4、ジョージアの夜 灯は消えて
そうか、これが悲劇の発端なんだと、留衣は今しがた起きた出来事が身内に大きな波立ちを生じさせたのを感じながら思った。
傍観者、傍観者、と心の中で呟いて自分を宥め、横目でボビーの様子を窺った。
ボビーは怒りの熱と酒の酔いを冷ますためか親父に水を1杯所望し、それを一気に飲み干すと、留衣にも聞こえるほどの大きな溜息をついた。
数分間がたちいくらか自制心を取り戻したのか、ボビーは椅子から降りると、店主に勘定とあいさつをして店を出た。
ボビーが店を出て1,2分して、ジリジリとした気持ちでタイミングを計った留衣が後に続いた。
駐車場に行くのかと思ったが、ボビーは車を置いたまま歩いて行った。おそらく自宅へ。留衣はその後を尾行するように追った。
居酒屋の店内も大して涼しくなかったが、外の空気はじっとりと熱気を肌に押し付けてきた。それがこの世界に来ていることの実感のようで、留衣はさほど不快に感じなかった。
ボビーの自宅は町の周縁部にあるようで森や茂みが多く、夏の暑気に解放されて木々が闇の中で宴を催しているように感じられた。
闇に息を潜め蠢くものは、静寂の支配下にあった。
ほどなくボビーは家に到着し、鍵を開けて中に入った。曲によれば、彼は再び外に出てくるはずだ。銃を手にして。
留衣は闇を自分を保護してくれる同志のように思いながら、蒸し暑さの中で全身に身震いを感じて待った。
ほんの10分ほどして、ボビーは出てきた。その短い間に彼は人生をかけた決断をし、父親の形見の銃に彼の究極の決意を託していた。
ボビーは、覚悟を決めた者の迷いない速足で向かって行った。アンディの家へと。
闇の中で彼の顔は見えなかったが、おそらく目には怒りの炎を宿しているのだろうと、留衣は推測した。
辺りは薄暗いので、ボビーの姿を見失わないよう留衣は歩調を速め、足音が聞こえるくらい接近した。
居酒屋にいる時からボビーは留衣の方を全く見ることがなく、その存在を意識していなかった。
もしかすると、と留衣は考えた。曲の世界の主人公にはトリッパーの存在が認識されないよう設定してあるのではないだろうか。トリッパーが主人公に干渉して曲の内容を変えるのを防ぐため、その措置は合理的だ。
その可能性は充分ありうるが、そうでない場合を想定して、必要以上に近付くことは控えた。とにかく、平常心を失った今のボビーの頭の中から、目的以外の物事がシャットアウトされているのは確かなようだった。
暗い森の中を通り抜ける時、この野生の気配に満ちた場所でボビーは完全に獣へと変身を遂げるのだろうと、留衣は想像した。
森を抜けた先に、灯りの灯った家が見えた。その灯りこそ、怒りを込めた銃口が向けられるターゲットなのだ。
留衣は石につまずいて思わず「あっ!」と声を上げ、次の瞬間「しまった、気付かれる」と青ざめたが、ボビーは気付かなかったのか目的の家に向かって前進して行った。
「あの野郎」という呪詛の声が留衣の耳を弾丸のようにかすめた。自分の家を出て以来、初めて発する声だった。留衣は心の中で「やめてくれ!」と叫んだが、惨劇へとなだれ込んでいく曲の流れに逆らうことは不可能だと覚悟した。
次の瞬間、留衣が耳にしたのは、ボビーの叫び声だった。それは、惨劇の現場を目撃した者が発する、驚愕と恐怖の音調を孕んだ叫びだった。
留衣は何が起きたのか半ば知っていたが、恐る恐る叫び声の主の方を見た。
ボビーは、裏口のドアから一歩庭に入ったところで立ち尽くしていた。そこから明かりのついた部屋の中がスクリーン越しに見えた。そして部屋の中には人が横たわっており、その人物が息絶えていることは、そこにできた血の海から一目瞭然だった。
「ア、アンディ……」
友人の死体を目の当たりにして、理性を曇らせていた怒りが取り払われたかのように、ボビーは友人の名を呟いた。
その時、幸か不幸か巡回中のパトロールカーがたまたま通りかかった。ボビーはこの非常事態に実直な市民としての本能が目覚めたのか、自分が銃を手にしている理由を忘れて、パトロールカーに通報すべく空に向けて銃を発射した。
それがボビーを破滅させる行為であることをボビー本人より知悉している留衣は、身動きもできず、喉から「な、なんてことを」という呻き声を出すのみだった。
駆け付けた腹の出た老練なシェリフは、銃を手に棒立ちしているボビーと部屋に横たわった血まみれの体を交互に見て、すぐさま事態を察し、結論付けた。
「何でこんなことをしたんだ!」
シェリフは叱責するように言い、「来い」とボビーを引き立てて、パトカーへ向かった。パトカーの無線で事件が起きたことや場所など必要な情報を連絡すると、署に向けて発車した。
ボビーは「俺じゃないんです。来たらすでに倒れていて」と弁解したが、シェリフは高圧的に「話は署で聞こう」と遮った。
ボビーはすでに観念したような面持ちで、大人しくシェリフに従っていった。
留衣は木陰に身を隠すようにして一部始終を見ていたが、パトカーが走り去ると誰にともなく「違う、彼が撃ったんじゃない」と訴えかけるように呟いた。
ボビーはこのままなしくずしに絞首台行きになるのかと、留衣はやり切れない思いで胸が痛んだ。
留衣は灯りに照らされた惨劇の現場に目をやり、現実では決してやらない行動をとった。すなわち、そこへ入っていったのだ。テラスに面したガラス戸の鍵は開いていて、彼は部屋の中に入ることができた。
「これはバーチャルリアリティーなのだから」
と留衣は、心の中のひるむ部分を鼓舞した。
しかし部屋に横たわったまま永遠に動かないアンディの体を見ると、見てはいけないものを見たような総毛立つ思いがした。
それでも反発する気持ちを押しやってアンディの顔に目をやった時、留衣はその形相のすごさに身震いした。
アンディは一体、最後に何を見たのか。それは驚きと恐怖で凝固した形相だった。
留衣は殺害された人間の死に顔を初めて見たが、心に取りついてずっと悪夢となって残るほど、強烈なインパクトがあった。
恐怖があるのはもちろんだったが、驚きはそれが相手(殺害者)が意外な人物だということ表わしている。
ということは……。
シェフの連絡を受けて、警察の捜査班が駆け付けるだろう。そして、アンディの遺体を運び去るだろう。もうあまり時間の猶予がない。
その焦りに押されて、留衣はもう一度アンディの遺体を見た。何か真犯人の手掛かりが見つかって、それが哀れなボビーの命を救うことになるのではという淡い期待があった。
しかしむせるような血の臭いに吐き気を催し、それに加えて、殺された死体という日常感覚が拒否する物の醜怪さが留衣を追い詰めた。
もうここにいられないと立ち去ろうとした時、血の臭いをかき分けるように、この場の光景にふさわしくない香りが嗅覚に伝わった。
留衣はとっさに「香水?」と思いついたが、アンディがつけていたものより甘く女性的だった。
留衣の頭に、稲妻のように歌詞の一部が閃いた。
「アンディの足跡にしては小さい」
それは、ボビーがアンディの家に行く途中で見つけた足跡だった。女性用の香水と、小さい足跡……では、犯人は女?
その時、香水の匂いが濃密になり、ほとんど嗅覚を占領した。驚いて振り向くと、そこに一人の女が立っていた。その手には、銃が握られていた。
「だ、誰!?」
卒倒しそうになりながら、留衣は叫んだ。
女は赤っぽい色の髪を無造作に肩まで伸ばし、小柄でまだあどけなさの残る顔は二十歳をようやく超えたばかりに見えた。
しかし銃を手にした姿は、獰猛な獣を思わせる迫力があった。
「あんたこそ、誰!?」と女は切り返してきた。
「僕は日本人の大学生で、夏休みを利用して旅行中で」
と留衣は必死に自己紹介めいたことを口にした。
「何でここにいるのよ」
咎めるような口調で女は言った。
「通りかかったら、銃声が聞こえたので、つい」
留衣を無害な人物と判断したのか、女は少し声を和らげた。
「すぐ警察が来るわ。早くここを出た方が身のためよ」
留衣も面倒なことに巻き込まれたくないので、そうするつもりだった。しかしこの女の正体が気になる。
「あの、何も首を突っ込みませんけど、お名前だけ聞かせてもらえます?」
女はふっと鼻で笑い、目にあざけりの色を浮かべた。
「聞いてどうするの。まあ、何かの縁だしこれっきりだから、教えてあげる。デビーよ。ついでに、さっきシェリフにしょっ引かれたのは兄。この男を撃ったのは、この銃よ」
突然の自白に、留衣は衝撃を受けた。
そうか、ボビーの妹だったのかと、歌詞を最後までちゃんと見ていなかった留衣は、思わぬ真相に打ちのめされた。
「兄に濡れ衣を着せるつもりはなかったの。憎いのはあの女、ベスとアンディ。ベスはこの銃で制裁を与えた。そして、誰にも見つからない場所に埋めたわ」
そう言って、デビーは留衣が銃の的となる恰好の位置に立っているかのように、きっと睨んだ。
「さあ、とっとと消えなさい!」
留衣は混乱する頭で緊急ボタンのことを思い出した。押さなくてはと左手でまさぐったが、見つからない。
早くここから立ち去らなくてはと留衣が焦りでクラクラめまいを起こすと、世界が反転して入れ替わった。