3、居酒屋Web's(ウェッブス)
肌にねっとりとまとわりつくような生暖かい空気を感じて、留衣は別世界に来たことを実感した。
正しくは、アメリカ南部ジョージア州の……、とそこで留衣は旅番組のリポーターになった気分で、周囲を見回した。
地の果てまで広がるような闇の中に灯りはほとんどなく、留衣が立っている道が唯一通行できるもので、それは彼方から、少し離れた町と思われる灯りが密集した場所に続いていた。
道の両側には、畑や森がほぼ闇と同化して存在していた。留衣にもなじみのある甘みを含んだ穀物の香りが、畑から夜気に乗って運ばれてくる。
それはトウモロコシだった。南部にはトウモロコシ畑が多いらしいが、日本人にも身近な食物であるそれは、ここ南部ではグリッツという耳慣れない名前の名産物になっている。トウモロコシを挽いた粉から作るおかゆということだが、それを南部では主食として朝などに食べる。
トウモロコシから作ったおかゆと聞くと、あまり食指が動かない。夏祭りに屋台で売られる焼きとうもろこしのほうがよほどおいしいだろうと、留衣は思った。
周囲は闇ということは、夜なのか。それも大気に生ぬるい湿気がじっとり染み渡っているこの感触からすると、夏なのだろう。じっとり肌に貼りつく不快な蒸し暑さなのだが、留衣はかみしめるようにその感触に浸っていた。
すごい、すごいや!
トウモロコシの匂いも、夜空の降り注ぐような星々も、すべてがリアルだった。
しかし、ずっとここに立っているわけにはいかない。時間は限られている。
今留衣が立っている道は、紛れもなく町へ続いている。とりあえず街を目指して歩くことにして少し進んだ時、前方の道の脇に、ポツンと一軒の灯りがあることに気付いた。
近付くとそれは民家ではなく、道路を通る人々を誘い込むよう目立つ看板を掲げた居酒屋だった。
看板には「Web's」と書かれていた。
と、その時、車も人も通らなかった道に留衣の背後から一台の車が現れ、のんびりした田舎の夜には似つかわしくないスピードで彼を追い越していった。
それは、絵画に描かれた1本の誰もいない道に、突如車が出現したような驚きを彼に与えた。それはまた、この世界に来て最初の人間の気配でもあった。
不意打ちを食らったように茫然として留衣は一瞬足を止めたが、その彼の脳裏に曲の歌詞が浮かんだ。
「彼はキャンドルトップから家に帰るところだった
二週間留守にしていた
彼女が待つ家に帰る前に
Web'sで一杯飲んでいこうと思った」
曲の出だしは比較的はっきり覚えていた。ここは「ジョージアの灯は消えて」の曲の世界なのだから、主人公というべき「彼」が登場するのは当たり前だった。
その考えが正しいことを証明するように、留衣を追い越した車は居酒屋の所で停止し、駐車場に車を入れた。
と見る間に中から男が現れ、まるで自分の家に入るような足取りで居酒屋の中に入っていった。留衣はほとんど駆け足になって居酒屋に到着し、呼吸を整えてから店のドアを開けた。
さほど広くない店内はジャズが遠慮がちに流れ、一時の安らぎを求めてやってきた数人の客が、酒を飲んだり会話をしたりしていた。
娯楽の乏しい田舎町では、こんな町はずれの居酒屋でもそこそこ繁盛しているようだと、留衣は思った。
さっきの男はと店内を見回すと、カウンターの台に帽子をとって置いたばかりと思われる人物に、店主が声をかけた。
「よお、ボビー、久しぶりだな」
ボビーと呼ばれたその男は、抑揚のない淡々とした声で答えた。
「ああ、しばらく家を空けてたんだ」
「アンディが来てるぞ」
という店主の言葉にふと視線を動かすと、店の片隅からボビーと同じ年頃の男が近寄ってきて「やあ」と言いつつ、ボビーの隣に腰を下ろした。
留衣は怪しまれないよう少し離れた席に座っていたが、バーチャルトリップである都合上、単に見知らぬ土地に来たという以上の違和感が心身にまとわりついていて、この世界に完全に実体化できていなくて透明人間のような存在に自分がなっているのではと不安になった。
が、店主の「お客さん、注文は」という声が自分に向けられたと気付いて、その心配は消えた。
とりあえずウイスキーの水割りを注文したが、店主が怪訝な表情をしてじっと見ているので、もしかすると未成年かと疑っているのではと、留衣は冷や汗をかいた。一応二十歳にはなっているが、バーチャルトリップの世界で年齢制限の問題が起こることまで予想していなかった。
「お客さん、初めて?」
店主の問いに、留衣はそういうことかとほっとし、そっちの方がよほどありうると納得した。
「はい、夏休みを利用して旅行してます」
「へえ、そうなの」
店主はまだ何か訊こうとしたが、別の客が店に入ってきたので、その方に意識を向けた。
これじゃ透明人間のほうがよかったかなと留衣は複雑な気持ちになったが、それより本来の目的、と思い直して、ボビーたちのほうに心持ち顔を向けて耳をそばだてた。
幸い彼らは留衣の存在が眼中にないらしく、留衣は人によって自分の姿が見えたり見えなかったりするのではないかというおかしな考えが頭に浮かんだ。
「元気か?」と、アンディという男がボビーに訊いた。
その質問には、しばらく顔を見なかったがという意味が含まれていた。
「元気だ。キャンドルトップに仕事の用事で行っていた」
二人はカウンターに置かれた酒を暑さに乾いた喉を潤すように飲み、仕事や近況の話を抑えた声音で語っていたが、ボビーがやや声のトーンを上げて友人に尋ねた。
「ところで、最近デビーに会ったか」
デビーとは、ボビーの妹のことだった。同じ町で両親と同居しているが、父親の方は去年他界した。
「あ、う、うん、先週家に来た」
アンディは、急に舌がもつれたように歯切れが悪くなった。その顔に、心の窺い知れない深部から飛び出したような影がよぎったことに、ボビーは気付かなかった。
「あいつ、お前に夢中らしくて、この前の誕生日にプレゼントされた香水を、いつも自慢そうにつけてるんだ」
アンディは後ろ暗い影をそっと心の中にしまい込んで、つとめて明るい表情をして見せた。
「そうなんだ、それは光栄だな」
「シャネルの有名な香水なんだろ」
「そう、シャネルの5番」
「けっこう香りがきついよな、あれ」
「ローズとかジャスミンとかじゃ香とか入ってるらしくて、女性らしい香りなんだ」
「ふうん……、女性らしい香りね。デビーは男勝りな面があるから、少しでも女性らしくなるのはいいんだがね」
「ふふ……」とアンディは小さく笑った。ボビーの発言が、亡くなった父親の娘を案じる親心を継承しているようで微笑ましかったからだ。
「親父は狩猟が趣味で銃も何本か持っていたけど、デビーはその血を引いたのか、生前親父について行って森で鳥なんかを銃で撃ってたんだ。あんな小娘のくせして」
「いいじゃないか。野性的なのと女性らしさは両立するだろ」
そうデビーをかばうようなことを言ったアンディの顔を、ボビーはグラスを台に置いてまっすぐ見た。
「アンディ、お前、デビーの気持ちに応えられるのか」
アンディは突然拳銃を向けられたように青ざめて、全身を硬直させた。
「そ、それは……」
その時、アンディに助け舟を出す意図はなかったが、店主が揚げたてのポテトを盛った皿をカウンター越しに差し出した。
「こいつは俺のサービスだ。酒のつまみにしてくれ」
と言って、まず一番近くの席の留衣に皿を手渡した。
「好きなだけ取ったら、横の人に渡してくれ」
そう言われて、ポテトを後から渡された小皿にとって、留衣は椅子一つ置いてカウンターに並んでいるアンディに「どうぞ」と声をかけて、ポテトの皿を受け渡した。
アンディはほっとしたような表情を見せて、留衣の顔は見ずに「ありがとう」と皿を受け取った。
その瞬間に斜め横顔を一瞥した印象では、アンディは端正な顔立ちの好青年で、しかも香水をつけているのかいい匂いがした。かと言って自信たっぷりの気障な女たらし風ではなく、実直で気弱な優男といった感じだった。
一方のボビーはこれといって特徴のないごく平凡な青年で、この男が曲の悲劇の主人公だということに、留衣はある種の戸惑いを覚えた。
揚げたての熱々のポテトを一口食べると、ボビーはもう一度さっきの問いを突きつけた。
「どうなんだ?」
アンディは窮地に陥ったように言葉を詰まらせ、苦し紛れに無謀な話の切り替えを行った。
「ボビー、お前の嫁のべスのことなんだけど」
その口調から、ボビーは話の流れが悪い方向に向かっていることを悟った。
「ベスがどうしたって!?」
半ば威嚇するような調子でボビーは言った。彼は以前からアンディが自分の妻に思いを寄せていることを勘付いていた。
「あの……彼女、今夜家にいないと思う」
「何だって!?」
「お前が出かけてから、彼女が他の男といるのを見かけたって、誰かが言ってた」
その途端、ボビーの顔はみるみる怒りで赤くなり、押し殺した脅迫めいた声で言った。
「誰なんだ、そいつは」
大声で怒鳴るのではなく地を這うような低い声だったが、そこには煮えくり返るような怒りがこもっていることが留衣にも感じとれた。
一見没個性で穏やかそうにも見えるボビーの急速な怒りの沸騰に留衣は戦慄をおぼえ、狼男への変身をイメージした。
ただでさえ気の弱そうなアンディは、完全に縮みあがって声が震えた。
「ま、まあ落ち着いてくれ、ボビー」
そしてアンディは冷静な判断力を失ったのか、致命的な告白をした。
「実は、ベスと一緒にいたのは俺なんだ」
告白することで罪が軽くなるとでも思ったのか、アンディは頭を下げて謝罪の意思を示した。
しかし、それはボビーの怒りに油を注ぐことにしかならず、ボビーはつかみかからんばかりの勢いで「何だって!」と押し殺した声で叫んだ。
アンディは全身が恐怖で震え、この場から逃げ出すしかないと本能的に考えて「親父、勘定!」と悲鳴のように言うと釣り銭も受け取らずに足早に店を出て行った。