第六話
スルターン・アフマド・ミールザー バーブルの叔父 アブー・サイードの跡を継いでティムールならびにサマルカンドを領有しているが、権勢は曇りがち
シャイバーニー・ハーン 砂漠の民、ウズベク族の族長 過去に一度滅ぼされた流浪の民族だったのだが、それを勢力として再びまとめ上げた
カラ・スー川のほとりは今、この地に押し寄せてきたサマルカンドの軍勢でごった返していた
実際に到着した兵は半分といったところだろうが、次々に馬を繋いで馬車から物資を下ろし指示された場所にテントを建て始め、ところどころでその場所で揉めて殴り合いが起き、砂ぼこりで辺りが見えなくなるほどに活気にあふれていた
彼は、中心に建てられた一際大きいテントの中に座っていた
その手にはたった今届けられた、彼の甥っ子からの親書が握られている
甥っ子の師であり、自分にとっては兄弟子、そして現在は敵同士。といった少々複雑な相手から手ずから渡された物だった
〔あなたがフェルガーナを手中に収めたならば、一人の配下をこの地方の統治者として置かれることになるでしょう
私はあなたの甥であり配下であり、またあなたの娘の許嫁でもあります
フェルガーナをこのまま私に任せていただけるのならば、全ての事は心安らかに落ち着くことになりましょう〕
「前にサマルカンドにて顔を合わせた時は確か五歳でしたか
時が経つのは早い。あの時の子供がこのような文を書く程になったのですねえ」
彼は親書をテーブルに置くと、こわばった眉間をもみほぐしながら幼かった甥っ子の顔を思い出そうとした
「……私個人としては飲んでしまっても構わないのですが
というよりもこれで決着がつけられるのならばむしろ好都合と言えるのですが、今や事態は簡単に行きません」
何度か試してみたところ、その時の部屋の様子や甥っ子を連れてきた兄の顔などはぼんやりと思い出せるのだが
肝心の本人の顔は、そこだけ墨で塗りつぶされたかのように記憶の底から浮かび上がってこようとしない
「直前で亡くなってしまったとはいえ、あなたの父は戦で圧倒しない限り私の軍門に下ることはなかったでしょうし、私としてはそれをするためにフェルガーナを切り売りする手形を乱発してまで軍をここまで持ってきてしまった」
「全ては巡り合わせ次第なのですね
敢えて言えば、あなたの父が元凶だったと言えますが……」
彼は一度手放した親書を再び手に取り、テントの中にしつらえられた豪華なソファに腰を下ろした
「アフマド閣下! 入るぞ!」
外から呼びかける声がすると、彼がよいとも悪いとも答える前にテントの入り口がなんどもはためき、彼の重臣たちが次々とテントに入ってきた
ダルヴィーシュ・ムハンマド
アフマド・ミールザーの母方のおじにあたり、彼の宮廷の中では最も立場が高い人物だった
敬虔なムスリムで、その点においても彼の発言力を高める働きをしていた
サイイド・ユースフ
少数民族であるマジャール族の族長でもあり、彼の部族はフェルガーナの外れに居住していた
彼にとってフェルガーナは垂涎の土地であろう
アフマド・ハージー
誰よりも宮廷における遊泳方法を知り尽くしている老獪な人物であるが、一方で優れた詩を残す繊細な面も持ち合わせる人物だ
欲深さを隠そうともしない癖に、そのことが彼の足を引っ張ったことは一度もないという
アブドゥル・アリー・タルハン
サマルカンドより西に行った大都市、ブハーラーを根源地としているタルハン族の頭目で、今最も躍進著しい人物だ
彼の支配下から上がってくる税収は主であるアフマドのそれをはるかに凌ぐであろうし、それを一切上納しようとしない
彼らはアフマドのテントの豪華さに気圧されるような気配をみじんも見せず、お互いの、そしてアフマドの表情の動きを見逃さまいとにらみ合っている
最も彼らのテントはアフマドの物などよりもずっと豪華なことであろう
その程度の規約など、彼らにとってはなんの意味も為さなくなりつつあった
彼らの様子を見ているうちに、アフマドは元々感じていた頭痛が少しひどくなった気がした
そこでとにかく少しでも彼らの視線から逃れたいという気持ちで、手にしていた親書をテーブルの真ん中に投げ出すことにした
「……和議の申し入れ? この期に及んでか
軍勢がここまで来たので怖気づきおったか」
ダルヴィーシュ・ムハンマドが鼻を鳴らしながら親書を読み上げる
「それで、使者はどこにいるんです
きちんと捕えてあるんでしょうね?」
アフマド・ハージーが抜け目なさそうに辺りを見回しながらそう言った
こんなところにいるはずがないことは承知だろうに。なんなら目の前に連れてこいとでも言いたいのだろうか
「慌てないでください
もとよりそんな物、受けるつもりがありません
使者には因果を言い含めて元いた場所に戻ってもらうつもりです」
アフマドの方こそ少し慌ててそのように弁解した
自分の兄弟子であるホージャ・マウラナーイェを景気づけなどのために、血祭りに挙げられてもらってはたまったものではない
「私としては自分の部民の多くを動員してまでこの場にいるのです
今さら戦闘はありません、分配はありませんでは済まされませんよ
一刻も早く進軍の合図を。私が言えるのはそれだけです」
サイイド・ユースフが両手を広げながらそう嘯く
彼の部民はフェルガーナの勢力とは衝突することも多かろう
ただ単にアンディジャーンの軍勢を攻め滅ぼすだけでもその利益は計り知れないに違いない
アブドゥル・アリー・タルハンはただ一人、腕組みをしたまま何も発言しようとしなかった
その背後には長刀を佩いた偉丈夫が控えており、それは本来この場にいるはずのない男だったのであるが、一同はそれに触れることが出来ずにいた
「お前たちがアンディジャーンと和睦をするか攻め滅ぼすか
どちらを選んでも俺の方針に影響を与えることがないということを言っておこう」
彼は今や王のような口を聞くようにまでなってしまっていた
家臣は三千人にも達し、住居、執務室、軍勢からテントまで王の規模を越えることに憚りはなかった
「俺の軍勢と、このシャイバーニー率いるウズベク軍
アンディジャーン城を叩き潰すまではサマルカンドに戻るつもりはさらさらない
お前たちも分け前を取り損ねたくなくば、必死に俺に付いてくるがいいだろう」
アブドゥル・アリーがさらりと告げた男の名前に、一同の気配がぴんと張る
その名前を、サマルカンドの面々にとっては何度も耳にしていたからだった。ただし敵方としてだったが
(草原の一大勢力であったウズベクは、ライバル勢力のモグールに撃ち滅ぼされて衰退していたはずですが……
いつの間に自らの陣営に引き入れ……
いや、食客数千人といわれるアブドゥル・アリー。一時的にかくまっているだけかもしれませんが)
アフマドは、主人として声高に追及すべきであろうこの場面に、内心で推察を重ねることしかできない自分を不甲斐なく感じていた
その時、テントの外で何か言い争っている気配を感じたかと思うと、一人の男が這いつくばりながら転がり込んできた
「何事ですかッ!
王の陣幕ですよ、わきまえなさい!!」
すぐさま護衛の兵が飛び掛かって取り押さえたのだが、彼はそれに負けじと顔をアフマドの方に向け、大音声を発した
「恐れながら申し上げます!
それがしダルヴィーシュ・ガーウと申す者、此度の血族同士が相食む戦は理なく益薄い凶行です!
何卒今一度お考え直しを……」
どういった立場かはわからないが、あるいは家族がアンディジャーンにいるのかもしれないが、今回の戦役に反対したいらしい
アフマドの本心としてはその発言を聞き入れたい気持ちもないではないのだが、その議論が許される地点はとうの昔に通り過ぎてしまっていた
彼の重鎮たちは呆れたような顔をしてこの平和主義者が喚き続けるのを見下ろしていた
どうせこの者の主張が通ることなどあり得はしない
それならばこの機に、懸案の一つである兄弟子マウラナーイェの身柄を安全に保つための口実にしてしまおう。とアフマドは思いついた
「許されてもいないのに王のテントに入りこみ、怯懦な言をもって軍の士気をくじこうとする
到底許されることではありません!
この者を処刑し、それを以って進軍の合図とします!」
アフマドはずきずきと痛む頭を我慢しながら、目一杯努力して声を張った
衛兵に抑え込まれたままの男は絶望した様子だが、一同は納得したように頷いたので、彼の命はそれなりに有効に使われたことだと言えよう
「あなたには申し訳ないが、やはりあなたをフェルガーナの王のままにしておくわけにはいきません
父の後を追ってもらうこととしましょうか」
アフマドはこつこつと額を指で叩きながら、地図の上のアンディジャーンの文字を睨みつけた




