3-2
気が付くと、僕は宙に浮かんでいた。
眼下には流れる水面、腕の代わりに黒い翼をたずさえ、風を切っていた。
夢の中で、僕は鳥になっていた。
取り乱すことはなかった。すぐにこれは夢だと気付くことが出来たし、かねてから鳥になって大空を自由に飛んでみたいと思っていたこともあったからだ。むしろ、興奮しすぎて目が覚めてしまうことだけが気がかりだった。
だったのだが、程なく僕は失望した。大体、僕がなってみたいと望んでいた鳥というのは、天高く翼を広げる鷹のことを指すのであり、次点として仲間と自由に舞い踊る小鳥のことを考えてみなくもないくらいで、巨体を重そうによたよたと飛ぶ川鵜はあまり好みの範疇ではなかった。
その上、おそらく上空には獲物を探している猛禽がいたりするのだろうが、高いところまで飛んでいくのがなんとなく躊躇われた。川面すれすれを飛ぶことを強いられている状況は、くねくねと蛇行する川に沿って右に左に進路を変えつつ飛び続けるのはそれなりに面白くはあったけれども、期待していたほどではないというか思っていたのとは違うというか、夢の中ですら僕は思うままに振る舞えないのかと情けなくなり、ため息をついたところで目が覚めた。
「なにか夢でもご覧だったのですか。随分と楽しそうにしておられました」
僕の着替えを手伝いながら、ハージーが聞いてくる。
「そう思ったんなら、お前は節穴だよ……」
帯を巻かれながら、僕は答える。サンガクが少し眉をひそめながら、こちらを覗き込んでくる。
「なんでもないいよ!そのくらいでいいよ。それより、朝ごはんはお茶と一緒に広間に持ってきて。今日も忙しくなりそうだから」
僕がそう告げると、二人は何も聞き返さずに頭を下げ、そのまま部屋から退出していった。
敵陣に使いし、和平の申し出に行っていたマウラナーイェ・カーズィーが戻ってきた。故ウバイドゥッラー猊下の元で兄弟子にあたるため、丁重な扱いを受けると思われていたのだけれども、案に相違して面会すら許されなかったという。
「元々部下の顔色をうかがいながらでないと、何一つ決められないお方でしたが、ここに来て磨きがかかったようで。軍営全体が士気高く、ベグ達も陣割りが済み次第、先陣を切って進みたいとばかり考えているようで」
先生はアンディジャーンに戻り次第、旅の垢を落とす間もなく相手の様子を知らせに来てくれた。僕は先生の無事を喜び、同じ座卓を前に揃って腰を下ろした。
「どうしてだろう。僕は誠心誠意手紙をしたためたつもりだったんだけどな。僕がアフマド叔父様に従い、叔父様は僕の統治を認める。そうすれば、一族が内で争うこともなく、お互い繁栄できるはずなのに」
「アフマド閣下がご自分の権限をしっかりと確立なさっていたとしたら、それも魅力的な提案だったでしょう。しかし、既にアフマド閣下は軽んじられておりますし、彼を担いでいる連中に至っては、この街に貯えられた財宝に目がくらんでいる」
「厳しい、戦いになるでしょうな。末端の兵の一人一人から、指揮を下すベグ達も含めて、常に骨がきしみ、血がにじむほどの努力を強いられ続けることでしょう。それでも、勝ちをおさめられるかどうかは、神のみぞ知るところ」
だったら何故僕に手紙をしたためさせたのか。万に一つの奇跡でも起こそうと目論んだのだろうか。多分、違う。おそらく先生は、その目で敵の陣営を確かめたかったのだろう。そのために、勝算の薄い交渉に僕の書状を利用した。
それはそれでいいと思う。だが、不満に思うこともある。元々勇敢さで知られている人物でもあるし、本人は確かな理屈に基づいて行動しているのだろうけれども、簡単に危険に晒すのが気にかかる。こんな時、お父様だったらどうしていただろうか。一喝して雷を落とす?それとも気にも留めずに、好きにやらせていただろうか。
だけど、僕はお父様ではない。今の僕は鷹ではない。かといっていつまでも雀のままでもいられないわけで、さながら水面すれすれを飛び続ける川鵜のようなものだろう。いずれ、翼に力を蓄え大空を高く舞い上がれるようになった時には、誰もが僕に付き従うようになるだろうか。
「……いや、危険を顧みずによく成し遂げてくれた。それで、これからは何をするつもりなのかな。僕に何か出来ることはあるだろうか」
「ハサン・ヤークーブがアウバーシュと呼ばれる不逞の連中をかき集めています。騎馬隊には編成できませんが、防衛戦では役に立つでしょう。それと、あちらでいくつか気になる噂を耳にしました」
先生はまるで耳打ちでもするかのように、声を潜めて言った。
「一つは、この遠征に大義がないと表立って批判を繰り返していたダルヴィーシュ・ガーウという人物が、アフマド・ミールザーによって処刑されたこと。あちらはただでさえ一枚岩ではありませんでしたが、まだ表に出ていない問題点も多く抱えているようで」
これは、少しだけいい知らせのように感じる。彼らがお互いに争い始めてくれでもすれば、僕らとしては助かる可能性が高くなる。
「……私の弟子を幾人か、あちらに潜ませて来ました。具体的に何が出来るかはお約束できませんが、小さな騒ぎが起こせるかもしれません」
いつの間にそんなことをやってたのだ、この人は。少し驚く。
「もう一つは、よくない報せです。あちらの軍の中に、ブハーラーのハーキム職であるバーキー・タルハンも参加しているのですが」
彼の名前は知っていた。
ブハーラーで代々盛況を誇っていたタルハン族の出で、父であるアブドゥル・アリー・タルハンもブハーラーのハーキム職を務めていた。およそわきまえるということを知らない家族であり、その主君や長老よりも贅沢な暮らしを送り、顧みることがなかったという。
「これほどの大掛かりな遠征だ。当然彼も参加していることだと思っていたよ。大体、今のアフマド叔父様の宮廷にいたっては、彼の親族ばかりで占められていると聞くし」
「……ウズベク族の部隊を伴っています」
まさか、と思い先生の顔を見上げると、無言で首を横に振った。嘘だろう?しばらく言葉も出ないまま呆然とする。
「嘘だろう?」
やっと声が出るようになった時、同じ言葉を口にしてしまった。
「信じられないよ。だって、ウズベクといえば、僕たちだけでなく、ティムールの血統の宿敵なのに」
ウズベクとは、サマルカンドから見て北方の、トルキスタンの砂漠地帯で暮らす遊牧民族だ。
野蛮で、精強で、モグールやティムールの王子たちとは時折り共闘することもあったけれども、常々相争う関係だった。むしろ様々な打診を繰り返す間柄だったからこそ、抗争時にはより一層血生臭さが際立ったとも言える。
アフマド叔父様がモグールを攻めた時、その一翼を担っていたのが、シャイバーニー・ハン率いるウズベク騎兵だった。しかしシャイバーニーは裏ではモグールのアフマド・ハンと繋がっていて、叔父様の軍がチル川を渡河しているところを襲い掛かり、輜重を奪って逃走した。
この戦いでサマルカンドの軍勢は多数の死者を出してしまい、一方でシャイバーニーのウズベクも恨みを持った人々に散々に追われ、一族は離散してしまったという。
「いくらバーキー・タルハンが傍若無人でも、シャイバーニーをかくまっているだなんて知られたら、ただでは済むはずがない……」
「それが、どうやらトルキスタンに住むウズベクではないらしく、南方のザラフシャンの山岳地帯で遊牧していた一族でして。チル川の戦いには参加していないどころか、シャイバーニーの顔も知らないそうで」
「知らないそうでって、もしかして会ったの?先生自身で」
「はい。機会がありましたので、この目で確かめようと」
この人は……。敵の軍営の中、監視の目もあっただろうに、本当によく自由に動き回ったものだなと感心する。
「ハムザ・スルターンとマフディ・スルターン。二人の王子が率いていました。ヒサール方面で、ホスロー・シャーとの確執があったために、バーキー・タルハンの庇護を求めたとのことで。それはどうでもよいことなのですが……」
先生はそこで一旦言葉を切ると、悩んでいるようなしぐさを見せた。
「兵は精強で馬は鍛え上げられておりましたし、指揮官も二人とも、とてもやる気に満ち溢れておりました」
本当に、この世はままならないことで一杯だ。叶うことなら王の座なんて放り出したっていいから、草原で昼寝をするだけの生活に戻りたいものだった。




