第十四章 正体
「ねぇ、結子。結子はいつまで一緒にいられるの?」
ベットに横になり、布団に入って自分を見上げてそう言ってくる花月に、篠宮結子は微笑んだ。
「そうね。遅くても来年の春にはお別れしなきゃいけない時が来るわ。」
「お別れの時が来たら、その時は、急にいなくなったりしない?離れてもまた会える?」
「あなたに何も言わないでいなくなるなんてしないわ。でも、また会えるかどうかは、それは約束できない。」
篠宮のその言葉を聞いて、花月はそうと言って寂しそうに笑った。
「わたし、結子が来てくれて嬉しかった。こうやって一緒に暮らせて、凄く、凄く嬉しい。ありがとう。来年の春までいっぱい思い出作ろうね。」
そう言う花月のベットに腰を掛けて、篠宮はそっと彼女の髪を撫でた。
「来年の春までいられないかもしれないけど。そうね。いる間は、沢山思い出を作りましょう。ここの皆と。」
そう呟いて、篠宮はどこか辛そうな顔をした。
「昔ね。あるお家に一人暮らしのおばあさんがいて、おばあさんはとても綺麗で可愛らしい小鳥を飼ってたの。おばあさんは、それはそれは大切にその小鳥のお世話をしていたわ。でもね、その小鳥を籠に入れて奥の部屋に閉じ込めて、絶対に人目に触れないように隠してた。わたしはおばあさんと仲良しで、特別に小鳥を見せてもらったわ。そして、おばあさんが亡くなったらお世話をよろしくねって頼まれてた。でもね、わたしはそこに小鳥が居るって外で話してしまったの。そしたらおばあさんはカンカンに怒って、わたしを二度と家に入れてくれなかった。わたしは小鳥のことが忘れられなかった。そして、わたしは籠の中の小鳥を可哀相に思った。外の世界を知らず、一度も本当の空を飛ぶ事ができなくて。それで、わたしはおばあさんの家に忍び込んで、小鳥を逃がしてしまったの。それが小鳥にとって一番良いことだってその時は思って。でもね、それが本当に良かったことなのか今はわからない。それが本当に小鳥にとっての幸せだったのか。本当はおばあさんとずっとあの家の中に居た方が小鳥にとっては幸せだったのかもしれないってそう思った。わたしはとんでもない間違いをしてしまったんじゃないかって。小鳥はね、絶対外に出してはいけなかったの。小鳥はおばあさんが別のお家から盗んできたものだった。おばあさんが盗んだとき小鳥は弱くて小さくて一緒に生まれた雛との生存競争に敗れて死にかけていた。このままそこに置いておいたら小鳥が死んでしまうと、おばあさんは小鳥を盗んで育てたの。でも盗んだなんて知れたら大変なことだった。だからおばあさんは隠してた。それをわたしが外で話してしまったから、小鳥がおばあさんお家にいるって元のお家の人にバレちゃった。そしてわたしが逃がしてしまったから、小鳥はもとのお家に連れて行かれたの。そして小鳥はまた籠の中。同じ籠の中なのに、おばあさんといた時と違って小鳥は元気がなくなった。そしてある時、小鳥は開いていた窓から飛んで出て行ってしまった。その小鳥は特別だから、お家の人はその小鳥を連れ戻そうと探しているわ。飛んでいった小鳥は、籠の中で暮らすのと外で暮らすのとどちらの方が幸せなのかしら。もしかしたら外の世界の方が幸せなのかもしれない。でもね、ずっと籠の中で飼われた小鳥は野生では生きていけないの。どんなに外の世界が楽しくても、籠の中に戻らなければ生きていけない。だからわたしは、小鳥を籠の中に戻さなくてはと思うのよ。小鳥がそれを望まなくても。」
「ねぇ、結子。小鳥が籠の中でしか生きていけないって誰が決めたの?小鳥はちゃんと野生でも生きていけるかもしれないよ。」
「そうね。そうかもしれないわね。」
そう言って篠宮は花月におやすみなさいと声を掛けた。
「結子。わたしが寝付くまで手を握っててもらってもいい?」
不安そうにそう呟く花月に優しく微笑んで、篠宮はそっと彼女の手を取った。
「ありがとう、結子。おやすみなさい。」
そう呟いて、花月はそっと目を閉じた。そんな花月を篠宮は困ったような顔で見つめていた。
「ねぇ、花月ちゃん。何も知らなかった方が幸せだったってこともあるのかもしれないのよ。何も解らないままでいた方が。今更そんなことを言ってももう遅いことは解っているけど。今のあなたがあまりにも楽しそうで、幸せそうで、わたしはどうすればいいのか解らない。だからごめんね。春って言ったけど、もっと早くお別れすることになるわ。わたしがあなたの傍にこうしていられるのは、もう、あと少しの間だけ。」
寝息を立てる花月にそう声を掛け、篠宮は彼女のベットを離れて自身も就寝する支度をした。化粧を落とし、顔にパックを付けて、そして自分の布団に潜り電気を消した。
○ ○
「いや、遙ちゃんまずいよ。女の人の部屋に勝手に入って家捜しなんて。」
そう焦って止める楠城浩太を一瞥し、柏木遙は尻尾出さないんだからしかたないでしょと言った。
「部屋なら絶対何かある。なんでもいいからあいつが女装してるだけだって証拠見付けてやる。」
「いやいや、遙ちゃん。問題起こさないって約束したじゃん。」
「証拠掴むまではね。」
「証拠掴むために問題起こそうとしてるじゃん。」
「浩太はついてこなくていいから。」
「ついて行ってるんじゃなくて、俺は遙ちゃん止めに来てるんだよ。」
そんなやりとりをしながら五号室の前に行って、何とか止めようとする浩太を押しのけて、遙は五号室の扉を開けた。
「遙ちゃん、ダメ。これ以上は絶対にダメだから。絶対に許されないからこんなこと。」
そう言って後ろから羽交い締めしてくる浩太を、遙がうるさいな離してよと言って払い退けようとして、ちょっとした掴み合いになって、そして、二人は本棚に思いっきりぶつかった。そしてその衝撃で本棚からなだれ落ちてきたファイルが床にぶつかって広がり、中身が散乱して、二人は息をのんだ。
「遙ちゃん、コレ。」
「俺たちの身辺調査書、だね。俺たち調べられてたの?うわっ。家族構成から何まで、学校での様子から普段の様子まで素行調査もされてるじゃん。なにコレ気持ち悪っ。」
そんなことを言いながら散乱したファイルの中身を集めていき、そして、遙はその中に一枚のカードを見付け、それを拾い上げて確認した。それは宮守周名義の運転免許証だった。
「宮守周?誰それ。」
「篠宮結子の正体でしょ。」
「嘘。これ完全に男じゃん。三島さん似のイケメンじゃん。」
「だから言ったでしょ。健人女装させればあいつみたいになるって。ああいう顔が整ってる奴はどっちに転んでもいけるんだよ。」
「篠宮さんと三島さん、確かに顔立ち似てるけどさ。コレ違くない?篠宮さんの方が唇厚いし、目も大きいと思うんだけど。ここまでキリッとしてないというか。」
「それ、化粧。化粧でそう見せてるの。化粧で人は化けるから。お前、俺が女装させられてるの見慣れてるくせにそんくらい解らないの?」
「え?だって、遙ちゃんは元々美人じゃん。」
「お前な。俺も化粧で化けさせられてるよ。このまま女の格好して女に見えるわけないでしょ。喧嘩売ってんの?」
「いやいや、遙ちゃんは化粧してもここまで変わってないって言いたいだけだって。女装してても遙ちゃんは遙ちゃんだなって思うけど、この人と篠宮さんは兄弟かな?って思うくらい別人。」
「ったく。俺はそこまで顔の印象変える様な化粧はさせられてないだけだって。女だって化粧でかなり印象変わるぞ。変身動画とか見てみなよ。化粧前と後じゃ別人だから。」
呆れたようにそんなことを言って、遙は小さく溜め息を吐いた。
「まぁいいや。あいつが怪しい奴だって証拠はこれだけ手に入ったし、帰ってきたら問い詰めてやる。」
「いや、遙ちゃん。勝手に人の部屋に入って、人の部屋のもの勝手に持ってったらダメだよ。」
「そんなこと言ってる場合?浩太はこんな怪しい奴にここにいられていいの?お前は信じてないみたいだけど、本当にあいつの正体がこの免許証の男だったらどうすんの?花月とこいつ同室にしといていいの?花月も女だと思ってあんな懐いてるけど、花月があんなに無防備に接しててあいつが何もしないって、お前そこまであいつのこと信じられるの?お前は花月に悲しい思いして欲しくないって言ってたけど、それより先にあいつのこと怪しい奴から守ってやらないとじゃないの?前も言ったけど、何かあってからじゃ遅いからね。」
「それは・・・。でも、篠宮さんはそんなに悪い人じゃないと思う。」
「そんなこと言ってあいつ庇って。言っとくけど浩太。俺はあいつが気にくわないんじゃなくて花月のこと心配してるだけだからね。考えてみろよ、もしあいつが本当にこの男なら、花月、知らない間にこの男の前で着替えしてるんだよ?」
遙のその言葉を聞いた瞬間、浩太の顔色がサッと変わった。
「だから俺は最初から言ってんのに真面目に聞かないから。あいつが良い奴か悪い奴かはともかく、あいつの正体が何者なのかはハッキリさせるべきなんじゃないの?手放しに信用できるような奴じゃないってことはこれでハッキリしたでしょ。」
拾い集めた中身をファイルに収めて遙は真面目な視線を浩太に向けた。
「そう、だね。遙ちゃんの言うとおりかもしれない。」
俯いて何か思い悩むようにそう呟く浩太を見て、遙はまた溜め息を吐いた。
「それで花月がショック受けて辛い思いするなら、その時は支えてやれば良いでしょ。それでここで過ごしてきた全部が崩れるわけじゃないんだし。あいつ一人が抜けたって俺たちと花月の仲が変わるわけじゃないし。リスクを抱えて騙され続けてるよりよっぽどマシって俺は思うけど。」
そんな遙の言葉を聞いて、浩太は暫く黙り込んで、そして小さくうんと呟いた。
夜、篠宮がサクラハイムに帰ってくると、さっそく遙は彼女を捕まえて問い詰めた。
「ねぇ。あんたの部屋からこんな物が出てきたんだけど。これなに?俺たちのこと調べて何してたの?」
険のある調子でそう直球にそう訊く遙の隣で、浩太がオロオロしながら遙ちゃんもうちょっとききかたがとか何とか言ってくるが無視をして、遙は篠宮を睨み付けていた。
「あら、柏木君。勝手に人の部屋に入ってわたしのもの漁ったの?それこそどうかと思うわ。もう小さな子供じゃないんだから、勝手に人の部屋に入って良いわけじゃないってわかるでしょ?まして、男の子が女性の部屋になんて。」
たしなめるようにそう言う篠宮に、遙ははぐらかさないでよと言った。
「俺は最初からあんたのこと信用してない。信用できない奴にここにいられたくない。」
「それはそのまま返した方がいいのかしら?こんなことされて、わたしこそあなたの事が信用できないわ。」
「篠宮さん。勝手に部屋に入ったことも、勝手に篠宮さんの物持ち出したのも、それはごめんなさい。悪いことしたって思ってる。それは、本当にごめん。でも、部屋に入っちゃって、本棚からこれが落ちてきて、俺もやっぱ吃驚したし、何だろうコレって。篠宮さんは何してるんだろうって。遙ちゃんの言う通り篠宮さんは信用できない人なのかなって思っちゃったんだ。でも、俺は篠宮さんの事信じたい。信じたいから。だから、はぐらかさないで教えて欲しい。何で俺たちのことこんなに詳しく調べてたの?この免許証の人は誰?」
何かを決した様に真剣な顔をしてそう言う浩太に篠宮は小さく微笑んだ。
「わたしだってこれでも女だもの。こう男性の多いシェアハウスに住むに当たって、安心できる場所なのか調べてもらっただけよ。まさか誰かが部屋に入って家捜しするなんて思ってもみなかったから、調査報告書をあんな所に適当に置きっ放しにしてしまって。気分を悪くさせてしまったことは、ごめんなさいね。」
「ふざけないでよ。安心のために調べてもらった?じゃあなんでこんな最近のことまであるの?調べてもらったんじゃない。これはあんたが撮ってあんたが纏めてたんだ。あんたが俺たちを監視してた。まるで普通にここの住人みたいな顔して、皆と笑い合って、一緒に過ごして、腹の内では何考えてたんだか解らない。しかも、コレもコレもこっちも、全部花月も写ってる。花月だけは誰の調査書にも一緒に写ってる。最近のは全部、花月と俺たちがどう過ごしてるのかの調査書でしょ。あんたが監視してたのは結局俺たちじゃなくて花月のことで、あいつのことばっか見てて、女の格好してあいつの部屋に潜り込んだのだって何か裏があるんでしょ。お前の正体はこの免許証の男なんじゃないの?何企んでるの?何の目的があってあいつに近づいて、いったいあいつをどうするつもりなんだよ。」
「遙やめて!」
そう花月の声がして、篠宮を問い詰める遙の前に彼女が立った。
「花月、どいて。そいつは信用できない。ここでハッキリさせないと。」
「お願い。遙やめて。結子は悪い人じゃない。絶対に悪い人じゃないから。何かあったならそれは何か理由があるんだよ。事情があるだけで絶対に悪い事なんて結子はしてない。」
「お前は騙されてるだけだから。そもそもこいつは男だよ?男のくせに女のフリしてお前と同室に潜り込んで。お前が信じてるほどこいつは信用できる奴じゃない。」
そう言う遙の言葉に花月が困ったような顔をして、わたし結子が男の人だって知ってると言って、その場の空気が固まった。
「初めから。結子がここに初めて来た時から、わたしは結子が男の人だって解ってた。なんで女の人のフリしてるのかは解らなかったけど、篠宮結子って言うのが嘘の名前だってことは解ってた。でも、わたしは結子がここに来てくれて、こうして一緒に暮らしてくれて、いっぱい同じ時間を過ごせて嬉しかった。凄く、凄く嬉しかった。だって、結子はわたしのお兄ちゃんだから。熱に浮かされて見たのは幻じゃなかったんだ。わたしが熱で倒れたとき、お兄ちゃんはやっぱり傍にいてくれてた。あの時わたしがお兄ちゃんに街中で一緒に暮らしたいって言ったから、だから、結子はこうして来てくれた。こうやって一緒にいてくれてる。ずっとは一緒にいられないって言ってたけど、いられる間はずっとこうやってわたしのお願いきいてくれてるだけなんだ。だから結子は悪くない。結子は悪い人じゃない。だから遙。結子のこと責めないで。わたしは大丈夫だから。結子のこと困らせないで。」
「いいえ、麗子様。わたしはあなたの兄ではありませんよ。今も昔もずっと、わたしがあなたの兄であったことなど一度もありません。」
遙に向けられた花月の懇願に続き、彼女の背後からそう男性の声がして、その場にいた皆が息をのんだ。その声の主が篠宮であることは明確なのに、その場にいる誰も彼女の声が普段の彼女の物とは全く別物の、完全な男性の声になっていることに何も言わなかった。そして、その声が発した知らない名前に、花月は愕然とした様子で後ろを振り向いた。
「結子。何言ってるの?麗子って誰?」
「霧島麗子。それがあなたの名前で、あなたはこの国の名だたる財閥が一つ、霧島家の令嬢ですよ。そしてわたしは、その霧島家の使用人。家出をしたあなたを追って、あなたを連れ戻す機会を伺いながらずっと、あなたを傍で護っていただけです。別にあなたが願ったからここに来た訳ではない。わたしはただ、嫁入り前のお嬢様になにかあっては困るからすぐ近くで護れるようにここに来ただけですよ。強制的に連れ戻したところであなたはどうせまたすぐに逃げ出してしまうでしょうし、本当は熱で倒れたあなたを保護したとき、あなたの気持ちが落ち着くまで様子を見て連れ戻すつもりだったんですが。それが、わたしが少し目を離した隙に抜け出して、こんな所に入り込んでしまうのですから。あなたのお転婆ぶりには本当に手を焼かされます。」
「そんな。嘘だ。そんなのわたし知らない。麗子なんて知らない。霧島家なんて知らない。結子はわたしのお兄ちゃんで、お兄ちゃんはそんな・・・。」
「本当にあなたは何も聞かされていないのですね。祖母はあなたに何一つ真実を伝えなかった。本当に、何一つでさえ。」
そう言って、篠宮は溜め息を吐いた。
「では、わたしが祖母の代わりにあなたに教えてあげますよ。あなたという存在の真実を・・・。」
そう言う篠宮に真っ直ぐ見据えられ、花月は背筋が冷えた。
「あなたは生まれてすぐ、当時霧島家の使用人をしていたわたしの祖母に誘拐されたんですよ。そして山奥深くの隠れ家に連れて行かれ存在を隠され、そこの世界が全てだと思い込まされ、そこで全てを完結すべく祖母亡き後もそこで一人で生きていけるように育てられた。そんなあなたには元々戸籍すら存在しない。あなたが産まれた事実はこの世に存在していない。だからあなたは、病気で亡くなったあなたの双子の妹、霧島麗子として生きていくほかない。あなたはこれから霧島麗子として、霧島家の令嬢として、霧島家と縁が深い財閥の御曹司の元に、霧島家とその家の縁をより深めるために嫁ぐのです。あなたにはその運命を受け入れる以外他に選択の余地はない。おとなしく運命を受け入れさえすれば、あなたはこれからを籠の中で一生、苦労をすることもなく、何一つ不自由なく過ごすことができる。今の当主である章仁様は前当主であるあなたのお父様のように、代役に立てるに当たってあなたが余計なことをしないように、あなたの目から光を奪い口をきけなくしてしまえば良いなどと言う人ではないですから、怖がらなくても大丈夫ですよ。あなたを霧島家に強制的に連行したあの恐ろしい男は、もうこの世には存在していませんから。」
そんな話をしている間にその場に集まってきたサクラハイムの住人達を横目に、篠宮は花月に言葉を続けた。
「あなたの正体が明らかになった以上、もうここにはいられませんよ。霧島家のお嬢様をこんなところに置いておくわけにはいきませんし。わたしは一足先に戻り報告させて頂きますので、数日中にはお迎えがくるでしょう。それまでに心の準備を整えて、皆さんにお別れをしておいて下さい。」
そう言うと篠宮は黙り込む花月を一瞥し、今度は管理人の西口和実に向き直った。
「麗子様が大変お世話になりました。今までお世話になった分の家賃や生活費は全て、迷惑料も含め霧島家から振り込みをさせていただきます。迎えが来るまでのもうしばらく間、麗子様のことをどうぞよろしくお願いします。」
和実にそう言うと篠宮は住人達に向かって、このことはどうぞ他言無用で、と暗に口外すれば何が起きるか解らないと含んだ様子で告げ、大変お騒がせしましたと言って頭を下げた。そしてその場を去って行く篠宮に、誰も声を掛けることはできなかった。話しを聞いて深く俯き黙り込んだままの花月にも。
そうして篠宮はサクラハイムを去って行き、その後には重い空気が流れていた。
○ ○
「ねぇ花月。元々、戸籍がないならそれこそ他人のフリなんかしないでうちの養子になっちゃえばいいじゃん。あいつの言ってたことなんか気にせず無視してさ。血のつながりはあるのかもしれないけど、全然知らない奴らのことなんか気にすることないって。縁談なんか破談になっちゃえばいいと思わない?花月だって好きでもない会ったことすらない男のとこに嫁に行くなんて嫌でしょ?このままここにいなよ。」
そう言う遙に花月は力無くありがとうと呟いて気弱げに笑った。
「遙、気軽にそういうこと言うもんじゃないっすよ。お前や浩太ん家もけっこうな金持ちなの知ってるっすけど、相手はあの霧島家っすよ?あそこは後ろ暗い噂も多いし、敵に回したら絶対ヤバい。俺たちがとやかく言ったところでどうにかなるわけないっしょ。」
諦めた様子でなだめるようにそう言う片岡湊人の言葉を聞いて、遙が噛み付いた。
「湊人はまたそういうこと言って。それが花月にとって良いと思ってんの?花月の意思なんてガン無視じゃん。ここまで一緒に暮らしてきて少しは情とかないの?」
「良いとか悪いとか、情があるとかないとかの問題じゃなくて。現実問題太刀打ちできるわけがないものにとやかく言ったってしょうがないって言ってるっすよ。下手に抵抗しようとするより、篠宮さんの言う通り心の準備をしとくほうが賢明だって俺は思うっすよ。花月も、俺たちも。」
そうやってまた普段通り言い争いを始めた二人を見て、花月は部屋で横になってくると言って食堂を後にした。いつもなら、そんなやりとりをしている二人を見ているのも楽しかった。でも今は、そのいつものやりとりさえも辛かった。訳がわからなかった。いきなり自分は大財閥の令嬢でもうお嫁に行くことが決まっていると言われても、それ以外に選択肢はないと言われても。結子は本当にただ使用人として自分の傍にいただけだったのだろうか。結子がしてくれたこと全部、自分の知っているあの人の全ては、ただ使用人として使える家の娘を大切にしていただけで、それ以外に意味はなかったのだろうか。そう思うと胸が苦しくなった。いつからお兄ちゃんは全部知ってたんだろう?小さい頃、一緒に暮らしてた頃にはもう知ってたのかな。あの頃からずっとお兄ちゃんはわたしのことお嬢様として見てて、そう扱ってたのかな。結子が自分に聞かせた小鳥の話しが自分自身をさしているのだとなんとなく解っていた。解ってはいたが、それでもまだ、花月は現実を受け入れることはできなかった。ここにいたかった。ずっとここでこのまま暮らしていたかった。それが不可能である事は前から解っていた。自分は皆の好意でここに置かせてもらっているだけで自分がここにいることで色々と負担を掛けていると。働けない自分は、自立できない自分は、どう足掻いてもここに居つづけるわけにはいかないのだと。いつかはここを出て行かなくてはいけないと、ちゃんと頭では理解はしていた。どう頑張っても自分にはどうにもできない現実があるのだと、今ではもう理解できるようになっていた。ここに来たばかりの頃は全く解らなかったそんなことを、今ではもう普通に理解できるようになってしまっていた。だから、遙の気持ちは嬉しい。でも、湊人が言っていることが正しいと思う。
花月は自分のベットに突っ伏して、今までの思い出を辿った。楽しかった。本当に。こんなに楽しかった日々は生まれて初めてだった。ずっとこの日常の中にいたかった。だから、自立する術を求めた。皆と同じように、自分もちゃんとここの住人になりたかった。でも、最初から書類の上ではこの世に存在してなかった自分には、初めからそんなことは不可能だった。絶対に叶わない夢だった。
「かーづきちゃん。あーそーぼ。」
ノックの音が聞こえ、それに続いて浩太のそんな声が聞こえて、花月は顔をあげた。
「花月ちゃん。公園に遊びに行こう。花月ちゃんはなにしたい?今日もジャグリングの練習する?市ヶ谷学園の文化祭行ってストリートパフォーマンス研究会の出し物見てから、お互いすっかり嵌まっちゃったよね。俺、もともとジャグリングは得意だったけど、ディアボロうまくできなかったの本当悔しくてさ。実は買ってこっそり練習してたんだ。まだまだあの人みたいにできないけど、だいぶ上手くなったよ。見る?それともスケボーやる?ほら、花月ちゃん初めて会ったとき、俺がやってた技自分もやってみたいって言ってたじゃん。いきなりあんな大技はムリだけど、基礎から教えてあげるよ。基本テクニックにチックタックってジグザグに走るのがあるんだけど、俺、けっこうそれ好きなんだよね。それができるようになったら障害物競争しない?絶対楽しいよ。あと、普通に滑走するのも楽しいし、けっこう気持ちいいよ。」
ドア越しに聞こえてくる浩太の明るい声に花月は少し気持ちがあがって、ベットから起き上がり少しドアを開け、そこにいた彼と目が合った。
「俺、頭悪いからごちゃごちゃ考えるの苦手でさ。それで、モヤモヤしたらいつも好きなこと思いっきりやって忘れちゃうことにしてるんだ。だから、花月ちゃんも思いっきり遊ぼう。ほら、一緒にさ。」
そう笑顔を向けられて、花月はうんと言って小さく笑った。そして二人は支度をし、連れ立って公園に出掛けた。
浩太に公園でスケートボードを教わりながら、花月はだんだん気持ちが晴れていった。浩太の動作を見ながら一生懸命それを真似し、頑張って、気が付けば夢中になって技の練習をしていた。
「さすが花月ちゃん。バランス感覚いいし、飲み込み早い。この調子なら一日目にして中難度の技できるようになるかも。」
そんなことを言いながら浩太が中難度の技を見せ、ついでにと、ここまでできるようになると格好良くない?と高難度の技も織り交ぜてきて、花月は浩太凄いと、目を輝かせた。
「今の、今のもう一回。」
テンション高くそんな催促をされて、浩太は調子に乗って色々とやってみせた。それを凄い凄いと目を輝かせて眺め、花月はまた浩太からスケートボードを借りて基礎練習を再開しつつ、さっきの格好良かったなと思って、こんな感じだったかな、なんかできそうな気がすると、いきなり中難度をかっ飛ばして高難度の技に挑戦し、飛んでボードを一回転させて、
「あ、できた。」
そう嬉しそうに声を上げ、着地した瞬間バランスを崩し倒れ込み、
「花月ちゃん!うわっ、と。危ない。」
そんな声をあげながら浩太が咄嗟に支え、花月は転ぶことも足をくじくこともなく無事に地面に足を付けた。
そうやって支えられて、自分を支える彼の胸や腕の感触の頼もしさに花月は不思議な感じがした。皆といると小さく見えるけど、浩太も大きいんだな。しみじみとそんなことを思って、浩太もやっぱ男の人なんだななんて思って、少し気恥ずかしくなる。
「花月ちゃん、大丈夫?」
頭上でそう声がして、見上げた顔がいつもよりずっと近くて、目が合って、
「うわっ。ご、ごめん。」
顔を真っ赤にしてそう言って慌てて自分から離れる浩太を眺め、花月は自分の鼓動が少し早くなっているのを感じた。そしていつもの距離に戻ってもなんだか恥ずかしくて、花月は俯いて顔が上げられなかった。
「あ、えっと、その。ごめん。危ないと思って咄嗟にさ・・・。」
「あ、うん。ありがとう。浩太のおかげでわたし大丈夫だったよ。」
「花月ちゃん、予告なくいきなりあんなのするんだもん。で、バランス崩すしさ。俺、かなり焦ったよ。」
「ごめんなさい。」
「でも、怪我しなくて本当良かった。」
心底ホッとしたような浩太の声が聞こえて花月は顔を上げ、そこに声と同じようにホッとした顔をして自分を見ている彼がいて、花月は小さく笑ってありがとうと言った。もういきなりあんなことはダメだよとか、着地前に気抜いちゃダメだからとか、そんな小言を言われて、うんとかごめんとか返しながら、花月は胸が暖かくなった。そして彼が俺は映画で主人公がスケボーやってるシーン見て格好いいなと思って始めたんだとか、スノボーと違って足に固定しないから板を操ってやる技も多くてさ、自分と板を違う動きさせて技繰り出すって格好良くないとか、そんな話しをするのを聞いて談笑しながら、花月はなんとなく彼にこれからについて訊いてみた。
「これからか。将来のこととか正直よく解んないや。花月ちゃんと勉強してたおかげで、うちの進学コースに進めるだけの学力はついたけど、うち元々バカ高だし。進学コース行ったからって別にたいしたことないっていうか、大学行って何になるのって感じだし。遙ちゃんにはいつも、そんなんでどうするのとか、将来がうんたらかんたらとか小言いわれるけど、正直全然ピンとこないし。俺は将来が楽しければいいなって、したいことができれば良いなって思う。例えばさ、得意なジャグリングの腕あげて、もっと色々できるようになって、ストリートパフォーマーになって世界中を旅して回るとかさ。そういうこと出来たら楽しそうじゃない?遙ちゃんに言ったら何現実的じゃないこと言ってんのとか言われて呆れられそうだけど。でもさ、つまらないより楽しい方が絶対にいいじゃん。よく解らないこと無理矢理頑張るより、自分が楽しいと思えることに一生懸命になった方が絶対いいと思うんだ。」
そう言って浩太は目を細め花月を見つめた。
「俺は花月ちゃんにずっと笑ってて欲しい。どんなとこにいても、どんなことがあっても、花月ちゃんにはずっと。だから俺、頑張るよ。頑張って世界で活躍するような人になって有名になって、俺はここにいるって、頑張ってるって花月ちゃんに伝わるようにする。だから、これからも一緒に頑張ろう。一緒に勉強頑張ってきたみたいに、ずっと。遠く離れたって一緒に頑張っていこう。俺、頭悪いからこんなことしか思いつかなくて、でも、そうすれば花月ちゃんは一人じゃないって思えるかなって。知らない人ばっかの所に行って、不安になっても頑張れるかなって。」
そう言って言葉をつまらす浩太の姿に、花月も胸がつまった。
「浩太、ありがとう。わたし、絶対に忘れない。浩太のこと、皆のこと、ここで過ごした全部。絶対に忘れないから。これから先も頑張っていく。もう皆と会えなくても、ずっと、わたしも頑張っていく。」
そう言って泣きそうな顔で笑って、お互い似たような顔で笑い合って、そして、
「そろそろ帰ろっか。」
「そうだね。」
そう言い合って、二人は並んで帰路についた。
そして迎えた最後の日。花月は最初に自分がここに来たときに着ていた着物を身に纏い、化粧をし、身なりを整えてその時を待っていた。これで最後。きっとこれでもう皆とは会えない。そう思うと、ここで過ごした日々が走馬燈のように自分の中に蘇って、自分の奥からこみあげてきそうななにかを花月はぐっと押し殺した。わがままは言えない。わがままを言った所でどうにもならない。解ってる。わたしはこうするしかない。そう自分に言い聞かせ、そして心を決めて部屋を後にした。
迎えには、霧島家の現当主である章仁が直々にやって来た。始めて顔を合わせる自分の本当の兄を見て、花月は自分の中に何も感じ入る物がないことが苦しかった。血は繋がっているのかもしれない。でも、自分はこの人を兄だとは思えない。家族だとは思えない。そう感じて、無感動にただその人に促されるまま、サクラハイムの住人達に頭を下げて挨拶をした。
「今までお世話になりました。」
そう言葉にして、その自分の声を耳に、これで最後なのだと実感して胸が締め付けられた。そしてそのまま顔を上げることができず動かない花月を見て、章仁が行くぞと短く威圧感のある声を発した。それに促され、花月は踵を返し、兄の後についていった。
「花月ちゃん!」
そう浩太の声がして、花月はハッとした。
「やっぱ、ダメだ。花月ちゃんが花月ちゃんらしくいられないような場所なんかに行っちゃダメだ。ここにいてよ。」
振り向くと真剣な顔で自分にそう訴える浩太と目が合った。
「花月ちゃん、行かないで。俺たちとここにいよう。君の帰る場所はそっちじゃない。君がいるべきなのはここだよ。」
そう言葉を続ける浩太に近づいて、花月は笑った。
「浩太、ありがとう。浩太と一緒に沢山勉強して、沢山遊んで、わたし凄く楽しかった。浩太が言ってくれたことわたし忘れない。わたしも浩太に負けないように頑張るから。だから、約束、ね。」
そう言う花月の顔を見て浩太は何も言えなかった。ただ辛そうに顔を顰め、弱々しく花月の名を呼んだ。そんな彼に微笑みかけ、花月は次に和実の前に立った。
「お姉ちゃん。今までずっとありがとう。お姉ちゃんがここがわたしの居場所だって、ここに居て良いんだって言ってくれて凄く嬉しかった。わたしがずっとここに居られるように一生懸命色々してくれて、凄く凄く嬉しかった。本当に、本当にありがとう。」
そして今度は遙の前に立つ。
「遙。遙がうちの家族になればいいって言ってくれて嬉しかった。わたしのことを考えて一生懸命になって怒ってくれてありがとう。わたし、そんな遙の気持ちが嬉しかったよ。」
そして次は風間祐二の前に立って、祐二頑張ってね、祐二の夢が叶うようにわたし応援してると言って、片岡の前に立って、いつも美味しいご飯を作ってくれてありがとうとか、香坂光の前に立って、いつも勉強を教えてくれてありがとうとか、三島健人の前に立って健人と演劇ができて楽しかったとか、藤堂耀介の前に立ってやりたいことが見つかって良かったねとか、花月は順番に一人一人に言葉を掛け、楽しかったとかありがとうとか頑張ってとかそれぞれに気持ちを伝えていった。そして最後に真田一臣の前に立って花月は彼を見上げた。
「一臣。三月になったら一緒に夏樹のお墓参り行くって約束、守れなくなってごめんね。夏樹の所に行ったら、わたしは楽しかったって。凄く凄く楽しかったって。夏樹がわたしに見せてくれるって言ってたキラキラした世界、わたしは沢山満喫してたよって。知らないことを沢山知れて、やったことがないことを沢山できて、わたしは凄く凄く幸せだったって、わたしの代わりに伝えてほしい。一臣。一臣は、これからもいっぱいこのキラキラした世界を満喫してね。それで、これからも沢山写真を撮って。もし叶うなら、いつかどこかでわたしがそれを観られるようにしてくれたら、凄く嬉しいな。」
泣きそうな笑顔でそう懇願するように真田に告げて、花月は一歩下がって。そして、意を決した様に皆に満面の笑顔を向けた。
「皆、今までありがとう。ここにいて、皆と過ごせて、わたし本当に楽しかった。本当に幸せだった。皆、大好き。本当に、ありがとうございました。」
そう言って、花月は皆に背中を向けた。そして、兄の方へ、自分の運命に向かって一歩踏み出そうとして、
「ふざけるな!」
そんな真田の怒声に動きを止めた。
「ふざけたことぬかしてんじゃねーぞ、バカが。俺はお前の代わりなんかしない。夏樹に楽しかったって報告したきゃ自分でしろ。胸張って自分でできないこと人に押しつけんじゃねー。俺はお前の目の代わりもしない。お前が言うキラキラした世界が見たきゃ、ここにいて、これからも自分の目でそれを見ろ。」
そう怒鳴る真田の言葉を聞いて、花月の目に涙が浮かんだ。
「お前の生まれがどうだとか、家がどうだとか、そんなもん知るか。余計なもんごちゃごちゃ考えてらしくしないことしてんじゃねー。花月。お前はどうしたいんだ?ハッキリしろ。そして自分の居場所は自分で決めろ。ここでそっちを選んだら、二度とこっちには戻って来れねーぞ。」
「わたしは・・・。」
そう呟いて、花月の目から溜まった涙が溢れだした。動けなかった。自分の未来を決定づける一歩を踏み出すことができなかった。
「わたしは、ここにいたい。これからもずっと、皆と・・・。」
絞り出すようにそう呟いて、花月はその場に座り込み、そして、兄に向かって深く頭を下げた。
「ごめんなさい。わたしは、霧島麗子という人になりたくないです。ごめんなさい。わたしはあなたのことを兄だと、家族だと思えません。霧島家という家を自分の家だと思うことはできません。だから、霧島家のために知らない人の所にお嫁になんかいきたくありません。ごめんなさい。本当にごめんなさい。お願いします。ここにいさせて下さい。お願いします。どうか、わたしをこのままここに居させて下さい。わたしはここにいたいんです。わたしは花月のままでいたいんです。だから、お願いします。どうか。本当に。この通りですから。」
泣きながら土下座しそう懇願する花月を見下ろして、章仁はフンと鼻を鳴らした。
「好きにしろ。」
吐き捨てられたその言葉に、花月は顔を伏せたまま目を見開いた。
「俺は親父とは違う。時代錯誤な婚族関係での結びつきなどに期待するつもりも頼る気もさらさらない。しかし、お前のような者が霧島家の縁者だというのは迷惑だ。家に戻らないのであれば、完全に縁を切り霧島の名を語ることも、頼ることも許さない。」
そう言って章仁は花月に顔を上げさせた。
「今の何もない状態で困窮し脅されでもしても迷惑だ。霧島と無縁の籍を用意し、手切れ金をくれてやる。それで二度と関わるな。いいな。」
冷たい視線で花月を見下ろしそう言うと、章仁はサクラハイムを去って行った。
花月はその場に座り込んだまま、兄が去って行く後ろ姿をただ呆然と眺めていた。
「花月ちゃん。良かったね。」
そう和実に抱きしめられて、花月はお姉ちゃんと呟いた。
「わたし。わたし・・・。」
「ここにいられるんだよ。これで、花月ちゃんもちゃんとここの住人になれる。」
そんな和実の言葉を聞いて、花月の目に再び涙が溢れてきた。そして、和実にしがみついて泣いた。涙が溢れて止まらなかった。花月には自分の状態が良く解らなかった。嬉しいような苦しいような、よく解らない感情が胸の内をぐるぐるして訳がわからなかった。でも、ただ今ここにある温もりに、自分を抱きしめる和実の存在の確かさに、ホッとして、安心して、花月は和実の胸に顔を埋めた。ここにいられる。そう思うとすごく嬉しいはずなのに、酷く胸が締め付けられて、苦しくて、花月は和実にしがみついたままずっと泣き続けていた。
○ ○
「この姿でお会いするのは久しぶりですね。」
そう男性姿の篠宮に声を掛けられ、和実は曖昧に笑った。そこにいたのは、和実がまだサクラハイムの管理人を始めて間もない頃、ようやく四室が埋まってホッとした頃に、庭の桜を眺めていた男性だった。
「あの頃は、こんな形であなたと関わることになるとは思ってもいませんでした。でも、今思うとあの子がここに惹かれるのは必然だったのかも知れませんね。」
そう言って庭の桜を見上げる彼を見て、和実はこの人の本当はいったい何だったんだろうと思った。
「今日は書類などを届けに来たのですが。俺がここにいるのは住人の方にとってあまり快くないでしょうし、どこか別の場所に移りましょうか。」
そう言って微笑む彼と連れだって和実は公園に足を運んだ。並んでベンチに座り、封筒を受け取って中を確認する。
「篠宮花月。」
そこに入っていた身分証の名前を確認してそう呟き、和実はなんとも言えない気持ちになった。
「細かいことは詮索しない方が身のためですよ。」
そう釘を刺され。釘を刺されなくても詮索する気など更々ないよ、怖いし、と和実は思った。
「あなたが言っていた妹さんは花月ちゃんのことだったんですね。なのに、なんで花月ちゃんにはあんなことを言ったんですか?」
そんな和実の問いに篠宮は、俺にはあの子の兄である資格はありませんからと呟いた。
「あの子に嘘はついていません。俺は昔からずっと、使用人としてあの子の傍にいた。ただ、霧島家の使用人としてではなく、宮守本家の者として篠ノ宮の血を引くあの子を護る使命を帯びていた、というのが本当のことですが。」
そう言って篠宮は遠くを見た。
「篠宮結子は、あの子の生母の旧姓、篠ノ宮からノをとった名字に俺の祖母の名を付けた偽名です。篠ノ宮はある地方の名家で、その地域では信仰の対象であり絶対的な権力を持った家でした。そして宮守はそんな篠ノ宮家に代々仕え、その家の者を護ってきた家系でした。時代の流れで古いしきたりは廃れていき篠ノ宮はその地域を象徴するただの飾りに変わっていき、宮守の者も篠ノ宮家から徐々に離れていきました。そして今の時代、そんな時代錯誤の風習を守り変わらず篠ノ宮を信仰していたのは祖母くらいなものになっていました。祖母は古い風習を捨てようとしていた両親から俺を取り上げて追い出して、俺を宮守本家の跡取りとして育てました。俺は物心ついたときから篠ノ宮の者を護るべく英才教育を受けた者で。あの子はそんな篠ノ宮の血を引く者。なら、俺があの子をどう扱うかは必然と決まっているでしょう。俺はあの子を護るためなら何だってしてきましたよ。あの子のためだと思えば何だって。だから俺はただの影で、あの子の縁者であっていい存在じゃない。」
そう言う篠宮の狂気に似た冷たい視線を受けて、和実は背筋が凍った。
「少し話をしましょうか。これはただの作り話で、そしてちょっと俺の独り言です。」
そう言って、篠宮は話しを始めた。
「遠い昔の話しですが、篠ノ宮の先祖は村が飢饉に見舞われたときに神託を受け、その身に神を宿し人智を越える力を持って村を飢饉から救ったそうです。そして、篠ノ宮は祀られ、信仰され、権力を持った。時が流れ、ただ決められた祭事を行うだけの飾りになっても、その地域で篠ノ宮が権力を持っていることも、広い土地を有していることにも変わりはありませんでした。そしてある時、事故で当主夫妻が亡くなり、篠ノ宮の一族は娘一人を残すだけになりました。まだ若く愚かだったその娘は、両親を失った悲しみや不安から、篠ノ宮の権力を狙い近づいてきた男の口車に乗せられて、その男の加護を受けるべくその男に全てを委ね、その男の後妻になった。そして子供を授かり、双子の女の子を産みました。双子の一人は未熟児で、検査で先天的な異常も見つかり、それが成長にどのような影響を与えるかは解りませんでしたが、それを疎ましく思った男はその子を生まれなかったことにしようとしました。そして、娘が嫁ぐ際に娘に付いて男の家に使用人として入っていた宮守の当主がそれを知り、その子を連れて逃げました。宮守の当主はその子を廃れた篠ノ宮の土地へ連れて行き、そこでご神木である山桜が煌々と輝き咲き乱れる様を見たそうです。そして、篠ノ宮の当主となるべき者が生まれるときご神木が光り輝き当主の誕生を祝福するという言い伝えを思い出し、その子こそが篠ノ宮の当主となるべき子なのだと確信し、その子に篠ノ宮の当主の称号を与え、その子を隠し世間から遠ざけ、護ることにしました。カヅキというのは名前ではないんですよ。神が憑くと書いて神憑。要は神降ろしのことを指す言葉で、篠ノ宮家の当主を示す称号です。あの子にはもともと名前なんてなかったんですよ。本当に何も、あの子は持っていなかった。それが今は・・・。」
そう話し、篠宮はどこか嬉しそうに微笑んだ。
「あなた方には感謝しています。これからもどうかあの子のことをよろしくお願いします。」
そう言う篠宮に、和実はどうしてあんな茶番をしたんですかと訊いていた。
「あの一騒動はわざと、ですよね?」
それを聞いて篠宮は可笑しそうに笑った。
「必要だと思ったからそうした。それだけですよ。言ったでしょ。俺はあの子のためだと思うのなら何だってする。今までも、そしてこれからも。」
そう言って篠宮は立ち上がり、少し長居をしすぎましたと呟いた。
「では、俺はこれで。失礼します。」
そう挨拶をして去って行く篠宮の背中を見送って、和実は息を吐いた。
これで正式に花月ちゃんが五号室の住人として契約できる。つまりそれはノルマ達成を意味していて、これでサクラハイムは来年度以降も続けられようになる。皆が望んだ通り、このままの状態で。そんなことを考えて、和実はホッとしたような少し寂しいような変な気分になった。あのまま篠宮さんも一緒に暮らしていられたら良かったなんて言ったら、遙君辺りに怒られるかな。そんなことを思いつつ、でも、和実はサクラハイムで過ごしていた篠宮の全てが偽りだったとは思えなかった。篠宮もいたサクラハイムの日常を思い返して、篠宮さんも本当はあのままあそこの中にいたかったんじゃないかななんて、そんなことを考えて、和実は空を見上げた。




