第二話
バーブル 主人公 ティムールの末裔 12歳で父の跡を継いでフェルガーナの王になる
ハンザーダ・ベギム バーブルの同腹の姉
イセン・ダウラト・ベギム バーブルの祖母 先代モグール王、ユーヌス・ハンの正妻だった
ウマル・シャイフ・ミールザー バーブルの父 アブー・サイードによりフェルガーナの王に任じられる 実の兄でありティムール皇帝であるアフマドと抗争を繰り広げていた 享年三十九歳
その日は、朝から皆落ち着かない様子だった
本当のことを言うと、前の夜から不安な空気は満ちていたのだけれども、その時はただの遅れだと思われていたのだ
昼の礼拝の時間になっても、お父さまはアンディジャーンに姿を見せなかった
それどころか、先触れすら到着していなかったし、遅れるなら遅れるで使いが来るのが当然なことだったと思う
夕方になり、夜になって、お母さまは一日中不安なご様子で、それでも笑顔を作って子供たちはもう寝なさいとおっしゃるので、僕と姉上は先に就寝することにした
夜中、あるいは明け方
身体を揺すられて目が覚めると、目の前に姉上の顔があった
まだ日も登っていないのにおかしなことだと思ったけれど、もしかしたらお父さまが到着したのかもと思い、眠い目をこすりながら身体を起こした
「それで……
お父さまはなんで到着がこんなにも遅れたの?
アフスィからアンディジャーンはそんなに離れてはいないのに……」
「私も聞かされてないわ
ただ、広間にみんな集まっていて、バーブルを呼んできなさいって言われただけ」
姉上からそのように聞かされて、僕はそれならばやっぱりお父さまが到着したんだな。と安心した
夜中に広間を使うには灯りがたくさん必要になるし、お父さまがお客様をお迎えする時くらいしか使わないからだ
でも、回廊を通りかかった時に見えた前庭に灯りがなかったことは気掛かりだった
大勢の供回りと一緒に来たんじゃないのだろうかって
広間に到着すると、大勢の大人たちが話をやめて一斉にこっちを見た
僕はびっくりしてして立ち止まってしまったのだけれども、上座にいたおばあ様が手招きしてるので、そちらの方へ歩いていった
その間中も皆がじっと見つめてくるので、なんだかとても居心地が悪かったけれども、おばあ様だけはいつものように笑って下さっていた
おばあ様は、イセン・ダウラト・ベギムは、先代のモグール王、ユーヌス・ハンのお妃で、お母さまの輿入れの時に一緒にアンディジャーンへとやってきた
お父さまはアンディジャーンの街の外れに「小鳥の水飲み場」と銘打った素敵な庭園を作り、おばあ様にお譲りした
今僕たちがいるのもその庭園の中の邸宅で、公平で聡明であると評判高いおばあ様の意見を聞こうとして、普段からアンディジャーンの有力者たちが出入りしていた
僕が近づくと、おばあ様は大きく手を広げて僕を抱きしめ、耳元で小さく囁いた
「あなたのお父さまがお亡くなりになりました」
僕はとっさにはその言葉を理解することができなくて、それでも不吉な何かを最初に感じ取って、おばあ様から身を退いてしまった
おばあ様は僕の混乱をわかっているかのようにゆっくりと大きく頷いて、それで僕はさっき何を言われたのかがやっと頭に入ってきたのだけれども、それでもやっぱり何を言っていいのかわからなくて、僕はおばあ様の顔から視線を離すと、広間にいる大人たちの姿を改めて見渡した
彼らはやっぱり話を中断してて、僕とおばあ様の様子を食い入るように見つめていた
その様子は僕にとって心底恐ろしかったけれど、何が一番恐ろしかったかというと、彼ら大人たちもまた何かに怯えていることが伝わってきたからだった
家族しかいない場所だったならば、僕は泣いていたかもしれない
その時は泣くことはなかったけれども、何が起こるか想像も出来ないこの状況でほとんど涙ぐんでしまっていて、そんな僕の顔を見た大人たちは少しばかりがっかりした様子を見せた後にまた口々に話を始めた
「……サマルカンドのアフマド様が今にも攻め込んで来ようという時に」
「……モグール王のマフムード・ハンもあちらに付いたという……
このままではフェルガーナは灰燼と化してしまうぞ」
「……あのような年少の王を奉じたとて……
それよりはアフマド様はバーブル様にとって叔父にあたる
素直に恭順の意を現した方が得策ではないか……」
大人たちは先ほどの一幕で僕に憚らないようになったようだった
かなり熱を入れた様子で口々に自分の意見を主張し始めた
そしてそれはかなり実際的な内容を含んでいて、つまり、本気で主替えを検討しているのと同義だった
よりによって、主人の息子である僕の目の前で
そして、とうとう一人の大人がおばあ様の前に進んできて次のように言った
「恐れながら申し上げます
ウマル・シャイフ様がお亡くなりになり、世継ぎのバーブル様はまだ幼少
ここは血縁に頼ってサマルカンドのアフマド様にバーブル様をお預けし
フェルガーナはアフマド様を上に頂くことが最善ではないでしょうか」
彼の視線は完全に僕を捉えていない
隣にいるおばあ様に向けて発された言葉だった
僕は情けない気持ちで一杯になり、うつむきたくなってしまったが、何故だかそれだけはやってはいけないと強く感じて、詰めが食い込むほど強く拳を握りしめて真っ直ぐ前を見る事だけに集中した
おばあ様はしばらく何も言わずに僕をじっと見ていたけれど
やがて何か心を決めたかのようにクッションから立ち上がると、胸を張って広間を睥睨した
まだ何も言葉を発していないというのに、大人たちはそれだけの動作に圧倒されたようで、意見を述べていた彼などは一歩二歩ほど後ずさるほどだった
やがておばあ様は十分に息を吸い込むと、右腕を大人たちへ向けて真っ直ぐに伸ばすと、お年を召されても全く変わらない張りのある声で一喝された
「わきまえよ!!
お前は誰に向かって物を申して居る!
確かにお前たちの主君、ウマル・シャイフは落命した
しかし、彼がこの子バーブルをアンディジャーンに残していたのはなぜなのか」
おばあ様は後半を話しながらも部屋の中心へ向かって歩き始め
物も言えずに平伏してしまっている先ほどの男の横を、一顧だにせずに通り過ぎた
「もしも自分に何かあった時には、バーブルを中心にして一丸となって国難にあたれよと
そう願っていたからこそのこの配置だったのではないか」
大人たちの中心に割って入りながらも言葉を止めることはない
広間の全員がおばあ様から目を離せない状態だった
もちろん僕さえもだった
「そのように期待されていながらのこの体たらく
サマルカンドのアフマドが攻めてくる程度のことでうろたえおって
アフスィで食い止められぬのならば、このアンディジャーンで、我こそが敵勢を討ってくれようぞと
そうは思わぬのか!?」
おばあ様は右てを大きく薙ぎ払いながら一喝する
大人たちは、まるでその手に頬を張られたかのように顔を背け、あるいは俯き
とにかく、完全に雌雄が決した。と僕は感じた
しかし、おばあ様の叱責はこの不甲斐ない僕の心にも強く響いてしまって、その時僕もまたみんなと同じように俯いてしまっていたのだった




