蒐集国家コラジス12
空からの景色はいつも格別だ。自らの行く手を阻む川も、岩も、森も、全てを一望できる。風を切って迫る大地を見て、翼を翻し呪縛から逃れる。その快感を知る人間は、世界で自分ひとりだけ。
空中を移動する秘境、【天空の岩城】にかつて住んでいたと言われる伝説の鳥人とて、ここまで自由自在に空を舞うことはなかっただろう。
見下ろした視線の先、見慣れた街と森の姿を捉える。キョロキョロとせわしなく視線を動かし、人の動きが普段よりも慌ただしいことを見て取った。町を駆けだしていく数人の人を見据え、彼の意識は暗転する。
次に目を開けたのは暗闇だ。少し目が慣れるのに時間はかかったが、寝起きでも意識ははっきりとしている。視線を横にずらせば、瞬きもせずに森の中を見つめる女がいた。すでに食料は尽き、洞窟を這う鼠と毒のある果実を喰らう日々。腹を壊し、意識は霞み、それでも目を見開き彼を追っている。
『ピード』
もう耳も聞こえないのか、と少し焦る。だが、目線は動かないまま、乾いて切れたピードの唇が動く。
「……オ、ゥル。どうだい、ウチの子は……」
『傑作だ。放て、ピード。支配を解けば奴はラッスフェルに向かう』
淡々と指示を出すオゥルに、ピードは満足げに微笑んだ。弱いとはいえ【魔骸】も【魔獣】も喰らい、その力を得た。たとえ相手が“怪童”イルディアスであっても、負ける気がしない。それだけの災厄に育てた。
『だが存在を気取られた。今が最良だ。コラジスを混乱に陥れてやれ』
数秒迷ったピードだったが、すぐに首を縦に振った。時間をかければまだ育つが、強大になった今その成長は誤差の範囲内。現時点ですでに【魔骸】の脅威は超えた。ならば、もう――自分の手から解き放つことに、躊躇いはない。
「……し、支配魔術、解除……」
ひび割れた唇で囁けば、彼の圧倒的な怒りの気配が伝わってくる。元々知ってはいたが、彼は怒っている。激怒している。それは己が命よりも大切な半身と引き離された怒りだ。どんなに遠く離れようと、彼にはその存在を感じ取ることができる。今は遠く離れてしまったが、忘れるはずもない。頭をもたげ、遙か彼方に向けて力を誇る。
「共感魔術、解除!」
弾けるようにピードの視界と感覚が人間の体に戻ってくる。彼との全ての繋がりは切れ、半年ぶりの孤独がピードに襲いかかる。その反動を知っているオゥルは、荒い息を吐き出すピードを静かに見守った。長い間、多くの時間を共感魔術で共に過ごした相手との魔術解除は、とてつもない喪失感と孤独感を生み出す。それは、人が持って生まれた腕を失うよりも深い哀しみだ。
『……ピード。迎えを飛ばしている。森の中央の広場に向かえ』
「……ああ。少し、時間をくれ……悪いね」
よろよろと立ち上がったピードは、最近愛用していた木の枝を使った杖を手に取る。十分な栄養も水分も取れず、衰弱した体はふらつくが、やるべきことは終わった。明瞭になった思考で、ここから立ち去ることを考える。
(見つかりはしたが……私の存在と彼を結びつけるような証拠はない……このまま逃げ切るのは簡単なはずだ)
しかも逃走に使うのはオゥルの鳥だ。たとえ相手が“怪童”であろうとも、捕まる気はしなかった。
『こいつは置いていくが、私は結果を見守りに行く。中央の広場で待機していてくれ』
オゥルの言葉が消え、フクロウはゆっくりと目を閉じる。杖の上でバランス良く眠るフクロウを連れて、ピードは森の中央にある広場を目指した。おそらくそこにはオゥルが従える巨鳥がいるはずだ。自分を逃がすために。
「はぁ……はぁ……」
息は荒く、体は疲れ切っているが、やるべきことは終えた。後は育て上げた彼が、コラジスを混乱に陥れる。そうなれば――世界は戦乱への道を辿るはずなのだ。
「はぁ……は――ざまぁみろ! 世界!」
薄曇りの空を見上げ、大口を開けて笑う。その眼窩は暗く澱んでおり、全身に残る無数の傷が、彼女がどんな人生を送ってきたかを物語っている。すでに賽は投げられた。彼らは世界に叛旗を翻し、破壊と混沌の限りを尽くす。
それは、世界が彼らに厳しかったから。
世界が彼らを愛さなかったから。
彼らが、世界を見放したから。
「止められるもんなら止めてみろ、コラジス! 世界の抑止力であるお前らが――」
言葉を切って咳き込むピード。ただでさえ頑丈な体ではない。地下室暮らしと森での生活がたたって、頬はこけ、痩せ細って骨が浮かんでいる。だが、輝く眼光は揺らがず、確固たる信念と信頼を持ってコラジスの方角を見据えていた。
「――崩れれば、世界は崩れる!」
その瞳に浮かぶのは憎悪。拳は握りしめられ、かみ切った唇から血の筋を流しながら、ピードは遠くを見据え続けた。
「蒐集国家コラジスの崩壊、もしくは揺らぎには重大な意味がある」
300年もの間、世界の平和を意図せず守り続けた中立三国。
各国の有望かつ歴史ある人材を預かることにより、擬似的な人質となっていた学院国家ミルファム。
経済の本流を握る事により、国力などの情報戦に長け、どの国家にとっても利を提供する商業国家セステル。
そして長年の知識の蒐集に伴い、各国の不祥事や負の歴史を握り、叡智を司る国として発言力の強い蒐集国家コラジス。
この中で、コラジスが標的に選ばれた理由は簡単だ。ミルファム、セステルへの攻撃は恨みを買いすぎる。だから災害ではなく人災なのだ。人の考えが根底にある。
「うまくやったようですな」
男の声が響く。その空間は暗闇が支配しており、男の声は頼りなく聞こえた。聞く者が聞けば、彼の声に微かな震えが入っていることがわかるだろう。多くの貴族を相手にしてきた歴戦の男ですら、目の前の暗闇に棲む人間のことが恐ろしくて仕方が無い。
「……何が?」
返ってきた声は年若い声。少年の声に聞こえる。声変わり前の少年特有の高い声は、少女の声にも聞こえ、男を惑わせる。正体不明、情報が一切存在しない相手との交渉だ。男はこの暗闇に潜む人間が、男なのか女なのか、何歳なのか、どの家に所属するのか、そもそも人なのかすら知らない。
「コラジスに虫を嗾けたこと……貴殿のことだ。私にも、ちっぽけだが情報網というものがあってね」
それは男のプライドでもあり、交渉術でもあった。この国の裏を取り仕切る人間として、この暗闇に潜む人物が何を企んでいるかは解き明かしておかなくてはいけなかった。牽制であり、優位に立とうとするための情報開示。『知ってるぞ』という稚拙なマウンティングに頼らなくてはいけないほど、男は恐れていた。
「ん? ああ、虫ね……」
だが、言われた方は『今思い出した』と言わんばかりの答えを返すだけ。とん、と机を軽く指で叩く音が聞こえ、男は背筋を震わせる。
「そんなことよりだ。君の部下がちゃんと働いてくれるかどうかが心配だ」
暗闇に光る蒼灰色の瞳で射貫かれ、男はまるで縛られたかのように体を動かせなくなった。人の目だ。それはわかる。だがその瞳に秘められた無機質な感情が、男の体を竦ませる。感情のコントロールなど、散々やってきたことだった。この人間の蒼灰色の瞳に見据えられると、全ての感情も考えも見透かされるような気持ち悪さがある。
だから恐ろしい。人の目を見ているはずなのに、裡に潜んでいるのは人ではないかのような気配を感じる。理性は「こいつも同じ人間だ」と言っているのに、感情がそれを否定する。目の前にいるのは、人ではない何かで、決して逆らってはいけない相手だと訴えてくる。
「しっ、心配なさることはありませんとも! 私の部下は確かな腕と忠誠心を持っています!」
空気が震える気配を感じ、男の口が空回る。自分で言っていても説得力が欠片もないことを感じ取れる焦り口調。図星を突かれた時のような反応に、男の中で自己嫌悪が膨れ上がる。これではまるで初心者だ。
「わかってるよ」
背筋に怖気が来るほどの冷徹な言葉。
(私は……今まで、様々な人間を見てきた……)
職業柄、人の本性というものを山ほど見てきた。厭世を気取った隠居ジジイも、女を侍らす財と権威を持つ中年も、新進気鋭に暴れ回る若者も、宮廷で男を誑かす美女も、誰よりも多くの人の本性に触れてきた。
人間は死ぬ間際に、様々な本性が出る。他人の目ばかり気にしているように見えた奴が、急に覚悟を決めたり。自分本位に振る舞っていた奴が、最後の最後に民の助命を懇願したり。
そんな予想外な事態はいくらでもあった。『その言葉をお前が言うのか』と思ったことは一度や二度ではない。高名な聖職者よりも、路端の浮浪者の方が清廉な覚悟を見せつけることさえある。
(人はわからない。どうあがいても他人は他人。自分のことすらわからないのに、他人のことを理解できるはずがない)
じわり、と手のひらに汗が滲む。
「……は。成果にご期待ください」
(この者は――私よりも私のことを理解している。次にどの足から出して歩くのか、次の飯のメニューの内容、それどころかこの思考すら……)
神懸かり的な観察眼。その特性は、脳内に無数の盤面を築き上げることで無敵の策謀家に成る。
「うん。期待してるよ」
(私ですら、辛うじて気づけた程度の……恐ろしい。この者の『共感』に、自覚のないまま操られる者が、いったいどれだけいるのだ……?)
扉を閉め、男は逃げ出せたことに安堵の息を吐き出す。自覚があるだけマシだ、という言い訳と、あの者に絶対に逆らうべきではないという覚悟を決めながら。言いつけられた工作を成功させるため、改めて部下に追っての指示を出す。
鬼謀は蠢き、無数の網を張り巡らせる。水面に落ちた石の波紋を見つめ、次々と小石を池に落とす。
「次は、これかな」
部屋の中では、また新たな小石が投じられた。投げ込まれた小石が生み出す波紋は、やがて大きくなって池を揺らす。
その揺れの行き着く先が見えているのは、部屋の主だけだった。




