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ハサン・ヤークーブの独壇場は続いた。ちょうど場を外していたマウラナーイェ・カーズィーが図面を片手に戻って来たところ、たちまちつかまってしまい、矢継ぎ早に質問を浴びせられていた。
そうこうしているうちに、いち早く状況を掴んだらしいハサンは、城壁の補修などについて口出しをし始めた。言っていることは間違っていないし、なるほど目を付けるところは的確ではあるのだけれども、傍らに僕の姿などないように振る舞うのが実に彼らしい。
僕としては「どうすればいいんだよ!」と思わずにはいられなかったけれども、これはこの先どこまでも付きまとってくる問題だろう。唯一切って捨てる方法があるとするならば、僕自身の力を天下に示すことのみだ。今の等身大の僕自身だけでは、付いている箔が足りていない。
その時、部屋の隅で物も言わず、腕組みをして周囲の話を聞いていたカースィム・ベグがのっそりと立ち上がり、発言の許可を求めた。正直、僕はもう疲れていた。今の空気のままやり取りをするのは気が進まなかったのだが、彼の発言を許さないわけにはいかない。なるべく鷹揚に見えるよう、笑顔でうなずいた。
カースィム・カウチン・ベグは僕に常に侍っている従者のサンガクの叔父だ。カウチン族の本家を束ねており、まだ若年のうちから僕のお父様に仕え続けてきた。凍ったアリス川を渡ってウズベクの背後から襲い掛かった奇襲戦にも参加しており、腹心中の腹心の一人であるはずだった。
しかし、必ずしもその忠誠が僕にも向けられるとは限らない。ベグ達は誰しもが自らの家族や領地の繁栄を第一に考えるものだし、僕に仕えることがその助けにならないと判断したのならば、よその王と結びつくことも考えに入れねばならなくなるだろう。ちょうど、ハサンがその考えに辿り着いたように。
彼が何を言うかはわからなかったが、半ばどうでもよいと諦める気分だった。この期に及んで建設的な意見を言われるくらいならば、いっそ無茶苦茶な難題を吹っ掛けられる方を期待していたかもしれない。それならば、即座に席を立っても許されるだろう。針のむしろに座らされているこの状況が終わるのならば、安い買い物だ。
そんな覚悟をしてまで彼の発言を待ち構えていたのだったが、あごひげを捻るだけで何も言おうとしない。初めのうちは、弁の立たないのろまなヤツと見くびる空気が部屋を支配していた。彼は文盲であることで有名であり、ならば同時に教養もない、粗野な人物であろうとも思われていた。僕もこの時はそう思っていた。
しかし、しゃべらない。ひょろりと高い背を軽く曲げて、僕の目をじっと覗き込んでくるだけだ。僕は少し怪訝な顔をしていたはずだと思う。微かにざわついていた部屋が、やがて息をのむような静寂に包まれ、いつしか全ての視線は彼の口元に吸い付けられていた。
「……あ~、喋ってもよろしいか、バーブル様」
挙句に出た言葉に、居合わせた全員の力が一斉に抜けた。
「さっさと言わんかい!何を思って立ち上がったんじゃ!」
即座にハサンの怒号が飛ぶ。少し語気が強すぎはしたものの、思っていることは皆同じだったに違いない。揃ってうなずくばかりだった。
「何がしたいんじゃ、おのれは!我らも暇ではないのだぞ!」
「それでは遠慮なく申し上げますが、この度の戦にて、バーブル様がご活躍なされるだろうと思っている者は、この中に」
カースィムはそこで一旦言葉を区切ると、居並ぶ面々の顔をぐるりと見渡した。見られた方は、僕もそれに含まれるのだけれども、面食らうしかない。静寂の中に、誰かがつばを飲み込む音が響く。
「誰一人として、おりません」
一瞬、ざわりとした後に、再度水を打ったように静まり返る。誰もが呼吸すら忘れる中、ハサンの唸り声だけが徐々に大きくなっていき、やがて火を噴いた。
「遠慮なく言い過ぎじゃろうが!それに、ワシを勝手にお前の意見に賛同する一人に加えるでないわ!」
「それではハサン殿はバーブル様が先陣を切って敵兵を薙ぎ払う様子が目に浮かんでいるとでも?」
「そこまでは言っておらん!しかし、主君のご奮迅をだな、期待せぬはずがな、あるわけが……」
真っ赤な顔をして詰め寄るハサンを、とぼけた顔つきでいなすカースィム。他の面々は口を両手で塞いでことの行く末を見つめている。
「構わない。彼の言ったことは事実だ。なにしろ、他ならぬ僕自身が自分の武勇を信じていない」
カースィムが場をめちゃくちゃにした後だったからだろうか。なんとなく、僕はすんなりと二人の掛け合いに割り込むことができた。
「僕に対して言を控えるような真似をしなくてもよい。先を続けて」
「それでは、遠慮なく……。つまり、お味方でさえそう考えているのならば、敵方となればバーブル様を侮ることは必然。取るに容易いと思って兵を進めてくるはず……」
実際、そう考えているからこそ、アフマド叔父はお父様の訃報を聞くや否や、軍を整えたのだと思われる。僕は渋々うなずきつつ、彼の続きをうながした。
「であるのならば、我らが敵方の目論見以上に武を張ればよいだけの話で、つまり、あー……」
そこで彼は言葉につまり、困ったように額をかいた。
「つまり、バーブル様におかれましては!全てを私に委ねられて、ただ座って眺めておられればよろしい!」
彼はそこで一転、宣言するように声を張った。あっけに取られてうめいている群衆に晴れやかな顔つきを向けている。
「まだ見ぬ軍に腰が引けている者も多少はおりますがな、その分も補って余りあるほどに、私が働きましょう。皆様におかれましては、なんの心配をする必要もございませぬ」
「待て待て!なんじゃ今の言い分は!まるでワシがサマルカンドの軍勢に恐れをなしているとでも言いたげだな!ワシが今までどれほどの死線を越えてきたと思っておる!」
一瞬部屋中が色めき立ったように思えたが、真っ先に食って掛かったのはやはりハサンだった。その顔はすでに真っ赤に染まっている。
「とんでもない!ハサン殿のご活躍を疑うものなど、この場だけではなく我が軍のどこを探しても見つからないでしょう。此度もバーブル様のもとで存分に槍を振るうと思われますが……」
毬のように丸いハサンに勢いよく詰め寄られて、カースィムは縮みあがって弁明を試みている。
「ただ、ここにいる全ての者が、ハサン殿ほど豪勇なわけではありません。あるいは、敵に全力で当たることに対して恐れを抱いている者もいないわけではない……」
額の上あたりを左手で覆ってしまっているので、表情まではうかがい知れないけれども、カースィムはなにやら悲し気な身振りで部屋中を指し示した。とっくに頭に血が上りっぱなしになっているハサンが、今にも噛みつきそうな顔つきでそちらに向き直る。一同は音がしそうなほどギョッとしたようだった。即座にそんなことはないと口々に否定しはじめたのだが、ハサンの雷を止めることは出来なかった。
「よいか!サマルカンドの連中など、モグールにもウズベクにも歯が立たない弱卒どもじゃぞ!?たかが二倍や三倍程度の数で押し寄せてきたところで、なにを恐れる必要があろうか!」
戦場ですら響きわたる、割れ鐘のような大声だった。部屋中どころではない。建物全体が震えるのではないか、とすら思えるくらいにうるさい。
「主君の前で情けない様など見せてみよ!このワシがただではおかんからな!よいか!」
彼が無意識に口にした主君という言葉が示すのは、おそらく僕のことではない。お父様が生きておられた頃は、こうやって彼が配下を叱咤激励して、戦に赴いていたのかもしれない。
つまり、此度のアンディジャーンの防衛戦、僕はその開戦の準備ですらお父様のご威光なくばとても立ち行かなかったのだろうと思われる。自力で成し遂げたとはとても言い難かった。そして僕にとってはいつものことなのだけれども、このような考えに至ったのは後日のことである。事態に直面していた時の僕と言えば、なにが起きようとしているのかわからずに、ただオロオロと戸惑うばかりであった。
ただ、カースィム・ベグが僕のために一肌脱いでくれたのだろうということだけは、なんとなく察していたので、「ありがとう」と一言だけ礼を言ったところ、「なんのことでございましょうか」ととぼけられてしまった。
彼は、いつもそんな感じである。




