ステネコムスメ
ぴんぽーん。
ある日の夜の七時過ぎ、普段から来客の少ない僕の部屋のチャイムが久方ぶりに鳴り響く。
「はい、はい」
こんな時間に誰だろう、とドアを開けると。
「にゃー」
猫がいた。
「えっ!?」
目は澄んだ鳶色。体つきはしゅっとしている。間の抜けた僕の声に、少し首を傾げてみせる。
「……すてねこです」
身長は百六十センチ弱。綺麗な黒髪のショートカットは小雨に少し湿っている。
キャミソールが透けて見えそうな白のトレーナーに、少し長めだがホットパンツ。
「何のつもりだよ、四条」
そして普段はしない眼鏡をしている。いつもはコンタクトだったらしい。
「すてねこ。にゃー」
裸足には、ぼろぼろのミュール。ざっと見たところ手ぶらで、財布を持っているかどうかも怪しい。
どうしても放っておけそうもなくて、入れよ、と言うと、彼女は嬉しそうに、みゃあ、と鳴いた。
◆
「……で、何のつもりなんだ」
「みゃあ」
「ふざけんなよ、答えろよ」
「み?」
ためらいもなく部屋に上がりこんだかと思うと、彼女はベッド横の狭いスペースに小さくなって座り、相変わらず猫になりきっている。
「ほら」
バスタオルを投げてやると頭からくるまって、気持ちよさそうな顔をする。そして、またひとつ鳴く。
「一応俺、先輩なんだぞ?」
「にゃー」
「しかも別にお前に借りもないし、普段から世話してるわけでもないんだぞ?」
「んに」
「お前は今、何回か友達と遊びに来ただけの男の家にいきなりひとりで上がりこんでるんだぞ?」
「なっ!」
全くつかみどころのないその猫っぷりにため息をつくと、彼女はいかにも愉快そうに、白い歯を少し見せてくすくすと笑った。
何を聞いても何を言っても、彼女は猫のままだった。どうにも考えあぐねているうちに彼女がくしゃみをし始めたので、シャワー使うか、と尋ねたところ、嬉しそうにまた、彼女はひとつ鳴いた。
立ち上がった彼女はこちらには目もくれず、さっき投げてやったバスタオルを持って風呂場にかけていく。
たまに愛想が良いように見えてすぐにすげなくなる実家で飼っていた猫を、なぜか連想した。
まだあまり着ていない部屋用のTシャツとジャージの短パンをタンスから出して、黙って脱衣所に置いてやる。トレーナーも下着も無造作に脱ぎ捨てられていて、僕に対する警戒心も遠慮も全く見てとれない。
猫ならもうちょっと、と思ったが、実家の猫も飼い始めた子猫のころはそうだった。
人なつっこく誰にでもすり寄っていき、爪を立てたりも全くしなかった。
変わってしまったのは、飼い始めて三年になるころに実家が引っ越してからだ。
一見したところ混乱している様子はみられなかったものの、新居にやはり身体を硬くしていたあの日の猫は、日が暮れるまで押し入れから出てくることはなかった。そしてその日以降、例の人なつっこさは失われ、どこかすました顔をして家にいる時間のほとんどを押し入れで過ごすようになった。
ひねくれた、という言い方がしっくりくる感じだった。
「でも、ハタチ目前で子猫もないじゃんか」
人につくより家につく、というフレーズを思い出して少し背筋の寒くなった僕は、意味もなく独り言をつぶやき悪態をつきながら居間に戻った。
◆
思えば僕は夕食を作ろうとしていたわけで、とキッチンに向かうが、彼女と二人分作るべきだろうか、そうだとしたら何を作ろうか、とお人好しなことを考えて悩んでいると、居間のテーブルで電話が鳴った。ディスプレイに表示された名前は……藤崎先輩。少し、嫌な予感がした。
「もしもし、三井? あたしあたし」
「わかってますよ、何ですか」
先輩とは高校の天文部からの付き合いだ。面倒見がいい人で、同じ大学に進んだ今も、特にそれ以外の繋がりもないのにいろいろとよくしてもらっている。
「ナギサのことだけど」
「……来てます」
そして彼女とはいとこだかはとこだかにあたるらしく、今はルームシェアリングで一緒に住んでいると聞く。これも面倒見のいい先輩らしい話だが、どうやらなかなか難しいらしい。
「やっぱり? ゴメンね、あの子携帯もバッグも置いて飛び出てっちゃったから」
案の定、といったところか。
よくよく聞くと、先輩の彼氏が遊びにきたのがどうも気にくわなかったようだ。もともと人見知りが激しいタイプで、なれなれしくて多少無神経なところのあるらしいその彼氏を嫌がったのだという。そんな彼女に思わず、さすがの先輩もかちんと来てきつく言ってしまったらしい。
「別に泊まるわけでもないしいいか、と思ったんだけどね」
竹を割ったような性格をしている先輩は、特に気にする様子もなく言う。
「それでですね、あの」
「んー?」
言っていいものか少し迷うが、先輩のことだからまあ、彼女のことには理解があるはずだ。
「あいつ、猫になってるというか、自称捨て猫といいますか」
えーっ、と先輩は電話口で笑う。危機感は全くないらしい。そもそも彼女を最初にここに連れてきたのも先輩なのに、どうにかしてくれるつもりは毛頭ないようだ。
「にゃーにゃーしか喋らないんですよ」
先輩は聞いてひとしきり笑って、笑いやんだかと思うとまたしばらく笑って、言った。
「ほーんとに何も言いたくないんだね、私もさすがに困っちゃうわ」
「困っちゃうわ、じゃなくて」
ごめんごめん、と先輩はまた笑いそうになりながら答える。いい人なんだけどなあ。
「嫌だったら追い出しちゃいなよ。もう彼氏帰っちゃったし。ヘコんで」
「できませんよそんなの」
「ナギサはどうしてるの? これ、もしかして聞かれてる?」
やはり言おうかどうか迷う状況だが、言わざるを得ない。ここまできて嘘をついても仕方ないし。
「シャワー浴びさせてます。結構濡れてたから」
「え、じゃあ今来たところなの?」
思っていた答えと違ったので、少し面食らった。
「ええと、はい。十五分くらい前に」
「じゃああの子もだいぶ迷ったのねー」
え? と僕が聞き返すと、変わらない調子で先輩は答える。
「出てったの、四時過ぎだったわよ? 一体どこで何してたんだか」
ささやかな小雨にしては、濡れようがひどいと思ったら。
「いいから迎えに来てやってくださいよ」
「えー、めんどくさーい。出てきたらそのまま押し倒しちゃいなよ」
タイミングはずれたが、結局そう来るか。まあ、そういう人だもんな。
「しませんよっ」
「それか、叱り飛ばしちゃったら? 傷にならないくらいならひっぱたいてもいいよ? そーすりゃすぐに化けの皮もはがれるでしょ」
「それもできません」
先輩はため息をひとつついた。少し間をおいてから、言う。
「ほんとに好きなんだね、ナギサのこと。ちょうどいいからそのまま飼っちゃえば?」
「飼う、って……バカなこと言わないでくださいよ」
ふふっ、と先輩は今度は大人っぽく笑う。こうなると昔から、僕はこの人には勝てない。
「どうせゴハンも食べさせてあげたんでしょ?」
「……まだ、です」
「それみろ」
そんなこんなで完全にやりこめられていた僕だけど、彼女が出てきたみたいなのでそれからすぐに電話を切った。ゴングに救われるような形になった僕に先輩は最後に、飼うんなら毎日ちゃんと世話するのよ、なんて言いやがった。勘弁してくれ。
脱衣所から戻ってきた彼女は、僕のTシャツではなく元のままのトレーナーを着ていた。
まともな神経をしていると言ってしまうこともできるが、一応雨に濡れていたのを心配してやったのに、かわい気のないところがいかにも猫らしかった。
「どうでもいいけど、髪くらい乾かせよ。風邪引くから」
濡れたままの髪でまたベッドの横に入り込んでしまった彼女の前に、ドライヤーを少し乱暴に置く。しばらく微動だにせずにいた彼女は、僕がもう一度キッチンに向かって料理を始めた頃ようやく、独りごちるようにぽつりと鳴いてから髪を乾かし始めた。
◆
結局チャーハンをふたり分作ってテーブルに置いてやると、こっちが言う前からすぐにやって来て食べ始めた。どうやら腹は減っていたらしい。いただきますもごちそうさまも、それらしい鳴き声をあげることもなかったのに、スプーンだけは器用に使いやがる。猫のくせにかわいくないやつ。
そして食べ終わると皿をそのままにしてまた定位置に戻る。これじゃあ結局、本当に猫が迷い込んできたのと変わらない。
「おい」
少なくとも鳴き声が返ってくることを期待したのだが、それさえもなかった。うつむいたままの顔をのぞき込むと、いくぶんさっきよりむすっとしていた。多分電話していたのがばれたのだろう。
「なんとか言えよ」
「……にぃ」
「悪いこと言わないから、おうちに帰りな」
ベッド横のスペースの入り口をふさぐようにしゃがんで、僕はそうさとしてみる。でも彼女は何も言わないし、目を合わせようともしない。
「かわいくないやつだな」
でもそんな様子が不覚にもかわいく見えてしまった僕は、それとは裏腹な憎まれ口を叩いた。そして右手を差し伸べ、人差し指の背で彼女の首もとを撫でた。昔実家の猫に、よくそうしたように。
「に、にゃっ」
嫌がっているのかくすぐったがっているのか、彼女は身をよじって足をばたつかせる。
「ば、ばか。やめろよ」
でも少なくとも彼女の目は、あの日の猫と同じ、濁ったような色をしていた。
彼女が振り回す足に僕はバランスを崩して、図らずも彼女に覆い被さるような格好になった。少し荒い息づかいが聞こえるくるほど間近で見る彼女の腰は細く華奢で、右手一本でどうにでもできそうな気さえした。
「いや……にゃあ!」
しかしそんな邪念ごと、彼女は僕を両手で突き飛ばす。
今度は仰向けに床に倒れた僕は彼女の目を見たまま、ゆっくりと立ち上がった。
「悪かったよ、どうかしてた」
立ち上がった高い目線から見下ろす彼女は目をうつむくのではなく逸らしていて、どちらかというと怯えているというよりばつが悪そうにしているように見えた。
◆
実家の猫は僕が上京してすぐ、家出してしまったのだという。
最後まで人なつっこくは戻らなかったけど、僕が家を出るまで自分の居場所じゃない押し入れにいてくれたことには、どことなく悪い気はしなかった。
死期を悟るような年齢でもなかったと思うし、きっと今もつれないままで、物好きな誰かに面倒を見てもらっていることだろう。
◆
僕も僕でやはりばつが悪く、彼女のいるほうに背を向けてぼんやりテレビを見たり、黙ったままで食器を片付けたり、あるいはシャワーを浴びたりしたが、彼女は出て行く様子もなく、それどころか一度だけトイレに立った以外は動こうともしなかった。
「トイレはしつけられてるんだな」
だんだん調子を取り戻してきた僕がそんなことを言うと、彼女の中の人間は背中を向けたまま、小さく笑った。
その笑顔を見せてくれないところがいかにもやっぱり、かわいくなかった。
いつしか十一時を回って、昨日遅かった上にいろいろと気疲れした僕はちょっと早い時間だとは思ったがもう寝てしまうことにした。
飽きもせずに同じ場所で座り込んでいる彼女のほうに目をやるが、彼女はちらりと一瞥をくれるだけで、何を言う素振りも見せようとしない。
「……勝手にしろ」
ベッドの上からタオルケットを拾って、軽く投げつける。
「ふにっ!」
丸まったままのタオルケットを抱きかかえたまま、彼女はほうっとした目でこちらを見た。
まなざしの色が少し変わったのが気になったが、僕はそのまま電気を消した。
◆
枕だけが残されたベッドに倒れ込むように横たわって、いつものように壁のほうに向かって目を閉じる。
雨のせいで蒸し暑いとはいえやはり何もかかっていないとおちつかないなあ、なんて思ったその時、彼女は僕に、タオルケットを広げてかけた。
「何だよ、帰るのか?」
「あっち、向いてて」
言って彼女は、ベッドに上がってきた。僕が横になった隣の、タオルケットの余った部分の上に横になる。
見ていないのでよく解らないが、おそらく背中を丸くして軽く膝を抱えている。いつまで猫でいるつもりだろう。
「な……、何でだよっ」
「こっち向いたら、また襲うでしょ?」
「違う、そうじゃなくて」
言われるがままに壁に向かったまましどろもどろしている僕は、多分どことなくこっけいだ。
「わかった、わかったから。だったら俺は床で……」
起き上がろうとする僕の、Tシャツの背中をしっかりとつかんで、彼女は。
「にゃあっ!」
……もうホント、勘弁してくれ。
諦めて身体の力を抜き、目を閉じた僕だけど、そんなすぐに眠れるはずもなく。
「…………んぅ」
でも彼女は無神経にも、程なくして寝息を立て始めた。Tシャツの背中は、相変わらずつかんだままで。
「Tシャツ、シワになっちゃうだろうが」
ぽつりと言って、首だけでおそるおそる振り向く。彼女も妙に気を張って疲れたのか、本当に眠り込んでいるようだった。
「ありえないよ、ばか」
まともに上がりこんできた相手がこんな調子だったら、僕だってどうなるかわからない。
でもこいつは違う、大丈夫。今のこいつは、猫だから。
少しだけ無理に上半身をねじって、また懲りもせずに僕は、人差し指の背で彼女の首もとを撫でてみる。今度は何とも気持ちよさそうな顔をして、また少し身体を丸くした。
大丈夫。こんな迷い猫に手を出すほど僕は飢えてないし、そんなどうしようもない奴じゃない。
だから待てる、大丈夫。……化けの皮がはがれるまで、多分。
「んっ……にゃあ」
多分。
どうしてこんなにあざといキャラになっちゃったんだろう。
◆
もう少し短い作品に仕上げようと思ったんですが、同じく公開中の僕の小説「きみがくれた星」直前に何があったか、というニュアンスの作品に転じてしまいちょっと冗長になった感があります。
もしよろしければそちらのほうも読んでいただければ幸いです。
また、もちろん感想もお待ちしています。