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アフマド・ミールザーは平凡な人物だった。
小心で、信心深く、優柔不断で、他人と強く衝突するのを嫌い、身の回りの安寧を保つことだけに才を発揮する、そんな人物だった。
父アブー・サイード・ミールザーの長男として生まれたことだけが、彼のその手にサマルカンドを掴む資格を与えてくれたのだと、周囲からもそのように捉えられていた。
彼自身、自分の凡庸さを自覚していた。自らの弟であるウマル・シャイフであるとか、今現在ヘラートを支配している、同族であるフサイン・バイカラであるとか、支配者としての資質としては、彼らに遠く及ばないことを知っていた。
実際、彼の父がイランで悲劇的な死を迎え、玉座を受け継いだその時から、彼の権力は衰える一方だった。いまや彼は、偉大な帝国の支配者というよりは、地方豪族たちの首長でしかなくなっていた。際限なく増長してゆく配下のベグ達をどうにか抑えることだけに苦心惨憺する毎日であった。
その努力が報われたものかどうかはわからないが、両手から砂をこぼすように支配地を減らし続けながらも、その中心地であるサマルカンドだけは平和に保つことができていた。
市は相変わらず豊かな物産に溢れ、人々は穏やかで、ナクシュヴァンディー教団のホージャ達を敬っていた。
彼のその三十年にも及ぶ治世の中で、そのことだけは、誰もが評価するところであった。
そのような人物と目されていただけに、ウマル・シャイフ死去の後の果断には、誰もが驚かされた。一報を受け取るや否や、方々に使いを出して、瞬く間に軍を整えたのだ。このようなことをベグ達に相談もせずに行うとは、普段の彼からは到底考えられないことだった。
考えられないことではあったが、この出兵はベグ達にとってもそれほど都合の悪いことではなさそうだった。フェルガーナとサマルカンドの間には、地力に大きな差があったし、ウマル・シャイフの跡を継いだのは、ほんの十二歳の少年だという話であった。
早くも、誰もが戦勝後の略奪に思いをはせていた。この遠征に乗り遅れることがないように、急いで軍を整えるだけだった。
急ごしらえで結成した遠征軍は、まるで彼の性分を現しているかのように、ゆっくりと東へ進んだ。
ウラ・テペ、ホジャンド、マルギーナーン。これらのウマル・シャイフを主君と仰いでいた土地も、押し寄せる大軍の前にはなすすべもなかった。城主たちは恐る恐るといった風情で降伏し、遠征軍も激しい略奪を行うでもなく、粛々と征服されていった。
アフマド・ミールザーの軍勢は、今回の遠征の真の目的である、アンディジャーンの目前まで、進むことができた。思いがけず、大した抵抗に遭うこともない道中だった。クバー川のほとりに陣を張り、その後改めてアンディジャーンを囲む手筈になっていた。これらの行程を、彼は決して独断を振るうことなく進めてきた。
今しがたもベグ達を相手に長時間の軍議を行ったばかりであった。自分に出来ることと言えば、口々に好き勝手なことを言う彼らを、様々な餌をちらつかせながらどうにかなだめることくらい。
そんなことばかり連日行っていると、自分が酷く疲れていることに気付く。自らの非才がそれに拍車をかけているのだろうと思うと、全てが虚しく思えて仕方がない。つい、ワインを飲み過ぎてしまうのも無理のないことだった。
ため息をつきながら視線を落とす。いつの間にかこんな手紙を書くようになったものだ。以前会った時にはまだほんの子供だったはずなのに。
彼の脳裏には、あどけなかった甥の笑顔が浮かんでいる。あの時に、自分の娘との婚約を決めたのだった。
まさか直接敵対することになるだなんて、思ってもみなかった。
そんな甥っ子が、ほとんど慈悲を乞うような文面で、和解を願う手紙を送ってきたのだ。臣従に近い条件を出してみても受け入れるかもしれない。そんな手触りだった。
これが弟から出された手紙だったならば、端から信じることはない。おそらく、読むことすらなかったのだろうと思う。もちろん今回も猜疑の目をもって、内容を確かめはした。しかし、そこに謀略の気配があるとは、彼個人としては、感じることはなかった。
「これをどう処理すべきか……」
ワインの入った杯を持ったまま、天幕の外に出る。眼前には、後続の部隊が次々に到着してくるのが見える。再度ここを出る順番を決めるには、さらに協議を重ねる必要があるだろう。
「何事も、独断ではままならんものだ」
正直なことを言えば、このタイミングでの和平の申し出というのは、理にかなってはいる。渡りに船でもある。軍で圧力をかけて臣従を迫るというのは古来よりの常套の手段であったし、戦わずしてそれに屈服したとしても、臆病者とそしられる風潮があるわけでもない。
ましてや、あちらが頂いているのはほんの十二歳の少年だ。
「不安に駆られた重臣や街の権力者たちが、先走ってこちらに使いするのは期待してはいたが。和平の打診が王自らの名義で出されただけでも、よくやったと褒めてやるべきなのだが」
彼はそう独り言ちながら、ワインをすする。少し時間が経ちすぎてしまったかもしれない。思っていた以上の苦みが口の中に広がる。思わず顔をしかめてしまうが、無駄にするには忍びない。残りは一息に喉に流し込んだ。
「その身柄を引き取って、サマルカンドに連れて帰り、昔の通りに娘の婿として後見してやれればよかったんだがな。事態はそうもいかなくなった」
彼は、クバー川を越えて、彼方にあるアンディジャーン城塞にでも籠っているであろう、甥に向かって語りかける。
「しかし、お前の父親は少しばかりやり過ぎてしまったのだ。我が軍の中には、今でもアンディジャーンを恨みの象徴とみなしている連中も少なくない。俺の力では、もうどうにも抑えきることが出来んのだ」
言っているうちに、内からふつふつと怒りが沸き上がってきた。
チル川の敗戦。
タシケントを巡る、モグーリスタンのハンとの一大決戦。戦端が開かれる直前に、ウズベク族の裏切りに合い、壊滅的な被害を受けて戦闘は終わった。
アフマド・ミールザーやサマルカンドの軍勢にとってだけでなく、ティムール帝国全体の存続が危ぶまれたほどの敗北。その中で、弟だけが軍をすり減らすこともなく、領土を広げていたのだ。
何か決定的な証拠があったわけではない。だが、ウズベク族の裏切りですら、弟の謀略故に起きたことだとも囁かれていた。そして、弟はそれを肯定も否定もしようとせずに、まるでこちらの心情など眼中にないかの如く、謀略に次ぐ謀略を重ね、成功したり失敗したりしていた。
それが一段と、神経にさわった。
ここまで来てしまっては、もはや、事態は彼の手には余っていた。手綱を、自ら御することが出来ない。
精々が、開戦の合図をすることくらいだろう。後は、祈るだけだ。戦勝後の略奪があまり酷くなり過ぎなければよいとも思うが、それは望みすぎだろう。
「悪いが、仲直りはあの世に行ってからになりそうだ。恨まないでくれ」
彼は空になった杯を彼方に掲げると、再び天幕の中へと姿を消した。




