胡愛蘭のお召し
その後もとくに何も変わったことは起こらなかった。けれど数日後、愛蘭の房室を宦官が訪れた。
邪魔をしないよう、麗艶と紅花と待っていたわたしの前に姿を見せた愛蘭は、薄い桃色の裙裳の上に紫の衫を羽織って頭も高く三つに結い上げていた。衣装の露出は多いけれど、夕日に照らされて、可憐に見える。
「愛蘭、似合っているわ」
「本当。しっかりね」
「焦らないのよ」
「う、うん」
緊張しているのか真っ青な顔でぎこちなく頷いて、輿に乗せられて行く。
上手くいくといいのだけど……。
愛蘭は早いうちに帰されてくるようなことはなく遅かったようだと。翌日朝一番に押しかけて来た麗艶が教えてくれた。
「そうなの。良かったわ」
「ええ。あの子そそっかしいところがあるし……ちょっと心配で」
「だからってこんな朝のうちに呼びに来なくてもいいでしょう」
「紅花も大変だったわね……」
麗艶は紅花の房室に寄って彼女を引きずるようにしながら連れて来たようで。わたしの房室に現れた紅花は眠そうで不機嫌だった。
それよりも麗艶はいつ寝たのかしら。愛蘭が帰ってくるまで起きて待っていたとか……まさか。
「もちろん待っていたわよ。愛蘭だけじゃなく、花琳のときも待っていたわ」
「ええ?」
「本当よ。あのときは愛蘭を引きずりながら私の房室に来たのよこの人」
「それは……。えと……そんなに、気になるもの?」
友達とはいえ他人の閨の事情がそんなに気になると言われたら、ちょっと嫌かもしれない。
「それは気になるでしょ。早々に帰された人もいたしね」
「いたの!?」
「え、ええ。ほら。最初に呼ばれたって教えたでしょう、黄家の人。あの人は夜更けにもなる前に帰されてきたって話よ? 相手が相手だから本当のところは分からないけれど、その後暴れたらしいから本当なのでしょうね」
「暴れた、は言い過ぎではないかしら」
「そんなことないわよ紅花。房室の中めちゃめちゃにしたって侍女が泣いていたらしいじゃないの。あ、一応内緒でお願いね。あまりおおっぴらに話さない方がいいわ。あの方、黄德妃の血縁の方だもの」
「あら……そうなの」
そんなことが、起こっていたのね。面目をなくした、とは聞いていたけどまさかそんなことだったとは。
皇帝陛下は、帰りたいと言ったわたしのこともすぐに帰すようなことはなく、時間を見計らって帰るようにしてくださったようだったのに……。
ああ、もしかしてその方のことがあったからそうされるようになったのかしら。
「だからもしも陛下のご不興をこうむったら早くに帰されるだろうと思って、心配して待っていたのよ」
「そ、そう」
そうだったんだ。それなら、まあ、分からないでもない……のかなあ。
わたしはそこまでする気はないんですけど。
もしかしてわたしって薄情? いや、どうだろう。
「早くに帰ってこないって分かったら寝たから、ちゃんと睡眠時間はとれているわよ?」
「麗艶は朝から元気よね」
紅花がうんざりしている。
うん、あれだね。紅花はちょっと朝が弱いんだわ。いつもお昼ごろからしか会わないから知らなかった。
「まあ愛蘭も疲れているだろうから、お昼をすぎたら訪ねましょうよ。それまで居てもいいかしら?」
「それは構わないわ」
「近いのだから別に房室に戻ってもいいと思うけど……ごめんなさい花琳、貴女の書物をまた見せてくれる?」
「ええ、いいわ」
桂英に指示して、紅花が興味を示していたものを持って来てもらう。
今度は麗艶がうんざりした声を出した。
「書物はよして……。一緒に遊んで待ちましょうよ」
「少しくらい麗艶も読んだ方がいいんじゃないかしら?」
そちらの方向には一向に興味を示さないから、いつも不思議に思っていたのだけど。
「無理よ。わたくしそもそも読めないもの」
「えっ」
「まあ、読める方が少ないと思うわよ? 私と花琳は読み書き出来るけれどね。ほら、私は父が学者だったから」
「そうなの?」
「読み書き出来る女の方が珍しいと思うわ。わたくしや愛蘭は普通なの。あなたたちが変なのよ」
そういうもの?
わたしは幼い頃からお父様が家庭教師の先生を招いてくださって、ずっとそうして学ぶのが普通だと思ってきたけれど……。
そう話すと紅花は、
「変わったお父上だったのね。塩商なのでしょう? 花琳は一人娘なのよね。なら……商売のことを少しでも分かるようにって考えられたのかもしれないわね」
なんだか慰めるように言われた。
「書物なんか読めなくても、わたくしは踊りが得意だし刺繍も上手いわよ。お嫁さんとしてはよい線いってると思うわ。実際、故郷ではわりと名が通っていたのよ」
「そうねえ。聞いた話によると、今回の宮女募集は募集していたのと別に推薦や命が下ることがあったみたいなのね。麗艶はそちらなのね」
「へぇ……」
そうなんだ。宮女募集とか言っておいて無理やりじゃないのと思っていたけれど、ちゃんと募集もしてたんだ。
麗艶がちらとわたしを見た。
「その反応。前から思っていたのだけれど、愛蘭も花琳もご下命があったのよね。紅花はどうなの?」
「私の場合は、叔父が応募したのよ」
「……ごめんなさい」
「いいのよ。私もどこかに嫁がないといけない年齢になってきていたし、でもまさか後宮に入ることになるとは思わなかったけれど」
とくに無理をしている風でもなく笑う紅花に、麗艶がほっと息を吐いた。
同い年のはずだけれど、その境遇のせいなのか紅花が一番精神的に落ち着いているように思う。落ち着いていないのは愛蘭だ。でもしょっちゅう何かしら失敗しているけれど、憎めない愛嬌がある。
それから三人で遊んで、昼を過ぎてから愛蘭の房室を訪れたものの、侍女に眠っておられるから遠慮してほしいと断られて、その日はそれで終わった。