蒐集国家コラジス9
ピードにとっての想定外はたったひとつだけだ。
追っ手である3人が3人とも、真剣にピードを追いかけるつもりがなかった。もしもコラジス首都ラッスフェルに虫を放って情報収集ができていたならば、コラジス上層部にまったく危機感がないことを知ることができただろう。長年の平和は――隣国との小競り合いすら起きようのないコラジスにおいて――ピードの想像を遙かに上回る形でコラジス住民の危機感を奪い取っていた。
彼らにとっては、誰とも知れない間諜が逃げ出したことよりも、自分たちの職場に居座る問題児のほうがよほど厄介な存在に映っていたのである。帝国育ちである彼女には理解しがたいことだったが、コラジスに集う変人達はたとえ業務上の命令でも気に入らないことには従わなかったりするし、そもそも上役に対する敬意の念も――ないわけではないが、王や帝に対する絶対的な崇拝とは比べるべくもない。
つまり、見えないところではサボる。
「最高ね……」
右手に焼き串を持ち、左手に果汁を搾ったジュースを持ち、しみじみと呟くナルファ。彼ら3人がルーワンに滞在を始めてから、すでに5日が経過していた。
「ナルファ殿、我々はこうして日々食べ歩きをしているだけでいいのでしょうか?」
もちろん追跡調査である以上、敵を探そうとする男もいる。コムもそうしてナルファに苦言を呈すのだが、もともと剣の腕一本でのし上がってきた純粋な少年だ。傍若無人に振る舞うイルディアスに振り回され、追跡の要であるはずのナルファにはやる気が無い。現状に対する不満はあれど、『目上の人間に対する礼儀を学べ!』と団長に怒られた記憶が、彼に言うべき言葉を飲み込ませていた。
「いいのいいの。こういう任務ではまず町に溶け込むことが大切なのよ」
「そういうものですか」
ナルファは嘘は言っていないが、それは潜入する時の心得であり、もしも父親が娘のこの言葉を聞いたら額に手を当てて天を仰いだだろう。冒険者、レンジャーの心得を継いでいるとはいえ、ナルファの専門は書庫堂管理者だ。そもそも畑違いであるし、自警団長も司書長も成果を期待していない。
ものすごく程度の低い話をすれば、経験を積ませたいのではなく、経験を積ませたという外聞を求めている。事なかれ主義も極まると、なにも起きない前提で行動指針を決め始めるという典型例だった。
もっとも、苦言を呈すコムの両手にも食べ歩き用の串焼きが2本ずつ持たされているのだから、説得力も何もあったものではない。
「私にはそういった知識がないものですから! 頼りになります!」
言われたことを全て信じ込み、キラキラとした瞳でナルファを見つめるコム。口から出任せを言っている自覚のあるナルファは、その瞳から目を逸らし、「ま、まぁね」と呟く。だいぶ面の皮が厚い。
「あ、あとは冒険者ギルドに行くのもいいわね。あいつらは変化に敏感だからね!」
しかし流石に良心が咎めたのか、少しは仕事をしようと右手の人差し指を天に向けて喋るナルファ。相変わらず嘘ではないが正しくもない。冒険者たちは確かに変化に敏感だが、それは他国の間諜も重々承知の上だ。もしも身を潜めるタイプの間諜ならば、できるだけ足跡を残さずにすでに他の町に渡っているはずだ。特に、イルディアス達は初動で完全に遅れている。
「なるほど! 冒険者ギルドですね!」
しかしこの3人組は、一般人の予想を軽々と超えていく。仕事を仕事とも思っておらず、他者の金で豪遊できるならそれはそれで良しとするナルファ。素直すぎて目上の人間にすぐ従っちゃうくせに思ったことが口に出てしまうコム。読書以外の興味がほとんどなく、捜査方針を全て他人任せのイルディアス。常識人がおらず、結果として彼らは名前も顔も知らない相手を追い詰めていた。
どうでもいいが、イルディアスはその頃宿屋で『珍味! ~森の獣の脳と腕~』を読みふけっていた。
「よし、じゃあ行くわよ! こう見えて私、冒険者の資格持ってるんだから!」
「流石ですナルファさん!」
弟ができたみたいで、上の兄弟しかいないナルファは少し感動していた。変人だらけの職場、家に帰れば優秀な兄と比べられる日々。両親からの愛情は十分に受け取って育ったが、兄の自慢話を聞かされる妹の気持ちへの配慮はあまりない。自分の悪口を言われることはないが、それでも無意識に活躍している兄と比べてしまうのはやむを得ないことだった。
それがここには、無条件で自分を信頼し行動を託してくれる部下がいる。ナルファも優秀な人材だが、まだ部下を持ったことはない。それはこのおだてられやすさと扱いやすさをゼルラーズに見抜かれているからなのだが、ナルファがそれに気付くのは当分先のことになりそうだった。
「とつげきー!」
「おー!」
傍目に見れば観光を楽しむ姉弟にしか見えないという、高度な偽装を施しているのだが、すでに下手人はルーワンの町にはいないため、なんの意味も成していなかった。町の住人と観光客達に温かく見守られながら二人は冒険者ギルドを目指す。
「ここが冒険者ギルドです!」
茶色のレンガと木材で建てられた建物を見せ、自慢げな顔をするナルファ。冒険者ギルドは、秘境を数多く有するクジャンダ王国が発祥となる組織だ。【百目の沼地】、【屍の大森林】といった人類未到区域を開拓、開発するために作られた組織。創設者はクジャンダ王国の当時の国王に命じられ、国民が無駄に死ぬことがないよう、未踏破区域に挑む人員を管理するようになった。
現在も、冒険者ギルドの本部はクジャンダ王国の貴族、ギースラー伯爵の領地内に設置され、日夜クジャンダ王国の各秘境を開拓するための人員を輩出、育成し続けている。
そのシステムが他国に評価されたのは、リターンが大きい秘境の開拓ではなく、得が少ない『害獣・魔獣の駆除』、『住人の雑事の解決』という、要は『生活のために働きたいがコネも技術も金もない人間』が、汚れ仕事や命を賭ける仕事を美辞麗句で覆い隠し実行させるという部分だった。
ゆえに実情と違っても、名前は変わらない。冒険なんてしなくても、ここは『冒険者ギルド』なのである。
「すいませーん」
気楽な調子でスイングドアを押し開け、ナルファは中に入っていく。動きやすいようにぴったりとしたズボンを履いているナルファと、制服は目立つという理由で私服で現れたコム。コムは一応護身用に短剣を所持しているが、街中で武器を持ち歩くことができるのは自警団だけだ。冒険者とて、その法律からは逃げられない。
「こんにちは。本日はどういったご用でしょうか?」
受付嬢に向けられた微笑みに笑みを返しながら、ナルファは持ち歩いている冒険者証を取り出す。冒険者たちは厳密な査定と実力によってランク付けがされている。これは秘境に挑む冒険者たちが無為に死ぬことのないように設定された制度だが、クジャンダ王国と他国の冒険者には同じランクでも実力に雲泥の差がある。しのぎを削り合うクジャンダ王国の冒険者と他国のぬるい冒険者の実力差は、同じランクでも実質2ランクほどとみて良い。
まあそれはともかくとして、ナルファのランクの色は赤色。全部で7つあるランク付けのうち、上から4番目。冒険者ギルドがある都市によって評価基準が微妙に異なるのだが、概ね一人前のランクである。ナルファはコラジス大図書館に就職する前、ケインたちと遠出をしてちまちま冒険者ランクを上げていたのである。昔の話だが。
「ナルファ様、初めてお見かけする方ですね。活動拠点をこちらに移されるのですか? 赤ランクの方が来ていただけるのは助かりますが……」
まず冒険者証を見せたナルファに、受付嬢が問いかける。
「あーいや、私の本職は図書館の職員なんだけどさー」
言わなくてもいい情報を口に出し、受付嬢の笑みがナルファにバレない程度に引き攣った。余談だが、コラジスという国において『図書館の職員』は名誉ある高級取りとして人気が高い。見せつけに来たと思われるのも無理はない話である。
調子に乗りまくっているナルファは気付いていないが。
「極秘の調査なんだけど、ラッスフェルから逃げた奴が近くに潜伏してるかもしれないの。なにかここ数日で変わったこととかない?」
「極秘調査……!?」
ではこの二人組が、まことしやかに囁かれるコラジスの影、【禁書部】なのかと冒険者ギルドの受付嬢は盛大な勘違いをした。ちなみに住人に噂される【禁書部】とは、コラジスという国家に不利益な人、物を秘密裏に消し去る闇の組織のことだ。今時、信じている大人はあまりいない。
「ここ最近ですが、西の森が騒がしいようです。いえ、正確に言うならば、静かすぎるといいますか……」
「森、ねぇ」
ナルファが顎に手を当てて考え込む。
「冒険者達も不気味がって近づこうとしません……噂ですが、狩人たちも獣が消えて虫が増えてるとか……」
考え抜いたナルファは、首を横に振った。
「森に潜伏してる可能性は低いわね。街中はどうなの?」
理由はナルファが虫が嫌いだからである。このときナルファが、あの屋敷を粉砕した時に大量の虫たちが出てきたことを思い出せていれば、結果は少し変わったのかもしれないが……直後に意識を失ったうえ、ナルファは嫌いなものの記憶はできるだけ早く忘却するタイプの人物だった。
「街中は、特には……多少肉の物価が上がったくらいでしょうか……」
「獣肉が獲れないから肉の物価が上がる。おかしなところはないわね……」
その異変の元凶は森に居るのだが、ナルファは断固としてその可能性を脳から排除している。言うまでも無く、森にまで行きたくないからである。
「ありがと、何か異変があったら知らせてちょうだい」
くるり、と振り返り去って行くナルファ。その後ろを、目を煌めかせたコムが続いて走っていく。後ろから見えないナルファの表情が、これ以上ないほど緩んでいることに気付く人間はいなかった。
二人が去ってから、受付嬢があることに気付く。
「知らせるって……どうやって……?」
呟きを聞いた冒険者達が、あずかり知らぬと首を一斉に横に振った。