近いトルファンの地を治めている支配者だ。カマルグとの争いであまりに多くの死体を積み重ねた結果、アラチャ(殺戮者)とまで呼ばれて恐れられている彼だが、大昔にはお母様に抱っこされながら子守りされていたことになる。

 この、モグーリスタンの二大巨頭を弟に持つ僕の母の名を、クトゥルク・ニガール・ハニムという。その若い時分に大変な苦労を経験してモグール王の座に登り詰めたユーヌス・ハンという英雄を父に持ち、たった今アンディジャーンの城で権勢を振るっているイセン・ダウラト・ベギムその人を母に持つ、生まれながらのモグールのお姫様だった人だ。

 元々、ユーヌス・ハン率いるモグーリスタン国は僕の父と戦争状態にあったのだけれども、父がその兄であるアフマド叔父様との抗争をより激しくしていくにつれ、モグールとは争わない方がいいのではないかという考えが浮かんだようだった。父は最後には、タシュケントとウラ・テペという土地を結納金がわりにモグールに与え、母との縁組を固めて、一族になることを決めた。こういうとなんだか血生臭い事情のある、意に沿わない間柄の夫婦みたいに聞こえるかもしれないけれども、実際の二人は仲が良かった。僕の目から見ると、二人とものんびりとした一面がある、そんな両親だった。


「でもまぁ、男の子だし、多少の怪我くらい仕方がないか」


 しばらく黙って考え込み始めたようだったので、この話はこれで終わりかなと思いかけたころ、突然そんなことを言い始めた。何かに納得したようにうなずいているのだけれども、それが何なのかは僕には理解できない。


「確か、あの時も放っておいたら勝手に帰って来たのよね。額を切って血まみれだったけど」


 多分マフムード叔父様のことを言っているのだろうと思う。しかし、まさか現在の草原の支配者の命運がそんなところで潰える可能性があっただなんて、恐ろしくて詳しく聞き返すつもりにはなれなかった。


「だから、あなたも何があっても帰っていらっしゃい。骨が折れても、痛くても、気を失ったりしたらだめよ。這ってでも帰ってこなきゃ」


 優しく、微笑みながら言い聞かせてくるお母様は、いつものようにおっとりとしていた。僕はそれに気圧されて、声も出せないままに小刻みに頷いた。


 そんな恐ろしい内容のことを、いつものようにおっとりとした感じで言い聞かせる。優しく、穏やかな微笑みもいつものままだ。僕はその落差になにか恐ろしいものを垣間見た気がして、何も言えずに小刻みに頷くだけだった。

 もしかすると、お母様は僕を脅かすつもりでそのような話をしたのかもしれなかった。だとすると、それは僕に対してこれ以上ないほどの効果を現したものだった。これ以降、僕が脱走を企てるとしても、草原に一人で出かけることはなくなった。




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