蒐集国家コラジス5
その屋敷は、ラッスフェルの別荘区域の外れにあった。コラジス大図書館を内包するラッスフェルは、各国から観光客が訪れる場所だ。見るべきものは大図書館以外にはそんなになかったりするが、左右上下前後に無数の本が並ぶ様は圧巻である。
当然、1日や2日の滞在では読みたい本を見つけることすら難しい。もし運良くイルディアスと出会い、求めている本の話を聞いてもらえたなら、その時間は大幅に短縮されるだろうがーー今は関係のない話だ。
「貴族という生き物は、なぜか観光地に別荘を建てたがります」
ナルファの説明を聞き、頷くイルディアス。蒐集国家コラジスは叡智の元の平等を謳う国家だ。貴き一族の概念は廃れて久しく、毎年のように衝突が起きていた。結果、配慮を求める貴族は、一般の物よりも高い金額を払うことで『サービス料』という奉仕を受けられるよう、出入りする場所を制限された。
それがコラジス首都ラッスフェルの西部別荘区域――通称『貴族街』である。
「そういえばいたよ、学院にも。質問してたら黙っちゃったけど」
イルディアスとしては知的好奇心が刺激されて質問を繰り返しただけなのだが、明確な回答を得られなかったという悲しい記憶である。他人に『今年の新入生はマジでイカれてる奴がいる』と思わせたきっかけでもある。
「そのお貴族様には同情を禁じえませんが、さておきです。ここに並ぶ建物のほとんどが別荘や別邸であり、だいたいそうですね、王国貴族が6割、帝国貴族が3割、その他が1割程度。ほぼ全員が本国に屋敷を持っていて、建物を使うのは1年のうちの1から2か月程度。いない間に本国で失脚したり暗殺されたりすると、屋敷はたいてい不動産屋で競売にかけられたり、他国の調査官が来て不正の証拠を押収していったりするのですが――」
つ、とナルファの視線が左斜め前方に向けられる。優雅な所作で通り過ぎて行った執事の背後には、暗褐色に染まった屋敷があった。
「何らかの理由で引き取り手がいないと、ああなります。時期を過ぎると取り壊すのも清掃をするのもお金がかかり、かといって勝手に取り壊すのはやりづらく、とはいえあると邪魔。本日、イルディアス様に取り壊していただくのはそんなお屋敷です」
正面に立てば、圧迫感すら感じる巨大な建物。高さは3階建てで、レンガと木材を利用した古風な建物だ。庭の草は伸び放題になっており、元気な新緑の下草たちと、薄暗い暗褐色のレンガの壁が見事な対比となっている。『廃墟』という題で絵を描くなら、いいモデルになれるだろう。
「取り壊せばいいのか?」
「そうです。行けますか?」
曖昧に頷くイルディアスに、ナルファは急に不安になってきた。コラジスの“怪童”。7年前、たった1人で災害級の【魔骸】を打ち滅ぼした真正の魔術師。その威力が発揮されることは滅多にないとはいえ、その伝説は深くコラジスに根付いている。
“怪童”は嵐を招き寄せる。
“怪童”は化け物を従えている。
“怪童”は――本を片手に、奇跡を起こす。
「『深く霧の立ち込める中、私はゆっくりと手を伸ばした』」
イルディアスの呟きが、鼓膜を震わせた瞬間。思わずナルファは、大きく後ろに下がっていた。気迫で逃げ出すことはこらえたが、彼から距離を置かずにはいられなかった。
「『足場は不安定だ。濡れて滑る。見通しも悪い』」
訥々と喋り始めるイルディアス。驚くべきことに、ナルファは足元を這いあがる冷気の存在を認識した。息を吸い込めば、微かに冷たい空気が肺を満たす。
「『私は顔を上げた。どこか遠くで聞こえた気がしたのだ』」
(これは……? 魔術、なの……?)
まるで目の前にある本を朗読しているかのような、淡々とした声。だがイルディアスの視線は本ではなく、暗褐色の屋敷に向けられていた。右手で持っている本には一瞥もくれず、ただ揺るがない視線でどこかを見通している。
「『求めるものが! 私の人生を捧げてなお、たどり着けなかった至高の頂が! 目の前を通り過ぎたのだ!』」
霧が深くなる。イルディアスが見つめる先、蒸気のように濃い白の霧が立ち込め、視界を奪う。一寸先すら見通せなくなったとき、ソレは――空から、落ちてきた。
「『毛むくじゃらで、私の身長より遥かに長い、間違いない、アレは巨人の足だ! ついに、見つけたぞ!』」
ミルクのような霧を引き裂き、空から足が降ってくる。それは焦げ茶色の岩塊のようだった。ただ膨大な質量を持って霧混じりの空気を押し退け、轟風轟音とともに『巨人の足』が落ちてくる。
1本1本の毛がまるで縄のように太く、人の頭に当たれば気絶しそうなほどの太さ。巨人の足は悠々と屋敷の天井に触れ、まるでそんなものは存在しないかのように、易々と地面までを踏み抜いた。あまりにも非現実的な光景にナルファは唖然として口を開くことしかできない。吹き付ける轟風と、風によって徐々に失われていく口の中の水分だけが、眼前で起きている冒涜的な光景が現実であると教えてくれた。
「『北の大地の探検―巨人の足跡―』より――」
屋敷を押し潰した巨人の足が、ゆっくりと引き上げられていく。こちら側が小指であることに気付いて、ナルファは「ああ、左足なんだ……」と非常にどうでもいいことに感心していた。引き上げられていく巨人の足を眩しそうに見送り、イルディアスは目を閉じた。
「――引用終了」
弾けるように巨人の足が消え去り、続いて一寸先さえも覆っていた霧が吹き散らされる。後に残ったのは、見るも無惨に踏み潰された暗褐色の屋敷、飛び散った木材と家具の破片、そして中で繁殖し数を増やしていたのだろう虫たち。一斉に倒壊した家屋から逃げ出す彼らは、見る者の背筋を粟立たせるほど不気味な光景だったが、ナルファは器用にステップを踏んで躱していた。
「……」
イルディアスは無言で彼らの逃走を見守っていたが、波が終わると斜め後ろでステップを踏んでいたナルファに向き直る。
「言われたとおり、取り壊したぞ」
言われたナルファも、改めて――踏み潰された屋敷に向き直る。四散したレンガの数々、中程から折れて剥き出しになっている大黒柱に梁、修復不可能なほどに砕かれた家具、確かに取り壊されている。
さて、『取り壊し』とは何か? 様々な意図で使われる言葉だが、もはや使っていない屋敷や廃墟を『取り壊す』時は、ただの破壊が目的ではない。彼らの目的は、この土地を新たな建物の建設予定地にすることである。ついでに言えば解体作業によって再利用できる建築材もあったはずなのだが、当然巨人に踏み潰された材は全て砕けた。強いて言えばレンガは多少再利用できるかもしれない、という程度である。
瓦礫の山になってしまったこの土地を、もう一度更地にする労力はいかほどか。そして貴族街に突如出現した巨大な足と霧をどう説明するのか。
「うーん」
現実の光景を改めて受け入れたナルファは、速やかに意識を手放すことを選択したのだった。
「それでは、これより定例会議を行う」
ところ変わって、コラジス首都ラッスフェル中央区域。コラジス大図書館の他に、見るべき場所は『中枢会議所』しかないと言われている。しかしここは蒐集国家コラジスの運営方針を決める会議が行われているという政治的価値と防犯の関係上、迂闊に入ることもできないし見ても別に楽しくないという理由から観光客には全く人気の無い建物である。
今、そんな悲しい宿命を背負った建物の一角に、6人の男女が集まっていた。
「司会はいつも通り、私、大図書館司書長ゼルラーズ・ミフィエンドが務めさせて貰う。承認される方は拍手を」
白髪の老爺が聞けば、気怠そうに残り5人の人影が手を叩く。少し前に持ち回りで司会をやった結果、会議が紛糾し各所の仕事を遅らせた事件は彼らの記憶に新しかった。自分以外が得するくらいなら最初から完全中立のコラジス大図書館にやって貰った方が良いと判断したのである。
「では、承認も得られたので続けさせて貰う。本日の議題はいくつかあるが、最初に厄介そうな案件から片付けるとしよう」
ゼルラーズが告げると、5人の男女が一斉に手元の資料に視線を通した。質問するのを堪えていたが、デカデカと書かれたその文字に、思わずといった様子で一人の男が手を上げる。
「なあ、爺さん。俺の見間違いか? 仮にも一国の中枢である俺らが全員集まる貴重な会議の時間を、よりによって個人の対策に充てるって?」
そこにはデカデカと、『“怪童”イルディアスの奇行対策』と文字が描かれていた。異議を申し立てた若い男は、机に向けて資料を放り投げる。ばさり、と広がった数枚の紙のうちの1枚が机から落ちていく。空中ですくい上げるように風を起こした男が、ふわりと舞い上がった資料を机に置き直した。スムーズに行使された魔術に、ゼルラーズが微かに眉をしかめる。
「魔術会長代理。コラジスの“怪童”イルディアスという男の異様さ、狂態の多くはこの場のほとんどの人間が承知している。対策が必要であるとね。しかもあくまで君は代理だ。勝手な発言は慎みたまえ」
ゼルラーズ以上に白髭を蓄えた老人が厳かな声で告げる。鋭い眼光で射すくめられた魔術会長代理の男は、負け惜しみの舌打ちをして目を逸らす。司会であるゼルラーズの最も近くに座る白髭の老人こそが、124席あるコラジスの議会の長を務める議会長だ。厄介かつ変人の巣窟と称されるコラジスの議会をまとめ上げる手腕は誰もが一目を置いている。
「実際のところ、彼が生み出す利益と損失は商業ギルド会長としても無視はできませんね、ふっくっく。コントロールできるなら、金の卵を産む鶏になるでしょう」
ふくよかな指に多くの指輪と、貴金属を身につけた小太りの男が告げる。奇妙な笑い声が口の端から漏れるが、特に気にしている者はいない。
「自警団長としては、大人しくしてくれるのであれば問題はない。可も無く不可も無く、だが――仮に7年前の事件の立役者である彼が、公権力に反旗を翻すというのであれば、被害なしに食い止めることは難しいだろう」
壮年の男が、顔に刻まれた傷をなぞる。本人も凄腕の剣士である自警団長すらが、被害なしは難しいと語るコラジスの“怪童”。ゼルラーズは内心で盛大にため息を吐き出した。言いはしない、言いはしないが、7年前の時点でそのレベルなのだ。当然、コラジスの自警団程度の戦力では、どれほど犠牲を出そうがイルディアスが止まるはずがないと確信している。
「私も同意見だよ。あの男、厄介にもほどがある。金にも女にも地位にも執着しない、戦闘力は高い男なんて、手綱の握りようがないからねぇ」
ラッスフェル全ての娼館、裏の世界を取り仕切るマダムが盛大に煙を吐き出す。魔術会長代理が、意見を求めるようにゼルローズを見つめる。
「それだけ危険視されてるというわけです。彼が気まぐれに強力な魔術を発動すれば、都市のひとつ程度簡単に滅びかねないですからねぇ、ふっくっく」
商業ギルド会長が広げて見せた新聞には、一面にでかでかと美少女のイラストが描かれていた。美少女の周囲には3本の剣が浮かび、対峙しているのは魔獣だ。数十個の目と無数の触手を持つ魔獣が、美少女の剣が一刀両断されている。
「クジャンダ王国に巣くう沼の魔獣、【引きずり込む百目悪魔】が王国が誇る最大戦力、バルグランド家の【剣姫】が討伐したっていうニュースですよ。これでますます王国の国力は増すでしょうね、ふっくっく」
楽しくてたまらないと言わんばかりに方を揺らす商業ギルド会長に、魔術会長代理の男が噛みつく。
「それがどうした、関係ないだろう」
「わからないんですか? ここ5年の学院国家から聞こえてきた名前は、【剣姫】が1番。2番目が“怪童”イルディアスなんですよ。3番目に《愚者》、あとは『鬼謀』とか『鉄塊拳』とかもいましたが、その差は圧倒的です……ふっくっく、“怪童”は【剣姫】と同等以上の実力を持ってると思って良いでしょう」
「だがそれは、」
貴様の予想に過ぎないだろう、と言いかけた男の言葉を遮り、凄まじい地鳴りが響き渡った。まるで建物そのものが悲鳴を上げているかのようなその轟音は腹を内側から揺らし、全員の視点を一点に集めた。
すなわち、音が聞こえてきた方向へ。
慌ててテラスへと飛び出た6人の男女は貴族街の方向から土埃が上がっているのを確認した。自警団長は「失礼する!」と叫んで現場指揮のために階段を駆け下り、司書長ゼルラーズは全身の力が抜けて思わず崩れ落ちた。咄嗟に議会長が支えるが、ゼルラーズはその瞳を爛々と光らせて叫ぶ。
「やりやがったなこんのクソ息子がぁぁぁぁぁ!!」
瞬時に力を取り戻し、テラスから飛び降りるゼルラーズ。議会長は思わず、ゼルラーズ司書長が息子を殴り殺さないことを天に祈った。
ふと、議会長は視界の端を黒い何かがよぎった気がしてその方向へ視線を向ける。だが、そこには変わらず普段の町並みが見えるだけだった。首を傾げつつも、議会長は――
「今日はもう解散!」
全ての思考を放棄し、後日改めて会議の場を設けることを宣言したのだった。