蒐集国家コラジス10
しっとりと降り注ぐ雨粒に目を向け、イルディアスは盛大にため息を吐き出した。強制的に外に連れ出されたものの、この天気。本を取り出すことすらできない。紙に湿気は大敵だ。
「辛気臭いわね、ただでさえこの天気なのに」
ため息すら咎められ、イルディアスは口をつぐむ。ルーワンの街に来てすでに7日。成果らしい成果は何もあげられず、コムとイルディアスはかなりナルファの技能を疑っていた。その気配を敏感に察知したナルファは重い腰を上げ、ついに森の探索へ踏み切ったのだった。
「というわけで雨だけど森に行くわよ……ん?」
天気に似つかわしくない喧噪を耳が捉え、ナルファはそちらの方向を振り返った。ルーワンの町の市場はざわめきこそあれど、商業国家セステルほどに怒号や客寄せが飛び交う場所ではない。さらには、今日は雨で外出している人間自体が少ない。
「おい、こりゃあどーいうことだぁ!?」
観光客用に売っているとはいえ、ルーワンそのものには特筆するような土産物はないはずだ。ここは宿場町であり、必要なものを必要な数揃えるのに向いている町。表通りに面した店は、多少割高ではあるが観光地価格といえば通る。
「値段にケチでもつけてんのかしら……ってあら」
怒号を上げた青年の横顔を見て、ナルファは思わず自分の口を手で覆った。横からしか見えていないが、絶世の美青年と言っても過言ではなかった。燃えるような赤髪に、鋭く引き絞られた目元。野性味溢れてはいるが、怒鳴られているはずの店番の女性ですら見蕩れるほどの美形。
「あっ」
本を持たないイルディアスが、興味なさげに向けた視線で美青年の顔を捕らえた瞬間、抑えきれなかった驚きの声があがった。その声に引き寄せられるように、赤髪の青年の視線がイルディアスに向けられ、その瞳が驚愕で見開かれる。
「おいてめぇ、“怪童”じゃねぇか! こんなとこで何やってんだ!?」
「うーわー……嫌だ嫌だ嫌だマジで嫌だ……」
「こっち来るわよイルディアス!?」
「こんなに嫌がってるイルディアスさん見るの初めてです……」
大股な足取りで近づいてくる赤髪の美青年は、髪よりも深い真紅に輝く瞳で3人を睥睨する。本人にそのつもりはなくても、背が高すぎるのだ。
「いやでか」
「巨人ほどじゃないし……」
2メルトに迫りかねないほどの上背を持つ青年は、そこそこ背の高いイルディアスすら見下ろして右腕で店を指さした。
「おい“怪童”! この町はなんであんなに野菜が安いんだ!?」
安い、と言われてナルファとコムは顔を見合わせた。会話もアイコンタクトすらなく、イルディアスを前面に押し出して背後に隠れることといい、今日のコンビネーションは抜群のようだった。
「……ここはコラジスだ。帝国と一緒にするな」
イルディアスが頭痛をこらえるように頭を揉み込みながら説明する、というゼルラーズが見ていれば驚愕でその場で飛び跳ねたあと喜びのあまり失神しそうな光景を見て、ナルファも目を見開く。あれほど傍若無人を地で行くイルディアスすら、頭痛に追い込むこの男はいったい何者なのか。
「……なんで俺コラジスにいるんだ?」
「知るか」
心底わからん、という顔で首を傾げる赤髪の青年に、イルディアスが吐き捨てる。その様子を見て、ナルファが手のひらを拳で打つ。会話の内容から察するに、相当なバカか方向音痴である。そして、ナルファは最近の会話で心当たりのある人物名を聞いたことがあった。
「もしかして【愚者】の方ですか!? 学院でイルディアスと一緒だったっていう……」
しかし完璧だと思った予想は、赤髪の青年とイルディアスが首を横に振ったことで否定された。
「【愚者】はもっとヤバい」
「あいつに勘違いされんのはマジで嫌だな……」
ナルファの人生の中で間違いなくワンツーを独占する傍若無人コンビが本気で嫌そうに顔をゆがめる。心の中で、「会ったことないけど、たぶんどっちもどっちだと思いますよー……」と呟いたナルファは、後日【愚者】と出会った時にゼルラーズ司書長と一緒に発狂することになるのだが、それは別の話。
閑話休題。
「でもまあ、学院で一緒だったっていうのは当たってる。帝国貴族の息子」
「ガーデウス・フォン・シュベルツィオンだ。よろしく、麗しいお嬢さん」
ナルファに跪いて、右手の甲に口づけを落とす赤髪の青年――ガーデウス。人生初めてになる経験に、ナルファは目を白黒させながら右手を引き抜いた。
「な、なにするんですか!?」
「なにって、挨拶だが? 帝国式はお嫌いか?」
にこりと微笑むガーデウスに、心臓が高鳴るのを自覚するナルファ。しかし、未だ屈んだままであったガーデウスに、イルディアスの右手が振り下ろされる。
「で、なんでお前がここにいるんだよ……って、いいや。お前のことだから、いつものだろたぶん」
「ああ、そうだな。いつものだ」
立ち上がって、膝についた埃を払うガーデウス・フォン・シュベルツィオン。見事に彩られた赤髪が風に靡き、真紅に輝く眼光が遠く空を射貫く。
「“怪童”イルディアス。生き延びろよ」
「言われるまでもなく」
意味がわからずに混乱するナルファとコムを置いて、スタスタと歩き去って行くガーデウス。言いたいことだけ言ってこの場を去ろうとしているガーデウスを引き留めるべく、ナルファが声を上げかけるが、それが叶うことはなかった。
「イルディアス殿! 探しました……!」
人混みを掻き分け、雨の中を走ってくる自警団の制服を着た男。よほど急いで来たのか、制服には泥がつき、息は荒い。コムは見覚えがあったらしく、驚きの表情をした。
「副隊長!? なぜここに……?」
「“賢者”様からの伝令! イルディアス殿、至急ラッスフェルに戻るようにとの仰せです!」
コムの疑念には応えず、副隊長と呼ばれた壮年の男は、鬼気迫る表情で伝令を読み上げる。その言葉を聞いたイルディアスは、無表情にひとつ頷きを返した。
「何か起こるな」
雨足が強まり、空の雲は黒々と広がる。足元を雨が濡らし、流れていく水はどこともしれぬ暗がりに消えていく。
ナルファはぶるりと背筋を震わせる。その震えが、寒さによるものなのか、それとも別の何かの予感なのか、ナルファには判断がつかなかった。
「おはようございます」
遠く離れた地で目を覚ました青年は、まず窓の外を見た。からりと晴れあがった青空から、日差しが降り注いでいる。晴れた日は風が強いものだが、今日も変わらず強風が吹き荒れているようだ。
「目覚めの一杯でございます」
鼻腔をくすぐる紅茶の香り、青年は視線を吸い寄せられた。執事服を着こなす初老の男が、青年のそばのデスクにティーカップを置く。
「ムートン、今は昼だ」
赤髪の青年はティーカップを手に取ると、中身をゆっくりと傾ける。『飛んだ』あとはどうも体がだるい。特別に作らせた椅子に体を沈め、目を閉じて先ほどの出来事を反芻する。
「ガーデウス様、今回はどちらに?」
出かけるか、という問いではない。どこへ出かけてきたのか、という問いかけだ。ガーデウスの体は一歩たりとも、帝国に存在するこの屋敷から外へ出てはいないというのに。
「コラジスだ。意外かもしれんが、ムートン。始まりはどうやら、クジャンダではなさそうだぞ」
さも愉快そうに告げるが、ガーデウスの真紅の瞳は一切笑っていない。ムートンは主人である男の迫力に、黙って頭を下げた。
「半歩先んじる。いつでも動けるようにしておけ」
「かしこまりました、ガーデウス様」
頭を下げ、扉へと向かうムートン。残された赤髪の青年ガーデウスは、紅茶を味わいながらも思考を巡らせる。
「ああ、それと。虫は探しておけ」
「……は。では、そのように指示いたします」
今度こそ深く頭を下げ、ムートンは部屋を出ていった。自分の主の考えと、その狙いを察知して、背中に伝う冷や汗を止めることができなかった。
ガーデウス・フォン・シュベルツィオン。偉大なる帝王と同じ家名を持つ男は、獰猛に笑う。かつて退屈に倦んでいた自分を叩き起こし、世界にすら挑まんとする傲慢な旧友たちに頭を下げる。
「ありがとう、我らが友よ。おかげでしばらく、退屈せずに済みそうだ」
さて、と呟き、思考を深める。個人的な趣味の話はともかく、帝王の血に連なる者として、カノプス帝国の不利益にならないよう立ち回る必要がある。今回何が起きるのかまではわからないが、蒐集国家コラジスに何かしらが起きる。
そして――あのコラジスが危機に陥るというのは、三大国においては大きな意味を持つ。
北の帝国カノプス。南の王国クジャンダ。東の連邦ノフィス。
互いに軍事力を持ち、最高に仲が悪い三国。その均衡は、国力がほぼ同等であることと、大陸中央部にある中立三国が間を取り持つことで成り立っている。
商業国家セステル、学院国家ミルファム、そして蒐集国家コラジス。
もしも中立三国のどこか1つでも三大国が治めることになれば、均衡は崩壊する。緩衝地帯でもある中立三国は、どこが落ちても厄介極まりない外交カードになってしまう。
つまり、もしもコラジスを危機が襲い、そこに人為的な狙いがあるのならば、この大陸全土が戦火にまかれる可能性がある。
「……【嵐流】がいる限り、海を使う作戦は不可能だしな……」
かつて肝入りの帝国海軍を殲滅させた謎の生物を思い出し、苦々し気に呟くガーデウス。海には奴がいる。すべてを巻き上げ叩き落とす、最悪の存在が。
ゆえに、作戦はほぼすべてが陸地だ。川の物流もあるため、水軍は持ってはいるが、その規模はどの国もさほど大きくはない。クジャンダ王国との小競り合いはいまだに続いているし、ノフィス連邦の蛮族どもは相も変わらず帝国を馬鹿にしている。
「なし崩し的に戦争が始まる可能性もある。死ぬなよ、イルディアス……! いや……うーん……」
少しだけ祈りを捧げたガーデウスだったが、すぐに馬鹿らしくなってやめる。あの読書狂の魔術師が苦しんでいるところをうまく想像できなかった。学院時代の時のように、飄々と力を振るって、しれっと読書に戻るのだろう。天才程度では至れない頂きにいる3人を思い出し、ガーデウスは盛大にため息を吐き出す。
「凡人は凡人らしく、小賢しく立ち回るしかないか……」
ムートンが聞けば目を剥いて否定しそうなことを呟き、ガーデウスは着々と準備を進めていった。
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