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オタクというものは難儀な生き物で、推しという存在を目の前にすると、頭が悪くなるものだと私は思っている。だから、いま私が置かれている状況は非常に私の思考力を奪う状態だということをおそらく目の前の彼女はわかっていないはずだ。
「いや、聞こえてるからね。そのよくわからないモノローグ」
「なぜだ、何故伝わっちゃうんだあ」
私、如月詠は、放課後の教室で課題に取り組むことを口実に居残っている。目の前には、大好きなクラスメイト・弥生逢ちゃんがなぜか一緒に向かい合って座っており、私の苦手な数学の教科書がどうどうと開かれて、かれこれ一時間は経過しているのだ。
「よーちゃんさあ、友達になって一年以上経ってるのに、その意味わからないモードになるのやめてくれる? 課題が進まないってわかりやすくこまってたの、よーちゃんでしょ」
「はわああああああ、逢様が目の前におるうううう」
「進まない、進まない。そのモードほんとやめて」
「なぜ! 私は! アイドルオタクのように! 団扇を作る才能に恵まれなかったのか!」
「フェルトで私のぬいを作ってる時点で、十分だから勉強して」
「逢様の尊さを表す言葉が思いつかないので、日本人やり直してきます」
「帰ってこい現実に」
完全に自分の世界に入る私に対して、ため息をつく逢ちゃんが私の教科書に、解説を書いてくれているのが視界に入る。定期的に貢物をして返しているものの、逢ちゃんには返しきれない恩がありすぎてしまう。いくら返せど、優しい逢ちゃんは困ったように笑いながら相手をしてくれるのだ。
「逢ちゃん」
「なに」
「ふとももはむはむしたい」
「通報します」
「きゃあーー」
私の成績が、クラス順位の一桁台を保てているのは、逢ちゃんの優しさの賜物と言っても過言ではないなと、私は思うのだ。
一年と少し前、この時の私たちは現在とはかなりかけ離れた関係性だった。そもそも、オタク気質のある私はどうも、対人関係においてこじらせているところがあるようで、興味のあること以外には基本的に無反応であることがよくある。それは、良く働く場合もあるのだが、往々にしてマイナスの結果をもたらしていることを私はよく知っている。
逢ちゃんと初めて話したあの日も、やはり大好きな画集を教科書に挟んで、自分の世界に入り込む私は教室で浮いた存在になってしまっていた。教科担任が冷たい目で答えを導き出すまで私を立たせる気でいるのには十分気づいているのだが、そのこと自体は私にとって大したダメージではないことをどうすれば気づいてもらえるものだろうかと、思案していた時だった。目の前の席に座る黒髪ロングが印象的な女の子が後ろ手に何かを持ち上げている。それに気づいて見つめたものの、それがノートの切れ端で、答えの書いてあるものであるところまでわかったところで、教員にわからないように教えてくれているようにしているせいで、髪の毛に隠れて答えは見えないのと、目が悪すぎてそもそも視認することができないことが合わさって、笑いを堪えるしかなかった。その仕草が泣いているように見えたおかげで、私は事なきをえたのだが、逢ちゃんは少し不満そうに顔を顰めていた。
「そんなのわかるわけないじゃない」
「でも、優しさが可愛くて嬉しかったんだあ」
「はいはい。わかったからちゃんと授業受けて」
「はーい」
のほほんと生きる私を逢ちゃんはひどく心配してくれる。なんとなく自分は長生きできる気がしないので、自由に生きているわけだが、その不安定さが逢ちゃんにとっては不安でしかないらしい。
「逢ちゃんって、松葉杖系女子?」
「どんなジャンルよ」
一見、辛辣な返答に見えて名前の音と同じように、愛にあふれている彼女のことを私が大好きになるのに時間はかからなかったわけである。そうして気づけば、推しとオタクの関係性にまでなったのだが、逢ちゃんはいつまでもその関係性については抵抗しているのだった。
弥生逢ちゃんという人は、常識人であるのと同時に、才能にあふれた人である。少し前に、コピー用紙二十枚分の逢ちゃんの魅力についてまとめたレポートを担任に提出したところ、警察にはお世話にならないでねと念を押された。非常に遺憾である。なんでやねん! と素でツッコミを入れることになるとは思いもしなかった。そのことを逢ちゃんに報告すると、一種の病気を疑われてしまった。ここだけは分かり合えないらしい。
「逢ちゃんは逢様で、神様を超える神々しさを手に入れちゃってるから、そのうち私、目つぶしされる気がする」
「閃光手りゅう弾か? 私は」
「きーーーーーーん」
「物騒、物騒」
逢ちゃんの家は、逢ちゃんを逢ちゃんたらしめた家だと痛感するほど、真面目な家庭環境だと、最近になってよくわかってきた。本人はあまり家のことを言わないこともあって、なんとなくその話題に触れないようにしていたのだが、どうもその気遣いはかなり杞憂だったらしい。これまでの逢ちゃんとの会話から推測するに、単純に真面目に育った娘が大事すぎるだけの一般家庭だという結論に最近至っている。
「逢ちゃんって、真面目なのに頭おかしいよね」
「だいたい詠のせいだよね。それ」
「あちゃーー」
「それの千倍反省して」
一年以上の時間を過ごしていると、まわりも順応してきてしまうのか、周囲からの理解は推しとオタクではなく、飼育員と珍獣になりつつある。これについてはかなり、不本意であり、決して私はUMAではないのだと強く主張していくつもりだ。
「ところで、逢ちゃんレポートリターンズを、つぎは学年主任の川上さんにぶん投げてくるつもりだからこうご期待」
「川上先生逃げて。超逃げて」
「川上さんも、逢ちゃん信者になればいいと思うの」
「先生たちは詠が大人しくまともに成長することを切に願ってるよ」
あくまで、これは持論なのだが、私の推しが現実世界に存在するのは、非常に恵まれた環境であると同時に、常に視界に推しが映ることによって正常な判断能力や思考力を奪ってる上に、つねに脳みそが沸騰状態という極めて人体に良好な環境ではないということから常に生命の危機にさらされているのではないかと感じている。
「たぶん私、明日死んでも、仕方ないねってなりそう」
「ならないうえに、数学進んでないよ」
「つらたん」
こうして最終下校時間近くまで、逢ちゃんを付き合わせた私は、翌日ホールケーキを学校に持参したおかげで、生徒指導室行きを余儀なくされたのである。