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34〜61

     34


 おお!苦しみよ、苦しみよ!

 わたしがおまえを殺すことができたなら――

 わたしがおまえに「死ね、滅びよ」と言うことができたなら――

 わたしはおまえの存在を否認したりはしないだろうに


 だが苦しみよ

 おまえは何千億もの人間の心に巣くい

 その人間たちの柔らかな心の襞を腫瘍で犯した――

 その罪はあまりに重くて償うことなど不可能だ


 だが苦しみよ

 おまえは裁かれることが決してないであろう

 闇にあって光がよくわかるように

 苦しみにあって喜びはいやが上にも輝きを増し加えるもの――


 そのあまりに不条理な人の世の常に

 おまえは生まれて存在するのだから


     35


 人の心も体も弱いもの

 ただ魂だけが強い


     36


 わたしの<人生>という名の車には

 ギヤがローとハイトップしかありませんでした


 それで車はすぐに

 廃品工場送りとなったのでした


     37


 人生とは

 時速400k/mで駆け抜ける

 カーチェイス


 誰かを追い越し

 誰かに追い越されまいとして

 誰もがやっきになっている


 競争に負けて

 クラッシュした

 車の残骸の脇を通り抜けても


 同情心が沸き起こるのは

 ほんの一瞬――


 何故なら次の瞬間には

 自分の番が回ってくるかもしれないのだから


     38


 傷つきすぎた者にとっては

 ほんのちょっとの傷が致命傷


 心臓はすぐにも乱雑に脈打ち

 胃は痙攣を引き起こす

 一歩手前で立ち往生


 もはやこうなっては死んだほうがましではないかと

 賢明な人々は考えるのですが――


 狂気にブレーキをかけようとすると

 ストレスがまたもや加速し――


 それで人々は精神科医に

 外科手術を求めにいくのでした


     39


 理性によってではなく、

 本能によって飛べ!と

 心には命じなさい


 頭の中の

 大脳や小脳や脳幹などが相談しあって

 なんと言おうとも


 心の中の分泌線は

 目には見えぬものなのだから


     40


 もしも人の脳味噌をメスで切開して

 そこにある種の感情――例えば歓喜、恍惚といった――を

 外科手術によって詰め込むことが出来たとしたら

 この世は幸福な狂人で溢れ返ることだろう


 手術後の患者は

 体が痛みの信号を発する時にも

 にこにこと微笑み

「あなたは変わったわ」といって

 大切な友人が去っていく時にも

「なぜかはわからないけれど嬉しくてたまらない」

 と答えるようになるだろうから


     41


 心はいつも

 どのようなことに対しても

 耐え抜こうとします


 どのような種類の

 苦痛であれ

 悲嘆であれ

 わたしたちには耐え抜くことより他に

 選択肢が与えられていないからです


 ただ人の心とは

 それを宿す心よりも強靭無比なものなので――

 心よりもまず追い詰められた体のほうが先に参ってしまい

 さらなる苦しみと痛み

 悲しみと嘆きとが

 増し加わってしまうのです


 最もこの悪循環を断ち切るためにこそ

 わたしたちは魂の救済を求めてやまないわけなのですが――


     42


 肉体の傷なら外科医が

 精神の傷なら精神科医が

 癒してもくれるだろう


 けれども魂の傷だけは

 神おひとりにしか癒せない


 体と心の傷ならば

 時が解決してもくれよう


 だが魂の傷だけは――

 それがどんなにささやかなものであれ

 神おひとり以外には癒せぬのだ


     43


 わたしの心はきのうの夜

 自分の心の外科手術のことでいっぱいでした


 誰も癒してくれる人がいないので

 自分で自分の心を直そうと思ったのです


 けれども天国の医療は神のもので

 人の手になるものは

 地獄の荒療治に他ならないということに気づかされて――


 わたしはドリルやハンマーやノコギリなどを

 片付けることにしたのでした


     44


 もしも人の心に 体と同じく臓器が

 目に見えぬ形で収められているとしたなら――

 それは考えてみるのも恐ろしいことだ


 何故ってその人の心の脳が潰れ

 眼球が飛びだし

 腸や内臓がはみで

 心臓が引き裂かれていたとしても――


 身体のほうのそれが丈夫なら――


 その人は矛盾の示す凄惨さに

 気も狂わんばかりだろうから――


 そしてそんなことはわたしにとって

 想像するのも悲しいことだ


     45


 わたしはきのう

 自分の心に外科手術を施しました

 麻酔なしで自分の心臓を切開し

 その中心部にメスの刃を沈めたのです


 そしてどこかに悪い腫瘍があるはずだと

 鏡で左心室や右心室や弁などをよく照らしだし――

 どこにも悪いところはないのを発見して

 最後に虚しく切開した傷跡を縫合しました


 それからわたしは血のついたメスを消毒液に浸し――

 深い深い溜息を着いたのでした


 どこにも悪いところがないのに

 わたしの心はどうしてこんなにも病んでいるのだろうと

 うんざりしてしまって――


     46


 わたしの心には

 荊の棘が

 突き刺さっています


 随分長い間

 考えられ得るあらゆる人間的な方法を駆使して

 なんとかこの棘を引き抜いてみようとしてきました――


 けれども人々は

 わたしを理解しようとするどころか

 同情心さえ寄せようとはしてくれませんでした


 それどころかかえって

 わたしの心の血の流れた傷跡を見て

 嘲笑うことさえしたのです


 それでわたしも最後の最期には

 悟りの境地に到達しました

 わたしの心と体と魂とに及んでいる

 この忌々しい棘を痛みなしに取り除ける方は

 神おひとりに他ならないと――


     47


 わたしが信じるのは99%の<絶対>ではなく

 1%の<もしも>


     48


 どんなに凄惨な事件が起きても

 わたしたちの心にそう長くは

 衝撃を与え続けることはできない


 それがわたしたち自身の身の上に降りかかった

 災厄でない限りは――


     49


 本当の自由の意味は

 囚人にしかわからない


 束縛を知らぬ者は不幸な者

 何故ならそのような者は自由の重みに耐えかねて

 それを自ら放棄してしまうであろうから


 そして不自由さの中に自ら囚われる者こそが

 かえって自由の旗を掲げ持つのだ


     50


 人の十の指に

 欲望をすべて満たすことなどは決して出来はしない


 人の欲望とは死肉を食らう獣のように

 飽くことを知らぬもの


 飽食に放蕩を重ね

 湯水のように金を使い果たしたところで収まることを知らず


「もっともっと」と底無しの腹を満たそうとするのだから


     51


 首から下が<本能>で

 その上が<理性>で出来ている怪物――


 それが人間という者の正体ではないだろうか


     52


 わたしたちは豊かになり――

 そして人々の幸福というものは

 それに比例するかのように複雑になった


 真実はひとつでも

 人によって見方が違えば

 それは無数の瞳を有しているということにもなる


 現代人の幸福についても

 また同じこと


     53


 狂気という狂気を詰め込んだ大樽を

 今宵こそは

 理性という名の鎖でがんじがらめにし

 深い深い海の底へと沈めてしまおう


 そこは夜の闇よりも濃いうねりのあるところ


 時折通りかかる巨大な鯨だけが

 惨めなおまえの友達


     54


 永遠の闇の奥底で

 死肉を貪る獣が

 獰猛さを宿した瞳を光らせている


 その獣の名は<狂気>

 しかもこの獣が喰らっているのは

<精神>という名の肉で――


 わたしはこの<狂気>という名の野獣が

 地上に住まうハイエナの群れなどよりも

 余程恐ろしいのだ


     55


 手首を剃刀で切るのには勇気がいる

 天井から縄をぶら下げて首を吊るのにも勇気がいる

 レールの上に寝転がり、電車が来るのを待つのにも勇気がいる

 アクセルを思いきり踏み込んで、海の中へと沈むのにも勇気がいる

 10階建てのビルの天辺から足を踏み外すのにも勇気がいる


 (死ぬのは嫌だ)

 (痛いのは嫌だ)

 (苦しいのも嫌だ)

 (恐いのも嫌だ)

 (でも生きているのも嫌なんだ)


 死ぬ覚悟を反転させるのには勇気がいる

 生き残ることを選択し続けることにはもっと勇気がいる


     56


 もしも<死>が<死>だけでありえるなら

 誰も<死>を恐れたりなどしないでしょう


 ただ<死>に至るまでの

 呪いのような生きる苦痛に耐えることを想像すると――


 ただそれだけで窒息したくなってしまうのです


     57


<死>とは無限の闇への跳躍なのか?――


 いや、そうではない――


 それでは永遠の光の彼方へと消失する

 軌道に乗ることだとでも?――


 おそらくは、そうなのだろう――


 そしてその先には神の国がある――

 聳え立つ建物の荘厳さを持った天国が――


     58

 

 狂気の馬車に乗る御者は

 傷だらけの馬に幾度となく繰り返し鞭をあて――


 自分が行くべき道の道筋すら知らず

 矢のような速さで駆けていく――


 馬の体の肉は赤く裂け

 その蹄も割れていた――


 しかし気の狂った御者には

 馬を思いやる分別などはもはやなく――


 馬が死んで倒れたあとも

 御者は地面に向かって鞭を打ち叩き――


 天に向かって昇っていく馬車に

 自分は乗っているのだという幻を見続けている――


     59


 彼は一心不乱に馬を走らせていた


 馬は黒い体に血走った眼をぎらつかせ――

 馬上の男は憤怒の形相をたたえている


 そして彼がもうひと振りと

 鞭を馬の体にあびせた時――


 暗黒しかなかった辺りの野が

 突如として光に包まれた


 暗黒に馴れすぎていた彼の双眸は視力を奪われ

 馬は馬で怯えたように棹立ちになった――

 

 彼は馬から振り落とされた

 馬は光の彼方へ走っていった


 そして彼は前面を愛の光の壁に

 両横の面を希望の輝きに包囲された――

 後ろにあるのは彼がこれまでに経験してきた絶望だけ――


 彼はもはや戦おうとは思わなかった

 腰に帯びている剣を鞘から抜く気力すらなかった

 そしてただ自然と忘れてしまったのだ――

 自分が何をあれほど憎悪していたのかを――


 ひとたび、愛の衣に包まれてしまうと――


     60


 飢え渇き傷つき、疲れ果てた心よ

 わたしはおまえのために一体何をしてやれよう


 もはやどのような美酒をも

 おまえのひび割れた唇は受けつけまい

 どのように美味なる果実でも

 おまえの破れた腹には届くまい


 それにおまえはあまりにも傷つきすぎた

 どのような治療薬も軟膏も包帯も

 今のおまえの荒れ果てた心を包み込むことなどできはしない


 今のおまえに必要なものはただひとつだけ――

 苦痛を終わらせるための<死>という名の特効薬――


 それだけがおまえを癒すことのできる唯一のもの

 ただひとつの<永遠>なのだ


     61


 わたしはいつも死の陰を見つめて

 人生を歩んできた――

 死の陰――死の暗い谷間というものを


 谷底を流れる闇のほとりで

<死>はわたしによくこう言った――


<私はおまえを愛している>

<おまえを私ひとりのものにしたいのだ>

 と――


 わたしは彼に抵抗した――

<わたしを真実ほんとうに愛しているのなら

 今すぐわたしの心と体を光あふれる国へと明け渡すべきだ>

 とそう言って――


 わたしは<死>に逆らいながらも絶望していたが

 その翌日の朝早く、彼はわたしを本当に

 希望の最高峰にまで連れていってくれた――


 そしてわたしはひとりになって初めて知ったのだ

 彼が真実、本当にわたしを愛してくれていたということを――


 わたしは山を降って下りてゆき

 彼にお礼を言いにいこうと思ったが

 谷底を流れる川のほとりに

 彼はすでに存在していなかった


 わたしは思った

 わたしはもう死ぬまで二度と彼には会えないのだと――






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