2、トリップルーム
ヒット曲の世界をバーチャルリアリティーで体験できる「ヒット曲ライブラリー」は、約一か月後にオープンする予定の施設だった。
洋楽マニアを自認する留衣は、特に70年代のヒット曲が好きで、自分が生まれる前の曲たちに敬意と親しみの両方を感じていた。
そんな大好きな曲の世界に浸れるというモニターなら只でも歓迎するのに、さらに普通の大学生のアルバイトよりかなり高額の報酬が提供された。高額の報酬ということに伴うリスクはもちろん彼も覚悟していたが、不安より期待感のほうが大きく上回り、浮足立つ気分だった。
しかし、貴流のインターホンに向かって「来ました」という声に応えて、「トリップルーム」のドアの鍵が内側から開けられた時、予感とも悪寒ともつかない空気の流れが留衣を出迎え、彼の心に潜む不安を目覚めさせた。
部屋の中は薄暗く、最初、ドアを開けた人物の姿を判別できなかった。その人物は、ツアーコンダクターのイメージだという黒っぽいスーツを着た40代前半の男で、影下と名乗った。
部屋は一見ガランとして物よりも空間の割合の方が大きかったが、唯一中央に設置された物体が、一気に留衣の視界を占領するように飛び込んだ。
それは透明のガラスに囲まれた、一人乗りのエレベーターのような装置だった。ガラスの内側には革張りの黒く大きな椅子が置かれ、そこに座る者を待ち受けていた。
留衣はその椅子が待っているのが外ならぬ自分自身だと確信すると、期待から押し寄せる武者震いをした。
「君が白森留衣君だね。もう必要な検査は済ませたね」
準備室で脳波や血圧、脈拍、体温測定などの検査を留衣はしていた。何だかこれから手術を受けるみたいだと、彼は思った。そんな留衣のやや緊張した様子を見て、影下は安心させるように言った。
「別に生体実験じゃなくて娯楽なんだから、気楽にね」
エレベーターに似た装置は、打ち上げを間近に控えた宇宙船のように、ピンと張り詰めた空気を漂わせていた。
部屋の隅にはガラス張りの制御室のような一画があり、2人のスタッフが機材に向かっていた。
「貴流君から大体話は聞いただろうけど、出発の前に少し説明しておくね」
影下の言葉に、留衣は教官が与える注意点を聞くように傾聴した。
「ヒット曲の世界へのバーチャルトリップの特徴は、これまで視覚と聴覚がメインだったバーチャルリアリティーを、五感すべてで体験するということなんだ。五感はわかるね?」
「はい。視覚、聴覚、触覚、嗅覚、それに味覚です」
「その通り。その中で我々が最も力を注いだのが嗅覚だ。香り付きのバーチャルリアリティーはすでにあるけれど、限定されている。それをこのトリップでは、現実世界とほぼ同じに体感できる。味覚はまだ研究途上だけど、嗅覚に付随するから完成するのもそう遠くないだろう。触覚も完全ではないが、かなり現実に近い」
「はあ……」と留衣は感心して絶句した。
横で貴流がしたり顔で口をはさんだ。
「な、すごいだろ。まさに時間旅行ならぬ異世界旅行なんだ。「ストロベリーフィールズフォーエバー」じゃ、オープニングにイチゴの甘酸っぱい匂いが広がって、本当にイチゴ畑にいると錯覚したね」
それを想像した留衣は、太陽の光が夢魔を追い払うように不安が消滅するのを感じた。
「さあ、そんな素敵なトリップに君はこれから出かけるわけだが、その前に注意事項をおさらいしておこう。バーチャル世界の中で、君は基本的に何をしてもいい。自由に行動できるんだが、かといって行動しすぎは良くない。タイムトリップと同じで、あくまで傍観者にとどまるように。曲の世界を変えるような言動は慎んでくれ。わかったね?」
「はい。世界をどのくらいリアルに体感できるのか、試してみるのが目的です。それ以上の出すぎた真似はしません」
そう宣言した時、意識下で「無実の罪」「絞首刑」「ゴシック」という言葉の寒気を催す感触が、消化されない食物のように逆流したことに留衣は気付かなかった。
「よろしい。ではトリップ装置に入ってもらうよ。トリップの時間は約1時間半で、もし途中で気分が悪くなるなどした場合、椅子の左手の所にある緊急ボタンを押せばすぐに終了する。
あと、何か質問は?」
「特にないです」
留衣はこれから行く世界を良好な状態で堪能すべく、心を白紙に近付けようと無心の境地になっていた。
黒革のマッサージチェアのような大きい椅子に座り、シートベルトで体を固定し、頭にディスプレイ内蔵のゴーグルとヘルメットが一体になったヘッドセットをかぶり、センサー付き手袋をはめた。
装着は一切影下にまかせ、留衣はなすが儘にされていた。透明な「エレベーター」の内部で出発寸前の留衣は、そのエレベーターがSFの転送装置にそっくりだと思った。
もしかすると本当に異世界に転送されるのではないかと、彼はまた不安に起因する震えを感じた。
「では、20秒後にスタートだ」
「カウントダウン? これはまたロケットぽい」と、留衣は不安から立ち直って口元を緩めた。
「Have a nice trip(楽しい旅を)!」
「楽しんで来いよ」
という影下と貴流の言葉が、ヘルメットをかぶった留衣に雰囲気で伝わった。そして「エレベーター」のドアが閉まり、留衣は「ジョージアの灯は消えて」の曲の世界へ旅立った。