蒐集国家コラジス8
蒐集国家コラジスの首都ラッスフェル。コラジス大図書館を中心に抱えるラッスフェルから、南におよそ二日。宿場町であるルーワンは、ラッスフェルを目指す観光客が泊まる宿屋街だ。商業国家セステルからの物流によって、ラッスフェルに勝るとも劣らない品揃えを持ち、物価が多少ラッスフェルよりも安い。商人も多く滞在しており、ある意味ラッスフェルよりも人の出入りが激しい都市である。
「さて、そろそろいいかな……」
ラッスフェルの地下室から逃げ出した碧色の目を持つ女性ピードは、潜めていた息を吹き返し、行動を開始しようとしていた。逃走した直後こそ追っ手を警戒していた彼女だったが、ここルーワンの町で彼女を探すような様子を見せる者はいなかった。それに彼女が調べたところによると、どうやら自分の存在はルーワンの自警団に伝えられていないようなのだ。確かに目撃情報すらないのだから、探しようがないとは思うのだが。
「ここからは時間勝負ね」
宿の部屋に置いてある壺の中身は、徐々に成長しつつある。だがまだまだ育てる必要があり、そろそろ外に出してタンパク源を摂取させた方が良い。オゥルとの相談の結果、次の潜伏先はここから西にある森に決定した。生態系そのものは豊かではないが、十分以上に獣はいる。狩人や冒険者がたまに手入れに入る程度で人の目もさほどない。
肌に日差しが突き刺さるのを感じながら、ピードは油断せずに必要なものを買い集めていく。今度の潜伏先は森になる。前のように足りなくなった物資を買いに来るにしても、その頻度は減らした方が良い。事前にできるだけ買い込み、長期戦に備える。
「少し遠出をすることになったからね、干し肉を多めにもらえる?」
「へい、毎度!」
少しずつ、少しずつ、店を回り物資を貯めていく。宿に戻ったり、背中の背嚢に詰め込んだりしながら、記憶に残らない程度の量の買い物を進めていくピード。もしも聞き込みをされても、気付かれない程度に済むよう、細心の注意を払う。息を潜めて生きてきたピードにとって、それは難しいことではなかった。
それに、森に行けば多少の飲み水や果実は手に入るはずだ。とはいえ、期待しすぎてもう一度ルーワンに来る事は避けたい。
「……ッ!?」
俯いて歩いていたピードは、視線の先にいる存在を見付けて肩を跳ねさせた。背中まである長い白髪に、この世の全てに興味を失ったかのような澱んだ瞳。いったい何をしているのか、道の真ん中でぼんやりと立ち竦んでいる男。
(なんでお前が、今ここにいる!? “怪童”イルディアス……!)
驚きの声をあげることをこらえた自分を褒めつつ、ピードはゆっくりとイルディアスに向けて歩いていく。もしも追跡してきたのであれば、ここで背を向けて逃げ出すのは下策だ。すでに視界に入ってしまっており、不自然な行為は裏目に出るだろう。なにせこちらは見つからない前提で行動している。もしも見つかってしまえば、痛すぎる腹を探られるに決まっている。
「……」
気付くな、と祈りながらイルディアスの隣をすり抜ける。追跡してきたにしては、町への到着が遅すぎる。もしも、人目を気にせず、脇目も振らずに逃走していれば追いつかれることはなく、行方を眩ませることができた。追っ手をやり過ごそうと長めにルーワンに滞在したのが裏目に出た形だ。
「イルディアス!」
突如聞こえてきた大声に、ピードはびくりと肩をふるわせてそちらを見た。薄い水色の髪を短く切りそろえた女性が、怒りを感じさせる歩調で歩み寄ってきていた。イルディアスは彼女の姿を見た瞬間に表情を笑顔に変える。
「ナルファ! 助かった、本屋ってどっち?」
「お前は! 勝手に! 離れて歩くな!」
目にも止まらぬ早さでナルファの三段蹴りが炸裂し、うめき声をあげながらうずくまるイルディアス。どういった経緯でそうなったかはわからないが、どうやらイルディアスは迷子だったらしい。躊躇いがなさ過ぎる暴力の行使に、ピードは背筋を震わせた。もし見つかればアレが自分に来る。
ピードは自分が使う魔術と、オゥルによって強化された技術には相当の自信がある。だが、本人の戦闘力はさほどではない。純粋に、見つかって敵認定されれば自分の負けだ。
まさかイルディアスとナルファがもうほとんど探す気が無いとはつゆほども思わず、こっそりと距離を取るピード。虫たちを使った情報収集は非常に便利だが、こうして自分が行動している最中は無防備になってしまうので使えないという欠点があった。
(私にぴったりの力だ……裏でコソコソ企むには。表に出るような人間じゃないしね……)
かつての帝国での仕打ちを思い出し、ピードは静かに怒りをたぎらせる。碧色の瞳には憎悪と憤怒、そして隠しきれない自分への侮蔑が覗いていた。
ピードは事の重大さを理解している。自分が行う行為によって、世界が混乱と混沌に陥りかねないことを想定し、理解している。だからこそ止まらないし、止められない。彼女の薄暗い望みは、願ってはいけない夢。
人として欠けさせられた彼女を止めることはできない。たとえオゥルと呼ばれるあの男に、利用させられているだけなのだとしても。彼の想いに、言葉に共感し、自分の道を自分で定めたからこそ。
(だから耐えろ……今、虫を嗾けるのは簡単だ。だけど、それじゃあだめだ。どう足掻いたって私じゃこいつには勝てない……)
何も考えず、彼らの喧騒を観察する。興味深そうに、面白そうに。どこにでもいる物見高い観光客のように。自身の心の奥底にある感情の波を抑え込み、急に騒ぎ出した男女を、薄い興味を持って眺めた。
すぐにナルファが周囲の視線に気付き、頭を下げてイルディアスの首を掴んで引きずっていく。細身とはいえ成人の男性を引きずる膂力には少し驚いたが、幸い疑われることはなかったようだ。何も起きないか、と落胆に見えるため息を吐き出し、ピードは喧噪に背を向ける。
(やり過ごした……とりあえず、早めに逃げるとしよう。今日の夜にでも宿を引き払って、森に向かおう。あの危機感のなさから思えば、偽装は有効に働いているようだし)
自分が施してきた小細工は、危機感を鈍らせるものだ。もしも仕掛けに気付いているのならば、あの二人も悠長に人を探したりせず、この都市の自警団にも情報が伝わっているはずだ。それがないということは、仕掛けはまだバレていない。コラジス上層部は――まだ、事の重大さに気付いていない。
「……よし。とりあえず問題は無い、か」
追っ手を警戒する必要はあるだろうが、必要以上に警戒して行動を制限する必要はない。尾行に注意を払い、目的の森を目指す。
そこに迷いはない。ピードの願いはひとつだけ。
宿に戻り、荷物を詰め直す。買い込んだ食料はほとんどが干し肉だ。塩漬けの干し肉は高価だが、幸い予算はかなりの額をオゥルから受け取っている。それだけ、オゥルがこの計画に期待している成果は大きいはずだ。
首から下げている金属を握りしめる。平坦な鉄の板は、ただひんやりとした感触をピードに返す。自分の始まりであり、消えない傷でもある板を握りしめ、ピードは壺の中で蠢く相棒に、肉と紫の石を放る。すぐに肉を食いちぎる湿った音と、石をかみ砕く破砕音が聞こえ始めた。
「必ず……この世界を……」
ピードの囁きは、どこにも届くことなく消えた。
その日の深夜、ピードはひっそりとルーワンの町を出た。町壁を越えて、西の森を目指す。途中で降り立ったフクロウに、現状の報告を行いながら、壺を抱えて道とも知れぬ道を歩く。森の名前などに興味は無いが、ほとんど魔獣もいない平和な森だと聞いている。獣がいればそれを襲って喰わせ、成長したなら魔獣すら……成長の仕方によっては、【魔骸】すら倒せるかもしれない。
オゥルに与えられた技術と、ピードの魔術にはそれだけの可能性がある。
「だから、一緒に頑張ろうね……」
壺の中で蠢く愛しい相方に、ピードは優しく語りかける。かなり育ったソレは、すでにピードの細腕と同じ太さにまで成長していた。黒光りする装甲に紫の破片を纏わせ、脚からは魔力の残滓がこぼれ落ちる。牙を擦り合わせ、餌を要求するソレを、ピードは森へ解き放つ。
「さあ、行くよ。私の可愛い子……」
急に壺から出されたソレは、少しだけ戸惑ったように首を左右に振って周囲を見回す。ここには自分のことを脅かす存在はいない。体の内からあふれ出るパワーと高揚感が、すぐに彼の体を突き動かした。木に巻き付いて上まで登ると、眠っていた小鳥に噛みつく。接近に気づけなかった小鳥は、短い断末魔の鳴き声をあげるだけで、毒に侵されて動かなくなる。
ここでは食べづらい、と言わんばかりに地面に向けて小鳥を投げ捨てた彼は、初めて自分で仕留めた獲物の前で上半身を持ち上げて勝利の声を上げる。発声器官がない彼の声はピードには聞こえなかったが、その意思は確かに感じ取ることができた。
「流石ね……そのまま、森の命を喰らい尽くすのよ……!」
脚で押さえつけ、鳥の中の肉を囓り取って食らいつく。血に濡れた牙と脚を高々と掲げ、鳥の死骸を抱えたまま、彼は夜の森へと消えていった。
ピードが操ることのできる虫たちは、夜行性の種も多い。数はさほど多くはないが、野生の虫とてピードの魔術にかかれば、一時的に彼女の支配下に落ちる。脚を、触角を、翅を蠢かしながら、虫たちが行軍を開始する。森の中に散らばり、獲物の位置をピードを通じて彼に伝える。
赤黒い甲冑を纏う彼は、夜の森で様々な獣に襲いかかった。その成果に満足げに頷きながら、ピードは成長具合を確かめる。
(この調子でいけば、明後日くらいには魔獣に挑戦できるかもしれないわ……捜索しておこう……)
ピードが操ることのできる虫は、有効距離がさほど遠くはない。森から少しルーワンの方向に寄らなければルーワン内部の様子を探ることはできないが、すでにルーワンから森に向かう街道は見張っている。今度こそ、よほどのことが無い限りは先んじて敵の接近を感知できるはずだった。
(問題はルーワンの森の管理者や、冒険者が来たときね……殺すのはマズいけど、異変に気付くかどうか……まあでも、冒険者なら問題は無い、か……)
ピードはため息を吐き出し、脳裏に一人の男の姿を描く。腰まで伸ばした長髪に、本を片手に巨人の足を振り下ろさせた希代の魔術師。オゥルがいなければ評価されることもなかった自分の魔術とは違い、圧倒的な“力”で認められた魔術師の存在を思い出す。
「あいつに気付かれるのはマズい……でも、成長しきったなら、いくらあいつといえどどうしようもない、はず……」
その様を夢想し、ピードは目を輝かせながら夜空を見上げた。森の中から見上げる夜空は、ピードを祝福するかのように、無数の星を煌めかせていた。




