第六章 家出少女
家に帰ると、そこには家はなかった。ただ家があった形跡だけがあって、カヅキは途方に暮れた。黒く焦げた柱が、家の残骸だけが目に入って、そこには何も使える物は残ってはいなかった。普段使っていた道具も、普段使っていた小物も、食器も何もかも、焼けたか壊れたか。そこにはただそこに家があったという残骸だけが残されていた。
「おばあちゃん。おばあちゃん、どこ?どこに行ったの?」
「ここには誰もいないよ。おばあちゃんは遠くへ行ったんだ。カヅキ、お前は本当の家に帰るんだよ。」
「本当の家?」
「そう。お前の本当の家族がいる、本当の家。」
そうして手を引かれ連れて行かれた場所は・・・。
ふと目が覚めて、カヅキは知らない場所だと思った。ここはどこだろう?身体が重いし、目が霞む。
「目が覚めたか?」
そう優しく響く声がして、誰かが額に乗せられていた布をそっととった。
「随分とうなされていたようだけど、恐ろしい夢でも見てたのか?」
そう言いながら、誰かが額に優しく冷たく濡らした布を置いた。
「うーうん。お兄ちゃんがお迎えに来てくれて、お兄ちゃんが本当のお家に連れてってくれる夢を見たの。でも本当のお家がどんなところか解らなかったな。それに、やっぱりおばあちゃんは遠くに行っちゃっていないんだって。あと、お迎えに来てくれたお兄ちゃん、お兄ちゃんだったけど、なんかちょっと違う気がして何か変だった。わたしの知ってるお兄ちゃんなのに、お兄ちゃんがわたしを連れてくお家がやっぱりあの家な気がして、ちょっと怖かった。あの時お迎えに来たのが本当にお兄ちゃんだったら、わたしをあそこに連れて行くわけないよね。ね、お兄ちゃん。」
今自分が見ているのが夢か現か解らなかった。ぼやけた視界の先にいるこの人が本当にお兄ちゃんなのかどうかも。でも、カヅキにはそこにいる人が、自分の看病をしてくれているこの人が、小さい頃に離ればなれになったお兄ちゃんだと思った。
「お前はそんなにあの家が嫌いか?どうしても帰りたくないのか?」
「あの家はなんか冷たい。それに、あそこにいるのは寂しいよ。」
「でも、あの家に帰れば何不自由なく過ごせる。」
「何不自由なく過ごせるってどういうこと?わたしにはよく解らない。わたしはあそこにいるより外にいたい。夏樹の言ってたわたしの知らない世界に出て、わたしの知らない楽しいことをわたしは知りたい。ねぇ、お兄ちゃん。また一緒に暮らそうよ。おばあちゃんとお兄ちゃんとわたしで。今度はあんな山の中じゃなくて、街の中で一緒に暮らそう。わたし、友達ができたんだ。色んな事教えてもらったの。それでね、次に会ったらもっと沢山色々教えてくれるんだって。街で暮らせば夏樹とも普通に会える。家族と、友達と、どっちか選ばなくてもいいでしょ。だからさ、ここで一緒に暮らそう。」
そう言って、カヅキはそこにいる人物に手を伸ばした。伸ばした手を取ってその手を両手で優しく包んで、その人物は何かを言った。その人が何を言ったのか聞き取れなくて、でもその人が自分が望む答えをくれなかった気だけはして、カヅキは酷く寂しい思いがした。霞む視界が、重くなった瞼に遮られていく。そして。再び目を覚ましたとき、カヅキはそこに独りぼっちだった。
「夢、だったのかな?」
そう呟いて、自分の額の布をとってカヅキは起き上がった。お兄ちゃんがいてくれた気がした。それは幻だったのかもしれない。でも、確かに誰かが看病をしてくれている。誰が?ここは知らない場所。自分の知らないどこかの部屋。眠る前、そこにいた誰かは確かにお兄ちゃんだった気がする。お兄ちゃんは最後になんて言ったんだろう。解らない。わたしが伸ばした手を取ってくれたのに、でもお兄ちゃんはわたしを引き離した気がする。何で?解らない。
「お兄ちゃん。また、どっかいっちゃったの?もう戻ってこないの?あの時はおばあちゃんがいてくれたけど、今はもう誰もいないんだよ。お兄ちゃん。置いていかないで。」
そんな言葉が口をついて出て、カヅキは立ち上がり、ふらついて倒れそうになった。踏ん張って、踏みとどまって、一歩一歩歩き出す。相変わらず視界が霞んでいる。身体が重くて、足下がふらつく。それでもカヅキは歩いた。歩いて、外に出て、街ゆく人ゴミの中にお兄ちゃんの背中を見付けて・・・。
「お兄ちゃん!」
精一杯声を張り上げて、お兄ちゃんに置いていかれないように、その背中に手を伸ばして・・・。
「おい。大丈夫か?」
誰かの声が聞こえ、霞む視界の先で、心配そうに自分を覗き込むお兄ちゃんの姿が見えた気がした。暫くして、遠くからサイレンの音が聞こえてくる。この音は、何だったっけ。これは・・・。
「いえ、倒れたてきたとき受け止めたのでどこも打っていませんが、すごい熱で。意識はあるみたいですがはっきりしていないみたいで、声かけてもちゃんとした返事が・・・。」
誰かが話している声が聞こえる。
「お願いします。」
そう言う声が聞こえて、自分を抱き留めていた誰かが自分を違う誰かに引き渡して、カヅキは置いていかれる不安に駆られてその誰かの手を握っていた。
「お兄ちゃん、行かないで。」
せっかくまた会えたのに。もう離ればなれになるのは嫌だよ。お願い、傍にいて。そう願って、カヅキは意識を手放した。
○ ○
「これ、誰ですか?」
西口和実のその質問に、三島健人は眉間に深くしわを寄せて知らんと答えた。
「知らんって。三島さん。それって凄く問題が・・・。」
「しかたがないだろ。俺だってどうしてこんなことになったのか解らないんだ。」
「解らないって、何がどうしたら寝てる女の子連れて帰ってくることになるんですか?通報されたらお終いですよ。」
「じゃあどうすれば良かったって言うんだ?急に倒れ込んで来られて、声かけても返事しないし、凄い熱だし。救急車呼んで、救急隊に引き渡したら手握られて、お兄ちゃん行かないでだぞ。そのままずっと手を離してくれなくて。熱に浮かされてなんか譫言ずっと言ってたから声かけてたら、本当にこいつの兄と勘違いされるし。身内じゃないって言ってるのにそのまま病院でも身内扱いされて、処置が終わったら、ただの疲労からくる熱で休めば良くなるからって連れて帰るように言われるわ。妹さんダイエットしてるのかもしれないけどちゃんと食べなきゃダメだって伝えて下さいねとか言われて、医療費払わされるわ。だから身内じゃないって言ってるのにあいつら全然人の話聞かないで・・・。」
そう言って頭を抱える三島を見て、和実はそんなことってあるんだと思った。ちゃんと確認せずに意識のない女の子を男性に引き渡すとかその病院怖いな。なにかあったらどうするんだろ。そんなことを思って和実は談話スペースのソファーに横たわる女の子をしみじみと眺めた。多分、未成年だよね。十五・六歳くらいかな?それにしても凄い綺麗な子だな。顔ちっちゃ。まつげ長。ん?この子、わたし見たことあるかも。この着物なんか見覚えがある気が・・・。
「あー。この子。桜が咲いてた頃よくここの桜見に来てた子だ。」
「じゃあ、ここの近所の奴か?」
「どこの子かは知らないけど多分そうだと思います。」
それを聞いて三島がホッとした顔で、なら本人が起きれば問題ないなと言って、和実はだと良いけどと心の中で呟いた。
三島が去った後、和実は一人女の子に付き添っていた。心地よさそうに寝息を立てる女の子を見て、熱は下がったみたいで良かったなと思う。家に問題がないなら、高熱で外に出歩くことなんてないんじゃないかな。熱に浮かされて、近くにいた人の手を取って行かないでなんて言わないんじゃないかな。この子にとって家に帰ることが良いことなのかな。こんな綺麗な着物を着て、着飾って。いつも一人で桜を見に来ていた。一人で桜の下で鼻歌を歌いながらくるくる回っていた。そうやって桜の花びらと舞い踊ってる姿は楽しそうだったけど、これくらいの年の子がそれが楽しいなんて、それが楽しくて毎日のように来るなんて、それって普通じゃないんじゃないかな。そんなことを考えて、実際家になにかあるとしても自分にはどうにもできない問題かと思って、和実は心の中で溜め息を吐いた。起きたら話しを聞いて、家に帰す。それだけ。でも、本人が帰りたくないと言ったら?家を教えなかったら?どうしたらいいんだろう。
「おい。管理人さん、大丈夫か?」
そう声を掛けられて、和実は目を覚ました。
「あ、いつの間にかわたしも寝ちゃったんだ。」
「疲れてるんじゃないか?」
「あー。そういえばここのところ、今まで松岡さんがしてくれてた処理とかそろそろ自分でしてみろって言われて慣れない書類と格闘してましたから。そんなに疲れてる気してなかったですけど、思ったより疲れてたのかもしれないです。」
「慣れないことすると気が疲れるからな。あまり根を詰めないでちゃんと休めよ。俺は人当たりが良いわけじゃないからものを頼みづらいのかもしれないが、できることがあれば手伝うから、たまには頼れ。こないだみたいに大荷物があるときは呼んでくれれば荷運びくらいする。管理人さんはちょっと一人で頑張りすぎだ。自分の仕事だからなんて気負わず頼れるところは頼った方が良い。特に力仕事なんて、ここは男ばっかなんだからそこら辺にいる奴捕まえてやらせればいいんだよ。」
そう三島に酷く真面目な顔で言われて、和実はありがとうございますと言って微笑んだ。三島さんってちょっと取っつきにくいというか、怖い印象あったけど案外優しくて良い人だなと思う。
「あと、いいかげん敬語は止めてくれないか。他の連中には普通に話すのに、俺と光にはいつまでもさん付け敬語ってどうなんだ?おかげでなんか管理人さんが後輩に見えて、いつの間にか管理人さん相手にこんな感じになってて。時々、ふと、そういえばこの人俺より年上だったって思って、年長者になにしてんだろって自己嫌悪に陥ることがある。」
深刻そうな顔でそう言う三島を見て、それがちょっと可笑しくて和実は思わずぷっと吹き出してしまった。
「笑い事じゃない。」
「すみません。いや、なんか三島さんと香坂さんって落ち着いてて全然年下に見えないから、つい。でも、それでそんなこと考えて悩んでたのかと思うとちょっと意外というか、何というか。わたしはこんなですから、年長者として敬ってもらわなくても大丈夫ですよ。気にしないでください。」
そう言うと三島が眉間にしわを寄せて困ったように唸って、和実は今度から気をつけるねと声を掛けた。実は香坂さんはおまけみたいなもので、三島さんがちょっと怖かったからさん付け敬語のままだったなんて言ったら落ち込むんだろうななんて考えて、和実はそのことは黙っておこうと思った。とりあえずさん付けやめて皆と同じように君付けで呼んでみようかな、なんてことを考えていると、ソファーで眠っていた女の子が身を捩って起きる気配がして、和実はそちらに意識を向けた。
女の子がぼんやりした様子で目を開けて、そのままの様子で視線を周囲に向けて、不思議そうに和実を見上げた。まだぼんやりした様子で状況が解らず戸惑っている様子の女の子に何を話せば良いのか解らず、和実はお茶飲む?と訊いて、キッチンからお茶とコップを持ってきて女の子に渡した。
「ありがとう。」
女の子がそう言って笑って、渡されたお茶を飲む。そして、少し考えるように黙り込んで、女の子が口を開いた。
「お兄ちゃんは?」
「お兄ちゃん?」
「お兄ちゃんがずっと付き添っててくれた気がする。」
そう呟いた女の子に、三島が答える。
「悪いな。付き添ってたのはお前の兄じゃなくて俺だ。熱で浮かされてずっと譫言言ってたから。俺が付き添ってたのは救急車に乗せてからここに連れてくるまでの間だが。あとはずっと管理人さんが付き添ってくれてた。」
それを聞いた女の子が寂しそうに、そっかと呟いて、二人にありがとうと笑顔を向けた。
「熱で倒れたみたいなんだけど、覚えてる?」
そう訊くと、女の子が首を横に振った。
「良く覚えてないけど、なんか身体が重くて起きられなくて。気が付いたらどっか知らないとこにいて。お兄ちゃんが看病してくれてた気がする。あれは夢だったのかな?起きたらお兄ちゃんいなくて、置いてかれちゃうと思ってそれで・・・。気が付いたらここにいた。」
「家で寝てて気が付いたら知らないところにいたの?」
「うーうん。寝てたのそこら辺。」
「そこら辺?それってどこ?」
「よく解んない。なんかどっか寝れそうな場所。」
何だそりゃ。そこら辺の何かどっか寝れそうな場所って、それって・・・。そう思って、和実は、もしかして野宿してたって事?と訊いていた。
「野宿?」
「えっと、こういう家の中じゃなくて外で寝泊まりすることなんだけど。」
そう言うと女の子がなるほどと言う顔をして、うん、野宿してたと言ってきて、和実は嘘でしょと呟いた。こんな格好で、まさかキャンプな訳ないし。そもそもここら辺キャンプ場なんてないし。
「お前一人でか?誰か一緒だったのか?」
「わたし一人。」
「どうして野宿なんかしてたんだ?」
「友達に会いたくて遊びに来たんだけど、夏樹、住んでた場所にいなくて。違う人がいて。その人にここには夏樹なんて人はいないって言われたから、どこにいったのかなって探してた。見つからないから、ずっとそこら辺で寝泊まりしながら探してた。」
「お風呂とかご飯はどうしてたの?」
「んーと。川で水浴びして、ご飯は適当に食べれる草とか食べてた。なにも持ってなかったから狩りはできなくて、鳥とか動物は捕まえられなかったから。でも、おばあちゃんがお肉は生で食べちゃダメだって言ってたから、どうせ捕まえても食べられなかったのかも。街の中は山と違ってあんまり食べれるものがなくてお腹すいたな。」
「お前は野生児か。」
「そう言う問題じゃなくて、女の子が一人で野宿とか、そこら辺の川で水浴びとか危ないでしょ。いったいいつからそんなことしてたの?どっから来たの?」
「んー。いつってよく解らない。桜が咲く頃?どっからって解らない。なんとなくこっちの方って思ってひたすら歩いてきたから、帰り道も解らない。」
「住所は?住んでた街の名前とか。」
「住所?街の名前?何それ。解らない。」
嘘をついてる風でもなくそう言って首を傾げる女の子を見て、三島が深く溜め息を吐いた。桜の咲く頃から野宿してたってことは、ここに遊びに来てた頃にはもう野宿だったわけだから、きっと近所の子じゃないんだよね。そんなことを考えて和実は頭を悩ませた。
「ところで、あなたお名前は?」
「カヅキ。」
「カヅキ?それって名前だよね。名字は?」
「名字って何?」
「え?名字っていうのは、家の名前というか何というか。家族とか家系を表す物で・・・。」
「家系?よく解らない。わたしの家族はおばあちゃんとお兄ちゃんで。お兄ちゃんはわたしが小さい頃にどっか行っちゃってずっと帰ってきてくれなくて。おばあちゃんもどっかいっちゃった。」
「どっかいっちゃった?じゃあ、カヅキちゃん一人でずっと生活してたって事?」
「えっと。友達の家から帰ったら怖いおじさんがいて、そのおじさんがおばあちゃんは遠くに行っちゃったんだってもう帰ってこないって言ってて。それで、そのおじさんに連れてかれて、なんかずっと部屋に閉じ込められてた。部屋から出してもらえるようになったけど、家の外には出ちゃダメだって言われて、出してもらえなくて。嫌だったから、窓から外に出て夏樹に会いに来ちゃったんだ。」
それを聞いて、和実は頭を悩ませた。話しだけ聞くとなんか誘拐されて監禁されてて自力で逃げ出してきたようにも聞こえるけど。この様子だし、この子知的に遅れがあって、一緒に住んでたおばあちゃんが何かの理由で一緒に暮らせなくなって他の親戚の家に引き取られたけど、それを本人はちゃんと理解できなくてって可能性もありそうな気も・・・。
「管理人さん。警察に届けた方がいいんじゃないか?」
そう三島に耳打ちをされて、和実はそうですねと答えた。捜索願とか出てるかもしれないし。警察に伝えといた方がいいよね。でも、その前にもう少し話しを聞いてみよう。そう思って和実はカヅキに話しかけた。
「ねぇ、カヅキちゃん。カヅキちゃんって、年はいくつ?今、何歳かな?」
「二十歳。」
「二十歳?本当に?」
「うん。わたしが生まれた時、満開の桜が月に照らされて煌々と光り輝いてたんだって。だから、桜が満開に咲いたらわたしは一つ年をとるんだ。毎年桜が咲いたらおばあちゃんがご馳走作ってくれてお祝いしてくれたから。あの家に行ってからお祝いしてくれる人はいなくなっちゃったけど、窓から見える桜を見てわたしちゃんと数えてたから。だから、わたしは二十歳。」
それを聞いて和実は、何かその話しどっかで聞いたような気がするななんて思い、そしてふとここでお花見をした日に見た非現実的な光景を思い出して、あの屋根の上でハッピーバースデイ歌ってたのこの子か、と思った。見間違いだと思い込もうと思ってたけど、これでわたしは二十歳って元気に言ってた声とカヅキちゃんの声って同じ気がする。でも、二十歳か。それが本当だとしても全然そんな年に見えない。まだ実は小学生って言われた方が最近の小学生って発育いいんだねで納得できるのに。やっぱりこの子、何か障害があるのかな。それなら自力でなんとかって難しいだろうし、もし家族が見つからなかったら。そう思って和実はなんとも言えない気持ちになった。
「カヅキちゃん。今おじや作ってあげるから、それ食べたら一緒に警察署行こうか?」
そう声を掛けると、うんと元気に返事が返ってきて、和実は小さく笑った。そして三島を見て、三島君も付き合ってくれる?と声を掛けた。
「見付けた状況とかはやっぱ三島君の方が詳しいし。それに、一人より二人の方が心強いかなと思って。」
そう言うと三島が別に構わないと返事をくれ、和実はおじやを作るためにキッチンに向かった。警察に行ってそれで、それからどうするんだろ。すぐ家族がみつかればいいけど、そうじゃなかったら?未成年ならともかく、本人の話が本当で成人してるなら、どっか保護してくれる施設ってあるのかな。でも保護してくれる施設があってもなんかすぐ逃げ出しちゃいそうな気がするし。それでまた路上生活とかなったら。こんな綺麗でかわいい子、今まで無事だったのが不思議なくらいで何か酷い目に遭っちゃう可能性だってあるわけで・・・。
「ねぇ、カヅキちゃん。もし行く所がなくて外で寝泊まりするくらいならさ、ここに住む?一つ部屋が空いてるし、倉庫に布団もあるからさ。」
カヅキにそう声を掛けて、三島にはぁ?と声を上げられる。
「管理人さん、それはちょっと。」
「いや、すぐ家族が見つかれば良いけど、もし見つからなくて行き場がなくてまた野宿なんてさせたら危ないじゃん。別にずっとって訳じゃなくて。警察に届けて、とりあえずここで保護しながら今後のこと考えていくような感じで。ちゃんと行く場所が見つかるまでの間の仮の住処としてここを提供するのはどうかなってさ。わたしが責任とって面倒見るから。お願いします。」
そう言って顔の前で両手を合わせて、もう一度お願いと押してみる。そうすると三島が心底呆れたように深い溜め息を吐いて、好きにすれば良いだろ、と言った。
「他の連中がなんて言うかは知らないし、反対されても俺は説得に協力しないからな。」
そうぼやく三島に、ありがとうと伝える。
「そういうことで、カヅキちゃんどうかな?ここでわたしやこのお兄さんと。他にも何人かいるんだけど、みんなと一緒に暮らさない?みんな優しくていい人達だよ。カヅキちゃんのお家が見つかるまで、お外じゃなくてここに住んでみない?」
そう言うと、カヅキがわたしのお家と何か考えるように呟いて、暫く黙り込んで、それから、顔を上げて夏樹探しに行っても良い?と訊いてきた。
「好きにしていいよ。」
「なら、ここに住む。」
そう満面の笑顔で答えるカヅキを見て、和実はじゃあお布団干さないとねと言って笑った。
○ ○
「遙ちゃん、遙ちゃん、遙ちゃん。」
慌てた様子で部屋に入ってきて自分の名前を連呼する楠城浩太に柏木遙が冷めた視線を向けた。
「何?うるさいんだけど。」
「下。今下に。下にさ・・。」
「下がどうかしたの?」
「カヅキちゃんがいた。」
「カヅキってお前が一目惚れしたっていうあの?なんで?」
「解らないよ。どうしよう。遙ちゃん、俺どうしたらいい?」
「知らないよ。」
「そんなこと言わないでさ。遙ちゃん。食堂の前通るときドアが開いててさ、中にカヅキちゃんがいて。吃驚したけど、ついいつも通りただいまって言って荷物置いてくるってこっち来ちゃったんだけど。どうしよう。どうしたらいい?ねぇ。遙ちゃん。」
そう言って泣きついてくる浩太に呆れたような視線を向けて、遙はとりあえず落ち着きなよと声を掛けた。
「普通に考えて誰かの知り合いだったんじゃないの?なんか部活の合宿で暫く留守にするって言ってたから一臣が連れてきたって線はないだろうけど。実は誰かの彼女だったりしてね。」
そんな遙の言葉を聞いて、浩太がそんなと崩れ落ちた。
「下行って訊きゃいい話でしょ。ほら、ついてってあげるから、さっさと制服から着替えなよ。」
そう言われて浩太が少し顔を上げる。
「ねぇ、本当に誰かの彼女だったら俺どうすれば良い?」
「知らないよ。諦めるしかないんじゃないの?それか奪うか。」
「奪うって・・・。」
「下に誰がいたの?」
「管理人さんと、片岡さん、三島さん、香坂さん。」
「あー。誰の彼女でも浩太の勝ち目なさそうだね。ここはすんなり諦めろ。」
「うー。もし誰かの彼女なら諦めるしかないのは解るけど。解るけどさ。ちょっと暫く立ち直れないかも。お願い、遙ちゃん。ちょっと確認してきて。」
「何女々しいこと言ってんの。そういうことは自分で確認しな。ほら、さっさと私服に着替えて行くよ。」
そう促されて、のろのろ着替え、それでもムリだのそんな勇気ないだのうだうだ言って中々動き出さない浩太を、遙は溜め息を吐いて、男でしょ腹決なよと言って引っ張って連れて行った。
「何か浩太が凄いかわいい子が下にいたって言ってうるさいんだけど、どういうこと?」
結局、食堂に近づくまでにうだうだしている浩太を尻目に遙が食堂のドアの所から中に声を掛けた。
「は、遙ちゃん・・・。」
「うるさい。本当、面倒くさい。」
そう言って、たじろいだ浩太を引っ張って中に入る。
「あ、浩太。」
浩太を見付けたカヅキが嬉しそうにそう言って、皆の注目を集めて浩太はたじろいだ。そんな浩太にお構いなしにカヅキが浩太に駆け寄ってくる。
「あの、浩太。わたし浩太に謝らなきゃいけないことがあるんだ。」
シュンとした様子でそう言われて、浩太は何のことだろうと思って色々考えてしまい、うわずった声で、何?と聞き返した。
「あのね。浩太からもらった履き物、大切にするって言ったのに壊れちゃって。もらってからまだそんなに経ってないのに履けなくなっちゃって・・・。ごめんなさい。」
本当に申し訳なさそうにそう言うカヅキを見て、何だそんなことかと思ってホッとする。
「大丈夫だよ。あれ百均のだし、元々壊れやすかったんだって。ってか、壊れるまで履いてくれただけで充分だよ。元々、俺そんなつもりじゃなかったし。長く使ってもらうつもりならもっとちゃんとしたの買ってるから。本当、俺はあれがちょっとでもカヅキちゃんの役に立ったなら嬉しいからさ。謝らないで。」
そう言うとカヅキが、本当?と訊いて、ありがとうと笑顔を向けてきて、浩太はその笑顔に見とれてぼうっとした。横で遙がへーと薄ら笑いを浮かべながら脇腹をつつくが、そんなことは全然意識に入らない様子で何も反応しない。惚けて戻ってこない浩太を尻目に遙がカヅキに話しかける。
「俺、浩太の幼馴染みで柏木遙。よろしく。」
そう声を掛けられてキョトンとするカヅキに遙は続けて話し掛ける。
「カヅキってさ、男みたいな名前だよね。本名?」
「音にするとアレだけど、字だと花に月で花月って書いてかわいいんだよ。生まれた時、満開の桜が月明かりに照らされてとても綺麗だったからこの名前になったんだって。」
「なんで管理人さんが答えるの?」
そう遙に冷たい視線を向けられて、和実は言葉を詰まらせた。
「いや。あ、そうだ。二人にも紹介するね。この子はわたしの遠い親戚で花月ちゃん。ちょっと事情があってしばらくの間ここで暮らすことになったからよろしくね。」
そう言葉にして、遙にじとーっと見つめられて和実は冷や汗をかいた。
「え?花月ちゃん、管理人さんの親戚だったの?で。え?えー?花月ちゃん、ここで暮らすの?マジで?嘘。え?嘘。本当に?」
そうパニクる浩太にちょっと落ち着けと声を掛けて、遙が冷たい視線を和実に向けた。
「嘘だよね?」
「え?嘘なの?」
「ちょっと、浩太は黙ってて。」
「いや、遙ちゃん。なんで嘘って思うの?」
「いや、逆に何でこれで信じ込むんだよ。どう見ても管理人さんの挙動おかしいでしょ。それに管理人さんが話してる後ろで湊人が笑い堪えてるし。」
遙のその言葉を聞いて、和実が振り返って恨めしそうに片岡君と呟いた。
「いや、だって。そもそもあの入りはないっすよ。無理矢理いき過ぎっすって。なんていうか管理人さんの必死さが何か・・・。すみません。」
「やっぱ、健人の従姉妹設定の方が良かったんじゃない?健人、花月ちゃんのお兄さんに似てるらしいし。」
「却下だ。にしても、管理人さんのあの大根っぷりはないだろ。片岡じゃなくてもアレはちょっと笑う。」
「そんな、三島君まで・・・。」
「アレで騙されるのなんて浩太くらいだから。」
「遙君も・・・。」
「で?なんでそんな嘘ついたの?」
そう遙に話しを戻されて、和実は唸った。
「なんて言うか。ノリ?」
「何それ。」
「いや。実は・・・」
そう言って和実は二人に事情を話し始めた。
「・・・で、暫くここで保護することにしたんだけど、皆にどう説明しようって話しになって。それがどんどん脱線して、なんか嘘の説明でどこまで皆を騙しきることができるかみたいな、変なノリになって。わたしムリだって言ったのに、花月ちゃん保護するって決めたのわたしなんだからわたしがやれって言われて。なんか皆で色々設定考えてたら二人が降りてきて・・・。」
「いい大人が何してんの。バカじゃないの。」
「すみません。」
勢いで謝って、和実は何でわたしだけ怒られて謝ってるんだろうと思った。わたしより皆の方がノリノリだったじゃん。いや、わたしが一番年長者で管理人で責任者なんだから当たり前なんだろうけど。だけど、何か納得いかない。
「どうでも良いけどさ。五号室使わせちゃって良いの?あそこも住人入れないとここの経営キツいんでしょ?いくら一時的の予定とは言え、花月いる間に入居希望者が来たらどうするの?」
冷静にそう遙に突っ込まれて、和実は言葉を詰まらせた。それを見た遙に呆れたように溜め息を吐かれていたたまれない気持ちになってくる。
「その時になったら考えます。」
そう言って、遙に呆れたような視線で見下ろされて和実は視線が合わないように目を逸らした。
「ただいま帰りました。って、あれ?その人。」
そんな風間祐二の声が聞こえて、彼が食堂に入ってくる。
「あ、やっぱり。あの時の。お久しぶりです。あの時は話し聞いてくれてありがとうございました。俺、あれから夢を叶えるために進学することに決めまして・・・。」
そうやって一方的に花月に話し始める風間を見て、和実が風間君も花月ちゃんの知り合いなの?と訊いた。
「え?いや。知り合いって程じゃないんですけど。ほら俺、新学期始まったばかりの頃、進路で悩んでたじゃないですか。あの時は本当に深刻に思い詰めてて、皆が楽しそうにしてるの見るのが辛くて、ちょっとここにまっすぐ帰らずに一人でうじうじしてて。その時に彼女が心配して声をかけてくれたんですよ。それで、まだ諦めるのは早いのかなって思えて・・・。結局、帰ってきてからまたうじうじしちゃって遙君や片岡さんに迷惑掛けちゃいましたけど。あの時、俺が一歩踏み出そうって、変わろうって思うきっかけになったっていうか、彼女は俺の背中押してくれた人なんです。」
そう言ってはにかんで笑う風間を見て、和実はそうなんだと呟いて、彼にも事情を説明する。一方で遙が浩太をつついて耳元で思わぬ所にライバル出現かもよとからかうように言って、浩太が反論してそれをまた返されて顔を真っ赤しにして、二人が小さな声で言い合いをしていた。
「そういえば藤堂は?」
「耀介なら部屋で勉強してるんじゃないっすか?あいつ、ああ見えて真面目っすから。中間テスト近いって言ってたし。」
「へー、意外。でも真面目に勉強してるのに浩太と同じバカ高にしか行けない辺り、浩太以上に救いようがない気がする。」
「それは本人も自覚してるから言ってやるなよ。自分は頭悪いからちゃんと勉強しねーと卒業もできねーって言って、本人必死なんすから。でも案外、真田も勉強ダメで。こないだなんて、俺もそんなに頭良くないからなとか言いながら真田が耀介の勉強見てて、こういうのは気合いで丸暗記すればなんとかなるんじゃないかとか言ってて、耀介もそうかなんて鵜呑みにして必死に教科書読み込んでて、こりゃダメだって思ったっす。四号室はチーム脳筋っすよ。」
「へー、そうなんだ。今度ちょっと耀介の勉強の様子覗きに行ってみようかな。頑張っても身にならないのは可哀相だからコツを教えてあげてもいいしね。耀介の方が学年一つ上だけど、逢坂高校の授業なんかどうせたいしたことないからきっと俺でも教えられる。」
そう言って遙がちらりと浩太に視線を向ける。
「浩太も少しは見習ったら?っていうか、耀介の爪の垢もらって煎じて飲んだほうがいいんじゃない?」
そう言われて浩太がうっと言葉を詰まらす。
「花月も苦手な物から逃げてゆくゆく自分追い詰めるより、ちゃんと真面目に頑張った方がいいと思うよね?」
急にそう話しを振られて花月は疑問符を浮かべ首を傾げた。
「よく解んないけど。後で大変になるならちゃんと頑張った方がいいと思う。」
「ほら、花月もこう言ってるよ。花月、ちょっと浩太に何か言ってやってよ。こいつ遊んでばっかでやんなきゃいけないこと全然やらないんだよ。」
「え?何か。何か・・・。」
そう考え込んで、花月が浩太に笑顔を向ける。
「よく解らないけど。浩太、頑張れ!わたし、浩太がちゃんと頑張れるように応援する。」
そう言われて、その笑顔にまた惚けて、浩太は思わず、うん、頑張ると答えていた。横で遙がニヤニヤしながら頑張るって言っちゃったからには頑張らないとねと言ってきて、モヤモヤする。
「なんか花月の奴、もうここに馴染んでるな。」
「本当、前からいたみたいだね。」
「っていうか、完全に遙のペースっすけどね。正直、遙がもっと反発するんじゃないかって思ってたんすけど・・・。」
「何?何か言った?」
「別に、何でもないっす。」
「・・・腹減った。」
急に藤堂の声が入って来て、皆がそちらを向いた。
「もうこんな時間っすか。悪い、すぐ作るから。」
「すんません。マジで腹減ったから、できれば本当にすぐ食える物がいいっす。」
「了解っす。今日は簡単にできる物にするから。ちょっと待ってろ。」
そんな会話をして片岡がキッチンに消えていく。
「花月の存在スルーしてそれって、さすが耀介。」
その遙の呟きに藤堂があぁ?と怪訝そうな顔をして、あぁとようやく花月の存在を認識する。
「ちっせーから気付かなかった。」
「嘘でしょ。」
「飯のことしか考えてなかった。」
「だと思った。」
「えっと、今日からここに住むことになった花月です。よろしくお願いします。」
恐る恐ると言った様子でそう言ってぺこりとお辞儀する花月を一瞥して、藤堂が短く、藤堂耀介だよろしくと答える。
「わたしちゃんと挨拶できてた?」
そう訊かれて、藤堂は意味が解らずあぁと答え、それを聞いてぱーっと顔を輝かせて笑う花月を見てたじろぐ。
「お前、俺のこと怖くないのか?」
「怖くないよ。なんで?」
「いや、別に・・・。」
そう言葉を詰まらせて、藤堂は目を逸らした。
「お姉ちゃん。ちゃんと挨拶できたって。」
「良かったね。」
「他の人にも会ったらこうやって挨拶すれば良いの?」
「あと、会ってないのは真田君だけか。じゃあ、真田君が合宿から帰ってきたら、挨拶しようね。あと、敬語もおいおい覚えていこう。」
そう言われて、うんと元気に返事して、花月はハッとして、わたしみんなにちゃんと挨拶してないと呟いた。そして皆が見えるところに移動して、
「今日からここで暮らすことになった花月です。よろしくお願いします。」
元気な声でそう挨拶をして、皆に満面の笑みを向けた。
○ ○
「花月ちゃん何見てるの?」
談話スペースのソファーで絵本を広げて眺めていた花月にそう声を掛け、香坂は隣に座った。
「倉庫のお掃除してたらこれがあったの。この絵好きだなって思って出してきちゃった。」
笑顔でそう言う花月に断って香坂は絵本を受け取った。
「こんな絵本見たことないな。うちの演劇部に童話とか絵本が好きな奴がいるから、けっこう詳しくなった気でいたけど、かなりマイナーな絵本なのかな?」
そう言いながら表紙を見て、香坂は疑問符を浮かべた。
「ゆうきのはな。西口和実作。これって管理人さんのこと、だよね。管理人さんって絵本出版してたんだ。知らなかった。」
「ねぇねぇ光。絵本って何?」
「こういう絵でお話がすすんでいく本のことだよ。花月ちゃんは小さい頃に見たことない?」
「うん。見たことない。わたしの家、本なかったから。」
「そうなんだ。」
そんな会話をしながら、香坂は絵本のページをめくり、それを花月が横から覗き込んだ。。
「元気な女の子が主人公みたいだね。お母さんに見つかると遊んでばかりいないで勉強やお手伝いしなさいって捕まっちゃうから、お母さんに見つかる前にこっそり遊びに行っちゃおうなんて、まるで浩太君みたいな子だね。」
「浩太?浩太もそうなの?」
「うん。いつも遙君に小言言われてて、こっそり逃げ出して遊びに行ってるよ。」
「そうなんだ。」
そんな風に話をし、内容を掻い摘まんで聞かせながら香坂がページをめくっていく。
「光。なんでお母さんとペスは喧嘩してるの?」
「お母さんが大切にしてた花瓶をチイちゃんが割っちゃったのに、お母さんがそれをペスがやったって勘違いして怒っちゃって、ペスは自分はやってないのに怒られたから嫌な気持ちになって怒ってるんだよ。」
「そっか。じゃあ、なんでチイちゃんはちゃんと謝らないの?チイちゃんが自分がやっちゃったってちゃんと謝って、ペスは悪くないって言ってあげればいいのに。なんでチイちゃんはこんな隅っこで二人が喧嘩してるの見てるだけなの?」
「どうしてだろうね。それは次のページかな。どうやらチイちゃんはごめんなさいをする勇気が足りなかったみたいだよ。」
「ごめんなさいする勇気?」
「自分が悪いことしたって解ってるんだけど、怒られるのが怖くてごめんなさいが言えなかったんだって。それで自分の代わりにペスが怒られちゃって、ペスにもごめんなさいって思ってるんだけど、本当のことを言ったらペスも怒ってチイちゃんと遊んでくれなくなっちゃうんじゃないかって思って、怖くて言えないみたい。でも、割れた花瓶を見て悲しそうにしてるお母さんを見て、チイちゃんはちゃんと謝らなきゃって思ったみたいだよ。でも、ごめんなさいを言う勇気が足りないから、お母さんとペスにごめんなさいをするために勇気の花を見付けに行くんだって。」
「勇気の花?」
「勇気の花っていうのは、その花を見付けることができれば、怖い物はなにもなし、どんなことにも立ち向かえるようになる魔法の花なんだってさ。」
「そっか。チイちゃん勇気の花を見付けてちゃんと謝れると良いね。」
「そうだね。」
そんな会話をしながら、勇気の花を探すチイちゃんの物語はどんどん進んでいき、あっと言う間に結末へと辿り着く。
「勇気の花はチイちゃんの胸の中に咲いてたんだね。フクロウのおじいさんにそれを教えてもらったチイちゃんは、家に帰ってちゃんとお母さん達に謝ったんだ。」
「ちゃんとごめんなさいして仲直りできて良かったね。」
そう言って嬉しそうに笑う花月を見て、香坂もそうだねと言って微笑んだ。
「勇気の花は見付けるんじゃなくて自分で咲かすもの、か。ごめんなさいをするために一生懸命頑張ったチイちゃんの胸にはちゃんと勇気の花が咲いてた。僕も頑張れば咲かせられるのかな・・・。」
表情を陰らせそうぼやく香坂を見て、花月は疑問符を浮かべた。
「光、どっか具合悪いの?」
そう訊かれて、香坂はハッとする。
「ごめん。ちょっと考え事。どこも悪くないよ。」
そう言って、絵本を花月に返す。
「あのさ、花月ちゃん。もしかして字読めないの?」
「字?」
「絵の横にこうやってひらがなで文が書いてあるんだけど・・・。」
「ひらがな?文?これって模様じゃないの?」
「うん。これは模様じゃなくて文字っていって、さっき僕が話してたような内容がここに書いてあるんだけど。えっと、例えば最初のページには、チイちゃんは げんきなおんなのこ。 そとであそぶのがだいすきで べんきょう おてつだいは だいっきらい。きょうも おかあさんにみつかるまえに こっそりそとに にげちゃおう。って書いてあるんだけど。」
その説明を聞いて、そうなんだと言ってしげしげと絵本を眺める花月を見て、ちゃんと読み聞かせをしてあげようかなと思って、香坂はやっぱり止めた。
「花月ちゃん。文字の読み書きを勉強しようか。そうすれば自分で絵本読めるようになるよ。」
そう言うと、花月が目を輝かせて本当?と訊いてきて、香坂は読み聞かせよりこっちが正解だなと思った。
「ひらがなが読めるようになったら次はカタカナね。その二つが覚えられればこの絵本を読めるようになるよ。花月ちゃんがちゃんと絵本が読めるようになるように、僕が教えてあげるよ。」
「ありがとう、光。嬉しい。」
そう言って心底嬉しそうに笑う花月を見て胸が暖かくなる。
「勉強する前に一回読んであげようか?」
「うん。」
そう言って、また二人並んで絵本を広げる。そして今度はそこに書いてある文字を辿りながら物語を語っていく。
「あー。それは。いったいそれどこで見付けてきたの?」
そんな和実の叫び声が聞こえて、二人は声の方を振り返った。
「あ、お姉ちゃん。これ倉庫にあったの。」
「倉庫・・・。叔母さん、これ持ってたんだ。恥ずかしい。」
「やっぱりこれって管理人さんが作った絵本なんですか?」
香坂にそう訊かれて和実はそうだけどと唸った。
「高校生の時にちょっと、絵本作って応募して一回だけ賞とったことがあって。それで、ちょっとだけ印刷されたの。それがそれなんだけど。初版だけで再版されてないし、多分初版も売れ残ったと思うんだけど。本当、恥ずかしいから見ないで。っていうか返して。」
そう言う和実に花月がもらっちゃダメ?と訊いた。
「わたし、この絵本好き。それに、光がひらがなとカタカナ教えてくれるって。ひらがながとカタカナが読めるようになったら、この絵本自分で読めるようになるって。わたし、ちゃんと自分でお姉ちゃんの絵本読みたい。」
そう懇願するように花月に見つめられて、無言の鬩ぎ合いになって。花月が諦めたように和実に絵本を渡した。
「お姉ちゃんがそんなに見られたくないなら、わたし見ない。」
心底落ち込んだ様子でそう言う花月を見て胸が痛くなる。別に責めるような視線を向けられいるわけではないが、なんとも言えない顔で自分を見つめる香坂の視線も痛い。いや、だってさ。だって。だってね・・・。
「うー。解りました。恥ずかしいけど、いいよ。花月ちゃんがそんなに気に入ったならあげるよ。絵本だってずっとしまわれっぱなしより読んでくれる人の所に行った方が幸せだろうし。」
「ありがとう、お姉ちゃん。大切にするね。」
そう満面の笑みを向けられて、和実はそんな嬉しそうな顔向けられたらさ、もう絶対返してとか言えないじゃんと心の中で呟いて、撃沈した。でも、本当に嬉しそうにニコニコしながら絵本を見ている花月を見て、ちょっと胸が暖かくなる。本当、花月ちゃんって小さい子供みたいだなと思う。感情表現がハッキリしてて、無邪気で屈託なくて、本当かわいい。ただ、これで二十歳なんだよな。本人が言ってることが本当ならだけど。どうしたらこんな風に子供のまま時間が止まっちゃって身体だけ大きくなっちゃったみたいになるんだろ。最初は障害かもって思ってたけど、花月ちゃん受け答えはちゃんとできるし、物覚えも良くて教えたことすぐ覚えるし、働き者なんだよな。最初、洗濯機や掃除機の使い方知らなくて、洗濯板の場所訊かれたり、どっから出してきたのか箒とちりとりでサクラハイム中を掃き掃除してたのには吃驚したけど、一回教えたらそれで大丈夫だったし。電子レンジとかガスコンロなんかは最初から普通に使えてたよな。一日とか一年、春夏秋冬の概念はあったみたいだけど、一ヶ月とか何年何月何日とかは知らなかったし。なんなんだろう。知ってることと知らないことの差が解らない。覚えられないんじゃなくて、本当に知らないだけで教えればちゃんと覚えられるしできるってところがまたな・・・。そんなことを考えていると、玄関の方からただいまと真田一臣の声が聞こえてきて、和実はそういえば真田君今日が合宿から帰ってくる日だったけ、真田君にも花月ちゃんのこと紹介しないとなと思った。
自室に荷物を置いて食堂に入ってきた真田が怪訝そうな顔をして、カヅキ?と呟くのを訊いて、和実は真田君も花月ちゃんと知り合いなの?と思った。その声を聞いた花月が振り向いて、嬉しそうに笑って立ち上がる。
「あ、一臣。久しぶり。一臣は相変わらず大きくて眉間にしわ寄せてて変わらないね。そんな顔してるとまた夏樹に笑われるよ。」
駆け寄ってきた花月にそう言われて、真田は苦しそうに顔を顰めて視線を逸らした。
「お前も変わらないな。相変わらずチビでガキっぽい。それで俺と同い年かよ。」
「夏樹が、一臣が老けてるんだって言ってたよ。」
「それは十七の時の話しだろ。二十歳になってもそれとか、本当、あの頃と全然変わってなくて苛つく。」
本当に苛ついた様子で花月を睨み付ける真田を見て、普段の様子との違いに和実は背筋が寒くなった。なんだろう。真田君、普段穏やかで凄く落ち着いてるのに、今の真田君は凄く怖い。いったい二人の間に何があったんだろう。そう思うが、そんな真田の様子に全くひるんだ様子なくニコニコしたまま普通に話す花月を見て、和実は意味が解らなかった。
「ねぇ、一臣。わたし、夏樹に会いに来たんだ。夏樹、わたしに、わたしの知らない世界を見せてくれるって、わたしの知らない楽しいこと沢山教えてくれるって言ってたから。居たくない場所には居なくて良いって、家にいるのがつまらなくなったら戻ってこいって言ってたから。わたし、夏樹に会いに来た。でも夏樹、家にいなくて。どこに行ったのか解らなくて。一臣はさ、夏樹がどこに行ったか知ってる?今どこにいるのか知ってる?知ってるなら夏樹のいるところに連れてって欲しいな。」
そんな花月の言葉を聞いて真田が爆発した。
「遅ぇよ!戻ってくんのが遅すぎんだよ。戻ってくるならとっとと戻ってくればよかっただろ。二、三日であいつのとこに帰ってくれば良かっただろ。遅くても春休み入る前には戻ってくれば。あれから何年経ってると思ってんだ。今更戻ってきて、それでもあいつがお前の事待ってて受け入れてくれるって本気で思ってたのか?どんだけ脳天気なんだお前は。本当、なんで今更戻って来やがった。今更あいつに会いに・・・。」
「ごめんね。遊びに来れるならわたしも遊びに来たかったんだけど・・・。」
申し訳なさそうにそう言う花月に、真田は苛ついた様子で、本当お前何にも解ってねぇと吐き捨てた。
「お前見てると本当苛つくんだよ。とっとと俺の前から消え失せろ。」
真田は鋭く冷え切った視線で花月を見下ろしドスのきいた声でそう恫喝して、困ったような顔をする花月の後ろに、恐怖し怯えたような視線を自分に向ける和実の存在に気が付いて、ハッとし、苦しそうに顔を歪めて視線を逸らした。
「ごめんね、一臣。わたし何も解ってなくて、一臣のこと怒らせちゃって。なんか凄く辛い思いさせたみたいで。ごめんなさい。でも、わたし、なんで一臣がそんなに怒ってるのか解らない。だから許してって言えない。だから、許してくれなくても良いよ。でも。お願い。夏樹が今どうしてるのか教えて。夏樹がもうわたしに会いたくないなら会いに行かないから。もう会いたいって言わないから。だから・・・。」
そんな花月の言葉を聞いて、真田はぐっと拳を握った。
「夏樹は死んだよ。俺たちが高校二年の春休み。交通事故で。」
「夏樹が、死んだ・・・?」
絞り出すように言った真田の言葉を聞いて、花月がその大きな目いっぱいに涙を湛えた。そして、それはつーっと溢れだし、止めどなく溢れてきて、ついに花月は声を上げて泣き始めた。夏樹の名前を呼びながら言葉にならない言葉を溢れだして泣き続ける花月を、真田がうるせぇと怒鳴りつける。
「黙れよ。お前はあいつ捨てて家に帰ったんだろうが。あいつといるより、ばーちゃんとこ帰るの選んだんだろ。なら、とっとと家に帰れよ。もうこっちにはお前を待ってる奴なんていないんだから。心置きなく帰って、もう二度とこっちくんじゃねぇ。」
そう言う真田を呆然と見上げ、花月は疲れ切ったように小さく笑ってまた涙を流した。悲しそうに、辛そうに、涙を流しながら何とも言えない微妙な笑みを浮かべて、花月は、わたしどこに帰ればいいの?と呟いた。そんな花月を和実がそっと抱きしめる。
「大丈夫。花月ちゃんはここにいれば良いんだよ。花月ちゃんが帰る場所が見つかるまで、ここにいて良いんだよ。」
「お姉ちゃん・・・。」
そう呟いて、花月が和実にしがみついて再び大声で泣いた。そんな花月をあやしながら、和実は真田に視線を向けた。それを受けて、真田が辛そうに顔を顰めてまた視線を逸らす。
「すみません。ちょっと頭冷やしてきます。」
そう言って踵を返した真田の背中に和実は声を掛けた。
「真田君。花月ちゃん、今ここに住んでるの。だから・・・。」
そう言う和実に真田は顔だけ振り向いて、大丈夫ですよと言ってなんとも言えない顔で笑った。
「カヅキに出てけとも、自分が出てくとも言いませんから。驚かせてしまってすみませんでした。」
そう言うと真田は食堂を出て行った。その背中を見送って、和実は花月に視線を落とす。自分にしがみついて泣き続けるその姿は本当にただの小さな子供のようで、和実は花月ちゃんは本当に心が幼いままなんだろうなと思った。幼いから、きっと真田君が言っていた言葉の意味が花月ちゃんには解らないんだと思う。そして真田君もきっと頭じゃ解ってるんだろうけど、心が追いつかないんだろうな。花月ちゃんの言っていた友達が、真田君の言っていた亡くなった友達と同じ人だとは想像もしていなかった。真田君はついこないだまでその友達の死をちゃんと受け止められずにいたままだったんだし、まだちゃんと立ち直れてないと思う。そんなまだ葛藤してる中で、その友達と仲が良かった花月ちゃんを受け入れることができなかたんだろうな。そう思う。
「花月ちゃん。夏樹君ってどんな人だったの?」
泣き疲れておとなしくなった花月にそう訊いてみる。
「夏樹はキラキラしてた。いつも笑ってて、いつも楽しそうで。でも、時々凄く寂しそうで、凄く辛そうだった。夏樹の言ってたこと、よく解らないこと多かったけど、でも、夏樹が話してるの聞くの好きだった。色々教えてくれて、色々やらせてくれて、とっても楽しくて。夏樹と一緒だと本当にとっても楽しくて、わたし家に帰るの忘れてたの。家に帰るの忘れちゃうくらい、夏樹と一緒だと楽しかった。でも、夏樹にこのままずっとここにいろよって言われて、それで、わたし家に帰るの忘れてたこと思い出した。おばあちゃんが心配してるだろうから帰らないとって思った。帰ったら、おばあちゃんに友達できたよってお話して、夏樹のこといっぱいお話して、今度はちゃんといってきます言ってから遊びにいこうって思ってた。でも、行けなくなっちゃって。わたし。ずっと夏樹に会いたかった。部屋に閉じ込められて独りぼっちでいるときも、家から出してもらえなくて辛かったときも、夏樹のこと考えれば胸が温かくなって、大丈夫だって思えた。ここから出れたら会いに行こうって。今度はずっと夏樹の所にいようって、ずっとそう思ってた。だからあの日、窓が開いてるの見て、わたし今だって。今なら外に出れるって思って飛び出したのに。でも、夏樹。夏樹は・・・。」
そう言ってまた声を震わす花月を優しく撫でて、和実は花月ちゃんは夏樹君のことが大好きだったんだねと呟いた。花月ちゃんは友達に会いに来たと言っていた。花月ちゃんが会いたがっていた友達とは夏樹君のことだけだった。そこに一緒にいたはずの真田君のことは花月ちゃんから聞いたことはなかった。今の話しを聞いて、本人が気付いてないだけで花月ちゃんは夏樹君に恋してたんだなと和実は思った。花月ちゃんが会いたかったのは友達じゃなくて、初恋の人だったんだ。そう思って、和実はなんか複雑だなと思った。きっと両思いだったのに、花月ちゃんの心が幼くて、自分の気持ちも夏樹君の気持ちも解らないまま花月ちゃんは結果的に夏樹君のことフっちゃって。花月ちゃんは夏樹君の言葉の本当の意味が解らないまま、その言葉を本当にただその言葉のままの意味で受け止めて、それを心の支えにしてきたんだと思う。でも、真田君にとったら花月ちゃんは友達をフって消えた女だもんね。それが何年も経ってからケロっとして友達の所に戻ってきたって、そりゃふざけるなって話しで。しかも本人は亡くなってるし。夏樹君と花月ちゃんの様子を近くで見てたんだろうし。夏樹君の事友達って言うより恩人だって言ってたし、花月ちゃんより夏樹君に肩入れするのは当たり前で、色々複雑なんだろうな。そんなことを考えて、和実は頭がこんがらがった。
「花月ちゃん。とりあえず、ひらがな読めるようになったら絵本だけじゃなくて少女漫画読んでみようか。」
和実はそんなことを口にして、香坂に突っ込まれた。
「管理人さん。申し訳ないんですが、ちょっと僕にはどうして今の流れで急にそんなこと言い出すのか全然理解できないんですが。」
「いや、真田君と花月ちゃんの問題って、花月ちゃんが恋愛とかそういうことよく解ってないのが原因かなって思って。だから、そう言うのってどうやって説明したら良いのか解らないし、少女漫画読んでみるのはどうかなって・・。」
そんなことを口に出して、香坂に何とも言えない視線を向けられて、和実はいたたまれなくなった。だって、それくらいしか思いつかなかったんだもん。どうしたらいいのか解らないし。本当、解らないし。
「少女漫画読めば、わたしなんで一臣が怒ってるのか解るようになるの?」
顔を上げた花月にそう訊ねられて、和実は言葉を詰まらせた。
「いや、解るようになるかは解らないけど。でも、少しは今解らないことがわかるようになるんじゃないかなって・・・。」
「じゃあ、わたし読んでみる。読んで、勉強して。今解らないことがちゃんと解るようになるように頑張る。」
酷く真剣な顔でそう言う花月を見て和実は少女漫画を真剣な顔で読見込む花月を想像してしまい、笑いそうになったのを必死で堪えた。
「わたし、勉強頑張るから。ちゃんと文字が読めるようになるように頑張るから。だから、光。よろしくお願いします。」
そう言って頭を下げる花月に香坂が優しく笑いかけた。
「そうだね。一緒に頑張ろう。僕がいなくても一人でも勉強できるように、今度テキスト用意するね。」
「ありがとう、光。わたしちゃんと毎日頑張るね。」
そう言って笑う花月を見て、和実はいつもの花月ちゃんに戻ったなと思ってホッとした。そして自分も頑張らなきゃと気合いを入れる。花月ちゃんの面倒はわたしが見るって約束だしね。それに、わたしここの管理人だし、ちゃんと住人皆が円満に過ごせるように頑張らないと。何をどう頑張れば良いのか全然解んないけど。とりあえず頑張ろう。とりあえず、折を見て真田君と話してみる事から始めてみようかな。そんなことを考えて和実は花月に微笑み掛け、彼女の頭を優しく撫でた。