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第七話

バーブル 主人公 ティムールの末裔 12歳で父の跡を継いでフェルガーナの王になる



カースィム・ベグ カウチンという武家の出 バーブルの家臣でありよき理解者 


ホージャ・マウラーナーイェ・カーズィー バーブルの学問の師 アンディジャーンにてイスラーム法を司る家の出であり、本人も法官


ウマル・シャイフ・ミールザー バーブルの父 アブー・サイードによりフェルガーナの王に任じられる 実の兄でありティムール皇帝であるアフマドと抗争を繰り広げていた 享年三十九歳




夜露に濡れた夏草が吸い取ってくれているおかげだろうか、朝方の草原は土埃が舞うような事はなく、地平線と青空との境目がくっきりとわかるほど澄んでいる

僕はその日、若干の騎兵を引き連れて城の外まで出ていた

普段通りに畑や果樹園で働く人たちの姿や、放牧されている馬の群れが草を食んでいるのが見えたりする

城の防壁を固める作業をしていたり、方々に伝令や偵察任務で出たり入ったりする騎兵の姿も見えるものの、全体から受ける印象としては穏やかでのんびりとした、いつも通りの夏の朝だった

西の丘のその先に大軍勢が押し寄せてきているだなんて、教えてもらいでもしない限り、とてもじゃないけど気付きっこないと思う

知っていても、というよりこれ以上ない程の当事者である僕でさえも、ちょっと忘れかけてしまったくらいなのだから


数日後にはこの草原も敵の軍勢で埋め尽くされる……

その事を改めて心に留めて西の方に視線をやると、蹄の音を轟かせながら行軍する騎馬の大群が目に浮かぶようで、なんだか胃の辺りが冷たい手でつかまれたよう感じてしまう

耐え切れずに顔を背けると、暢気に欠伸をしながら爽やかな空気を楽しんでいるカースィム・ベグの姿が目に入った

護衛として付いて来たはずなのだが、辺りに気を配る様子はまるでない


彼の出であるカウチンという家系は、チンギス・ハンの長男であるジョチの時代まで遡るらしい

武家として誰かに仕えることを良しとしていて、仕えている間は主家とは血を交えないことが誇りであるとか

僕はこの事を書物で読んで知ったので、彼に詳しいことを教えてもらおうとして訊ねたのだが


「そうなんですか!?初めて知りました、そのような事は」


などと素っ頓狂なことを言っていたものだった

そういえば、彼は文字が読めないのだった


彼は若い頃は自由気ままに放浪していたと言っていて、それではなおさら文字が読めないと苦労したんじゃないかと思ったんだけれど


「私が読めなくともそこら辺を歩いている誰かに尋ねれば、それで事足りることですし」


と真顔で言っていた


暇があると街をぶらつき、コーラン暗誦人を見つけるとそばに腰かけていつまでも聞き入っていたりする

あそこの暗誦人はよい、あそこのはよくない、などと細かに評したりするし、果ては子供向けの学校であるクッターブの門前に座り込んで子供たちの暗誦にまで耳を傾ける始末


信心深く善人ではあるが、どこかいい加減で捉えどころのない、そんな人物

僕はこの男の心がどこにあるのかわかりかねて、釣られて空を見上げそうになるのをぐっとこらえて若干非難がこもった視線を彼に投げかけた

そして彼はその視線に気づいたようで、青空に浮かぶ雲を数える作業を一旦中断してこちらに向き直った


「どうしましょうか

一旦戻りましょうか? どうせ敵の姿なんて見えやしませんしね」


「まぁ、そうだけど……

歴戦の将軍ともなれば、姿が見えずとも気配を察したりすることとか出来ないものなのか?」


「出来ると豪語する者はしばしばおりますがな

大抵は出まかせか、あるいは勘違いです

敵が来るとわかっている方向を眺めますとね、自分自身でその姿を心の中に描いてしまうものなんですな」


彼は何がそんなに嬉しいのかわからないが、とにかく浮き浮きした口調でそう説明してくれた

もしかしたら僕と同じで草原に出ているだけで気分が晴れる人種なのかもしれない


「ま、戻って今のところは問題ないと報告することにしますかな

後のことはマウラナーイェ殿が戻って来てから動かすことになりましょう」


そうだった

敵陣に和平の使者として赴いた先生は、何事もなければそろそろ戻ってくる予定だった

和平自体には過度な期待は抱いていないが、僕としてはとにもかくにも先生の安否だけが気掛かりだった


馬の頭をそろって巡らし、アンディジャーンの街の中心部へと戻ることにした

途中大急ぎで収穫作業をしているメロン畑が目に入った

敵が押し寄せると狩り残したメロンは略奪の憂き目に遭ってしまうのだな。と思い至り、そのことで敵に対する怒りが新たに起こり、それが恐れを少し追いやってくれた気がする


城に戻ると先に先生が到着していて、旅装も満足に解かないままの姿で人々に指示を下していた

どこかですれ違ったのだろうか。もしかしたら二人してぼけっと空を見上げてたところを見られたかもしれない

そんなことを考えつつ、彼に近づいた


「あぁ、バーブル様。城外に出ておいでだったとか

私の方はなんとか無事に戻ってくることが出来ました」


先生はこちらに気付くと、書類から身を起こして向きを変えた

なんだか普段より生き生きしてる

対してこちらは普段よりボーっとしてしまっているようだ

そうか。もしかしたら僕は眠いのかもしれない


「和平交渉の方は申し訳ありません。決裂しました

思いの外敵方の反感が強い事を肌で感じまして……、少々危険な目に遭うことすら覚悟いたしました

なんでも開戦を思いとどまるよう上奏したという忠義者が処断される程でして……

可哀そうなことをしてしまったものです」


先生は右手で目頭を押さえる振りをする

はっきりとは口にしていないけれども、何らかの彼の仕込みが影響を与えた結果なのではないか

そういう疑念が僕の頭に浮かんできて隣を見上げると、カースィムも口を軽くへの字に曲げてこちらを見下ろしていた


「ともあれ!

最初からの目論見通りに敵陣奥深くまで観察することは出来ました

まぁ、あちらとしては見せてしまっても構わないという余裕があるのでしょう

まだ到着していない分がどれほどあるかわかりませんが、野戦で当たるのはとてもとても。」


先生は突然顔を上げると口早にそれだけを一気にまくしたてた

やっぱり普段より元気だし、それになんというか、うるさい

目も変な光り方をしているし、顔も脂ぎっている

もしかしたら寝ないで馬を走らせてきたのかもしれない

どこかのタイミングで休むように言わないと。と僕は思った


「仕込みはいくつか仕掛けてきましたけれども、どう作用するかは定かではありませんし、うまく行ったとしてもそれだけで敵が退くと言った類の物ではありません

どうやっても敵はアンディジャーン城前に布陣するでしょうし、こちらは攻城戦を耐え忍ばなくてはなりません

ハサン・ヤークーブ殿が改築工事に乗り気で、張り切って陣頭指揮を執ってくださっているのが幸いと言えます」


自分の提案が容れられて喜んでいるのだろうか

彼は今日も太鼓腹を揺らしながらだみ声を張り上げて作業する者たちを叱咤激励している


「ただしなんと言っても敵は大軍

籠城は長期にわたることを期さねばなりませんし、さらに気掛かりなことがあります……」


先生は今度は腕を後ろに回した格好で、僕たちの前をぐるぐると歩き始めた

それを黙って見つめている、長身のカースィムと小柄な僕と 多分傍目から見たらあまり深刻な話をしているようには見えないんじゃないだろうか


「アブドゥル・アリー・タルハンの軍勢の中に、少なくない人数のウズベク族の兵士の姿を見ることが出来ました

ただの傭兵かもしれませんし、あるいは食客として養っているのかもしれない

なんにせよ一筋縄でいかない連中です

格別の注意を払って当たらないと……」


ウズベク族……

かつてアムダリア河畔よりも北の地域、マー・ワラー・アンナフルとトゥルキスターンを席巻した部族で、いくつかの抗争を経てモグール族に大きく勢力を削られてしまった過去がある。お爺さまの世代の話だ

その後一人の族長が四散した部族を再びまとめるも、これも再びモグールとのチル川における抗争で手痛い目に遭ったのではなかったか……。これはお父さまの世代の話だ

そしてそれを引き起こしたのが他ならぬお父さまの謀略であり、その一戦でお父様はティムール側とモグール側両方の恨みを買うことになったのだが……。いずれその話をするかもしれない


そしてもう一つ、お父さまの語り草となっている戦の相手役というのがウズベク族だった

ある時、サマルカンド近郊にまで攻め込んで略奪に励んだウズベクの部族がいて、お父さまはその報を耳にすると一軍を率いて現場に急行した

そして、数で勝る敵方の意表を突くため、というより一直線に敵に襲い掛かるためだったんだと思うけど、厚く氷の張るウルス川を馬に乗ったまま駆け抜けたのだった

意気揚々と略奪品を運んでいたウズベク族は完全に意表を突かれ、散々に討ち破られた

そしてお父さまは奪い取った全ての奴隷と略奪品を持っていた人たちの手元に戻してやって、お礼を受け取る事すらしなかったんだ


「ウズベク……

あ、チル川での遺恨もあったろうに、よくアフマド叔父様が参陣を赦したね」


「あるいはそれはアブドゥル・アリーの独断かもしれませんが……

お二人はあまりピンと来ていないご様子ですね?

野戦の時の彼らは本当に脅威となる存在ですぞ?」


「とは言っても野戦はせずに籠城戦で凌ぐ算段なのでござろう?

ならば優秀な騎馬兵が少々増えたところで大したことは……」


先生は打てども響かない目の前の二人に少し呆れた様子を見せたものの、それ以上粘り強く教えることは諦めて次の説明へと移って行った

ところが、実はこれが大したことあったのである



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