蒐集国家コラジス1
かつて魔術はたった1人のための『奇跡』だった。彼は大地を割り、雲を操り、海を荒らし、雪を吹雪かせた。世界の全ては彼のためにあった。
魔術の神秘と神髄を究めた彼は、生命の死にすら抗い、自らを不死の存在に昇華させようとした。
力を『玉』に。人格を『棺』に。記憶を『本』に。
『死』を肉体の崩壊ではなく、人格と記憶の消滅として考えた彼は、神秘の魔術を使い、その記憶の全てを本に宿したとされる。
その本の名は、【魔術皇の叡智】。
今を生きる魔術師たちが求める、叡智の書。
様々な憶測と噂が飛び交うこの世の全ての魔術を記した書。
今その書は――
「イルディアス! 本に座るなと何度言ったら――お前それ【魔術皇の叡智】じゃないか!?」
――とある建物の中で、青年の尻に敷かれていた。物理的に。
読んでいた本を閉じ、イルディアスと呼ばれた青年は深いため息を吐いた。ろくに手を入れていないのだろう白髪を腰まで伸ばし、閉じた本を脇に置く。周囲にはうずたかく雑多な本の数々が置かれており、青年が本を置いたことにより、また一段本の塔が積み上げられた。
「もう読み終わった」
言い訳にもならない言い訳をする白髪の青年――イルディアスに、声をかけた老爺の額に血管が浮かび上がる。イルディアスの白髪が、まるで絵の具のような白さであることに対し、老爺の白髪はどことなく黒い部分が残っており、歳を重ねることで色素が抜け落ちたことが窺える。
「読み終わったからといって貴重な書を踏み台にしていいわけがあるか! 本が傷んだらどうしてくれる!」
建物と書の管理人として怒りを露わにする老爺に対し、イルディアスは「これだから年寄りは……」と言わんばかりの顔で自分が座っている本の椅子を指さした。
「俺が読み終わった以上、俺はもう読まない。俺だってまだ読んでない本は踏まないぞ」
「お前が読み終わった本でも座るなと言っとるんじゃバカチンがッ!!」
素晴らしい速度で振り下ろされたゲンコツが、イルディアスの脳天に炸裂した。イルディアスは内心で「このジジイ絶対今年60歳になるの嘘だろ!?」と思ったが、脳内にチカチカと瞬く星がそれ以上の思考を許してくれない。
イルディアスを殴るために、老爺が日々拳の鍛錬をしていることをイルディアスは知らなかった。
「~ッ! ジジイ! 息子に手を上げるのか!?」
「息子だから手を上げとるんじゃバカがッ! 罰として3日間【書庫堂】への入室を禁ずる!」
書庫堂の入室禁止と聞いた瞬間イルディアスの顔が跳ね上がった。
「出なければ入る必要ないしずっとここに居ていいってこと――」
「いいわけがあるかッ!!」
怒号と一緒に書庫堂を蹴り出されたイルディアスは、無様に廊下に突っ伏した。日々体のトレーニングもしている老爺と違い、イルディアスは貧弱なのだ。蔵書のなかには鈍器になりそうなほど重いものもあるため、腕力だけそれなりにある。
「いてて。くっそー、あのジジイ……学院に行ってやった恩も忘れやがって……」
廊下にぶつかった額よりも、蹴りを入れられた尻の方を擦りながら、そっと書庫堂の入り口を窺う。
「おお、あのガキ床に【フィランツの冒険】も【森林大全】も放置しおって……! 許せん……! もう2、3発入れとくか……」
顔に焦りと恐怖を滲ませたイルディアスは足早に扉の前を離れる。このままではあのジジイに記憶喪失にされてしまう。
「おいイルディアス! ん? もういないのか?」
普段であればもうちょっとだだをこねるのに、意外とあっさり引いたな、と老爺は顎髭を撫でつけた。先ほどの呟きが聞かれて、ビビって逃げたとはつゆほども思わず、彼の成長を感じて感慨深げに頷く。
「奴も多少は成長しているということか……社会不適合者だけど……」
ここ以外の職場で働いている様子が全く想像できず、老爺は困ったようにまなじりを下げた。人格面に著しい問題を抱えているとはいえ、能力は優秀だ。そうでなければ“怪童”などとは呼ばれない。
「学院で社会性を身につけてくれれば、と思ったが……妙にパワーアップして帰ってきただけだったな……」
まあ知ってたけど、と哀愁を漂わせる老爺。イルディアスの親代わりにして、【コラジス大図書館】の司書長を務めるゼルラーズ・ミフィエンドは、息子の行く末を思って、かなり重いため息を吐き出した。
コラジスという国は、成り立ちからして少々特殊な国家である。中心に大図書館を持つこの国は、軍事力を持たない中立国家として、三つの大国から認められてその自治を維持している。
各国からの亡命者や迫害を受けたものたちを受け入れ続けたコラジス。その理念は『叡智のもとには、全ての種が平等である』。人道に悖る者以外は受け入れ続けてその叡智を蓄え続けた結果、コラジスは気付けば各国の様々な弱みを握ることとなった。
時の権力者も、コラジス大図書館に眠る【大陸年鑑】には頭が上がらない。精確な歴史を記すその書を遡れば、必ずどこかで『正式な支配者ではない』ことが明かされてしまうからだ。
もちろんコラジスという国そのものを消してしまえば、その発言力は大きく下がる。とはいえ、現時点ですでに3つの大国が互いに牽制し合っている情勢だ。変に蒐集国家コラジス、商業国家セステル、学院国家ミルファムに手を出せば均衡が崩れかねない。
順当に技術を発展させながら、しかしどうにも手を出せない状況に歯がゆい思いを抱きながら――大陸の平和は、薄氷の上で300年ほど続いていた。
「日差しが強い……」
書庫堂は大図書館のほとんどの書籍を集積してある場所である。『書庫堂管理者』として雇われているイルディアスは、ゼルラーズの言葉を事実上の休暇であると解釈し、町に繰り出していた。
その目的はなまった体の鍛え直し――ではなく、伸びすぎた髪の手入れ――でもなく、ただ書庫堂に入れないなら町の市場で本を漁ることしかやることがないからだ。町行く人の視線は、腰まで伸びた白髪と不健康そうな青白い肌を持つイルディアスに向けられているのだが、根本的に他人に興味を抱かないイルディアスは全て無視だ。
後日、威厳どころか人としての身なりも酷いイルディアスが町に出たことで、ゼルラーズは頭を抱えることになるのだが、それはまた別の話。
さて、蒐集国家コラジスはなによりも知識の蒐集を国家理念として掲げている。政治形態は少し複雑なので後日に説明を行うとして、今イルディアスが闊歩している街中の話だ。
大陸中央部に存在するコラジスと商業国家セステルは切っても切れない関係性にあり、知識であれば糸目を付けないコラジスと、売れるものならばなんでも売るセステルは良き隣人として付き合いが長い。セステル本国ほどではないが、コラジスの中心地である首都ラッスフェルもまた、豊かな文化を持つ。
屋台で飛び交う売り込みの声。南国の王国特産品のジュースや、帝国が販売している良質な家具の数々。包丁の切れ味を謳う商人もいれば、古い小麦の安売りを行っている業者もいる。そういった喧噪を全て無視し、イルディアスが向かうのはただひとつ。
「……」
老婆が、訪れた客の顔を一瞥し読書に戻った。イルディアスもその気持ちは非常によくわかるので、黙々と目的のものを探し始める。イルディアスの目的の品はシンプルなもので、『読んだことのない本』だ。そのジャンルは問わず、専門書であろうと娯楽小説であろうと関係がない。
「ふむ」
新刊が出たらしい、と一冊の本を手に取る。コラジス大図書館は、新しい本も常に蒐集を行っているが、その動きは流石に腰が軽いとは言えない。際限なく全ての本を購入すれば国家予算が吹き飛ぶため、払い下げられたものや寄付されたもので構成されている。
「これをくれ」
とりあえず、と言った様子で5冊の本を積み重ねるイルディアス。書庫堂管理者の給金は、高くもなく低くもなくだが、出費がほとんどないイルディアスはいつの間にかそれなりに貯蓄が貯まっていた。一気に5冊も本を買う客は珍しいのか、老婆はじろじろとイルディアスを見るが、値切ることもなく言い値を払えば、あとは我関せずと読書に戻った。
「重いな」
近日まで専門書を読んでいた影響で、軽い本を選んだつもりだったイルディアス。とはいえ本は紙の集まりで、5冊も持てばそれなりに重い。
「……荷持ちを雇うか」
我慢できぬと言わんばかりに地面に本を置いて、1冊を読み終わったイルディアスは呟いた。まだ高い位置にあった太陽が傾き始めている。本屋の入り口の横で読書を始めた胡乱な男を、道行く住人がチラチラと視線を投げかけていくが、イルディアスに一切興味はない。
荷持ちを雇ってから本屋に来ればよかった、とイルディアスは微かな後悔を抱くが、その後悔がすでに過去数回繰り返されたものだということに気づきはしなかった。
「1人頼む」
「あいよ!」
街中にある職業斡旋所に行けば、半日で小金を稼ごうとする少年少女たちがいる。身なりの綺麗な荷持ちはそれなりに値も張るが、雇う人間がすでに小汚い。全く気にせずに一番安い荷持ちを雇ったイルディアスは、その少女に4冊の本を持たせる。少しふらついたのを見て、さらに追加でもう1人雇った。
「……男はいないのか?」
「旦那、男は朝の内に雇われちまいますぜ」
「そうか」
別に金に困ってるわけでもなし、と荷持ちの少女を合計で3人雇うイルディアス。正確に言うならば、すでに一仕事終えた少年たちもいるのだが、一度も雇われなかった少女たちに同情した男が仕事を回してくれたのだ。少女たちはイルディアスと斡旋所の男に頭を下げるが、イルディアスは全く気付いていない。すでに2冊目に入っている。
「……あの、ラフィと言います。よろしくお願いします」
少女の一人が声をかけるが、イルディアスは見向きもしない。
「あー、ラフィ。その人は本を読んでる間は声が聞こえない。本を買う時に話しかけてもいいが、読書の邪魔はするなよ」
斡旋所の男のアドバイスに、ラフィと呼ばれた少女は戸惑いながらも頷いた。残りの二人の少女たちは、この場で最も経験の長いラフィの指示に従うことにしたようだった。その辺の力関係は、荷持ち達の間で決まっている。
行くぞ、の一声もなく、スタスタと歩き始めるイルディアス。虚を突かれた少女達が慌てて追いかけるが、イルディアスは歩調を合わせることもなく本を読みながら突き進んでいく。とはいえ、周囲に多少気は配っているようで、人にぶつかりそうになると避ける。ある意味すごい人だ、とラフィは感心するが、全く速度を緩めないため、ついて行くのは大変だ。4冊の本を分散させて負荷を減らしつつ、自分は年長者なので本を2冊持ち、一生懸命にイルディアスについていく。
あのとき斡旋所の男は『本を買う時』と言っていたので、本を買うのだろう。つまり、これからそれなりに重くなるということだ。少し心が折れかけたラフィだったが、これもお仕事だ、と気合いを入れ直す。
しかし、行く先々の本屋で次々と本を買い漁るイルディアスに、すぐに内心で悲鳴を上げることになるのだった。