表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
亡国の王子と動乱のサマルカンド ~異聞バーブル・ナーマ~  作者: はぶ川
亡国の王子と動乱のサマルカンド アンディジャーン防衛死守
1/42

1-1


899年(1493年10月12日ー94年10月2日)の出来事



 仰向けになって、青空を眺めていた。背中に柔らかな草を感じる。はるか高いところでは鷹が円を描いていて、それよりもっと高いところでは、刷毛で漉いたような雲がたなびいている。牧草の良い匂いのする風が、滑らかに渡ってくる。


 そのままの姿勢で、顔だけを左に倒すと、一頭の馬が一心に草を食んでいるのが目に入る。そいつこそが、僕をここに叩きつけた張本人だ。実を言うと、僕はそのことにあまり腹を立てていない。馬ってやつは、乗り手を振り落とすまでは死に物狂いで暴れまわるんだけど、いざ落っことしてしまったとたんに心細くなって反省するものだと知っていたし、何より落っこちた体勢が思いのほか悪くなかった。だから、しばらく前からこうやって空を眺めてばかりいるのだ。

 けれども、彼の方はそうは考えていないみたいで、時折り様子をうかがうような視線を投げかけはするものの、けして自分からは近づいてこようとはしない。でもまぁ、いいさ。どのみち一人で遠くまで逃げたりするようなやつじゃないはずだ。

 再び顔を戻して、今度は目をつむる。茎の隙間から差し込んだ光が顔に当たる。その緑は瞼越しの僕の視界を染め上げ、なんだか僕ははるか空の上からこの草原を見下ろしているような気分になった。


 僕の名前は、バーブル。十二歳になる。

 この草原の、フェルガーナという名前の地方なんだけれども、そこの王子だ。


 最初にフェルガーナの話をしよう。南北と、東方と、それぞれ違った山脈に囲まれた、とても標高の高い土地の地方だ。

 空気は乾燥していて、冬はとても寒い。山脈はそれぞれ氷河をその懐に抱くほどに雄大で、豊富な雪解け水がこの草原を潤してくれる。いくつもの清流が山麓に谷をつくり、様々な少数民族がそこに暮らしている。彼らは夏の間は山麓から降りてきて、草原で羊を太らせる。完全に住居を持たない遊牧民族も数多くいる。フェルガーナの草原は世界でも稀な放牧地であり、古代には天馬が住む土地とまで言われていた。

 平野のまんなかに流れ落ちた小川は、シル川という名前の大河に姿を変えて、はるかな西へととうとうと流れ続ける。この地方では、サイフーン川という名前で呼ばれている。この川に沿って、人々は農地を拓いている。土地は肥えていて、あらゆる穀物と果樹、様々な作物が豊富に収穫される。

 この地方の立派な街というのも、このサイフーン川かその支流沿いに造られている。僕の住むアンディジャーンという街はその中で最も大きい。この地方の首都でもある。


 つまり、僕の身分はちょっとばかり高い。本当はこんなところを一人でうろついてちゃいけないんだけれども、今はちょっとばかりお城で嫌なことがあったので、つい逃げ出して来てしまっている。

 そのことが原因で、馬にも辛く当たってしまったような気がする。彼が暴れたのはそのせいもあるのだろう。けして普段からあのようなことをするやつではない。

 しかし、草原の空気を吸ったおかげで、少しだけ気分は晴れた。そろそろ戻ってもいい頃だろう。そう思った僕は弾みをつけて立ち上がると、飽きもせずにぼりぼりと草をかじり続けている彼に向って近づいて行った。軽く抗議をするようにいなないたものの、それまでに十分に落ち着いたらしく、拒否はされなかった。首筋を軽くたたいてやって、たてがみに顔をうずめる。少し蒸れた、汗のにおい。嫌ではない。むしろ、気に入っている。香ばしくていいにおいだとすら感じている。

 その背にまたがると、首を大きく巡らせ、軽く脚を使う。彼も家に帰りたい頃合いだったのだろう。歩度は進むにつれて大きくなって、しまいには駆け足になった。僕もそれをとどめずに、風にうねる草原めがけて一気に丘を駆け降りていった。


 このフェルガーナは、今は僕の父であるウマル・シャイフ・ミールザーの手によって治められている。父はその地位を、既に亡くなってしまって久しいのだが、僕のおじい様であるアブー・サイード・ミールザーに与えられた。アブー・サイードおじい様は、ある意味では帝国の最後の主だった。その帝国は、百年以上も昔に、かのティムール閣下が築き上げられた大帝国で、世界のほとんど全てがその中に入ってしまう、とほうもない大きさのものだった。ティムール閣下がお亡くなりになった直後からいくつにも分かれ、その大部分は失われてしまっていたけれども、それでもそのうちのいくらかは、その子孫に受け継がれていた。その末裔の一人が、僕だ。

 おじい様であるアブー・サイードが亡くなった後に、僕の叔父でありアブー・サイードの長男であったアフマド・ミールザーにその地位は受け継がれたのだけれども、その弟たち、つまり僕のお父様とその兄弟たちは、それに大人しく従うほど素直ではなかった。アフマド・ミールザーの弟たちは影に表にその長兄に逆らい、戦争と同盟と停戦合意を繰り返していた。そして弟たち同士でも手を組んだり反目し合ったりしていて、時に激しく、時に水面下で、敵も味方も入り混じりながら争いを続けていて、むしろその状態が日常となってしまって久しかった。ただ、少なくとも僕の目の前では戦争が起こったことはなかった。フェルガーナは、アンディジャーンは、平和な土地だったのだ。



 アンディジャーンの街が見える頃、あちらの方からおーいおーいと二人の騎馬が駆け寄ってくるのが目に入った。小姓のハージーとサンガクだ。小柄な方がハージーで、身の回りの世話をしてくれている。背の高い方がサンガクで、僕の護衛ということになっている。ほっそりとしていて、あまり強そうな外見ではない。


「何をやってるんですか、一体!一言も残さずに姿をくらますなんて!」


 目の前に馬を止めるや否や、ハージーが僕を責め立てる。普段から熱心に働くよい小姓なのだが、ただ仕事熱心なあまり小言も少し多い。たまに彼の目の届かないところに行きたくなるのは、意地悪をしたいからってわけじゃないはずだ。


「悪かったって……。何か言っとこうとは思ったんだけどさ、どこにも姿が見当たらなかったじゃないか。君たち」


「なんですって!?それじゃあ私たちが悪いとでも仰りたいのですか!大体その時に用事を申し付けられたのはバーブル様の方じゃあないですか!」


「君の通りだったよ、悪かった……。次からは絶対に声をかけて行くようにするからさ、今回はそれでいいかな」


「たまにお一人になりたい気持ちがわからないとはいいません。ただ、何もおっしゃらずに姿をくらまされると、残された方は大慌てで心配しなければならないんですから。せめて私たちにだけは一言おっしゃってください」


 でも、そうしたら絶対についてくるって言うだろう君たち、だからこっそりと出かけることにしたんだよ、なんて、口が裂けても言えない。このセリフはいつか、彼の小言のトーンがどこまで上げられるのか試したくなった時のために取っておこう、なんて思ってる。

 その間も、背の高いサンガクは黙ったままだ。本来なら護衛の彼の方が慌てふためかなきゃいけない場面なような気もするけど、お構いなし。じいっと僕の方を見つめてたかと思うと、ついと近寄ってきて「落馬しました?」と一言、僕の耳にだけ届くように囁きかけた。

 ハッとなって、慌てて彼を睨みつけた時には、既にいつもの無表情だった。特にからかう意図などなかったのだと思う。ただ、確認のためだけに聞いた、そんな感じだった。


 およそ小姓らしくない態度のサンガクだが、そもそも彼の属している一族からして小姓に相応しい家柄ではない。代々武家を任じてきた一族であるし、彼の叔父であり現当主のカースィム・ベグなど、僕の父の側近ですらあるのだ。にも関わらず現在彼が僕の小姓の地位に甘んじているのには、何か理由があるとのことだったが、生憎彼は何も教えてくれない。秘密にしなければいけない何かがある、といった感じではなさそうだ。ただ単に極端に無口な男なのだ。



 アンディジャーンは三つの城門を備えた壁に囲まれており、そこに三本の街道が通じている。用水路も九つ備えていて、それらは郊外で畑や果樹園を潤した後、城壁にある水門を通り、バザール通りや住宅地を突き抜け、最後は内城の濠に流れ落ちる。僕たちは、三人くつわを揃えて街道を下った。

 人通りはけして少なくない。仕事終わりの農夫や職人だったり、他の街から到着したばかりの行商人だったり。遍歴のダルビッシュは難しい顔をして、主君の命を受けたムハッスィルは馬をとばして、今日は見ることはできなかったけれど、キャラバンだって時々訪れる。西に向かえば数日の距離でサマルカンドに辿り着くし、東に行けばパミール高原を越える必要はあるけど、中国にだって行くことができる。その中に混じって、王子の一行というのは割と目立つ方だと思うのだけれども、特に誰が騒ぐわけでもない。よそから来た人はそういう風習なのだなと納得するだろうし、地元の人たちは見慣れている。気付いた時に遠くから頭を下げて挨拶するくらいだった。


 城壁の外側は、のどかな田園風景だ。よく手入れされた畑や果樹園が、サイフーン 川の続く限りに緑の帯を伸ばしている。かつてティムール閣下がサマルカンドからブハーラーに続く広大な農地を、お気に入りの自分の庭園と呼んでいらっしゃったというけど、それならば、アンディジャーンだって負けてない。僕のお気に入りの庭園だ。

 道沿いにはメロン畑が広がっている。アンディジャーンは果物も有名な土地であり、優れたメロンを幾種類も産出する。畑は青々と茂り、今年も豊かな実りをもたらしてくれるものだと期待してる。僕はメロンこそがこの世で一番尊い果物だと確信しているし、本当に幸運なことに、この地方は方々でさまざまな品種のメロンを収穫できる。このような土地に生を受けたことを、深く神に感謝せざるを得ないところではあるのだけど、あえて一つだけ不満に思うところを挙げるのならば、アンディジャーンでは畑で採れたてのメロンを購うことができないのである。収穫したものは、全て街のバザールに送られてしまうのだが、これは多分買い付けている商人が力を持っていることの現れなのかもしれないけれども、少しいただけない。


 いずれ僕が領地を差配するようになった時には、僕の食卓に直接に、採れたてのメロンが乗るようにしたいものだ。そんなことを考えながら、僕は三つある城門のうちの一つに、馬を乗り入れるのだった。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ